2-09
「あー疲れた…終わった…。」
試験最終日、那智は伸びをしながら、ようやく訪れた解放感に笑みを浮かべた。
「もう実質夏休みだな。お前予定は?…あるわけねぇか。」
「うん。」
「寂しい奴。俺は海外旅行行ってくる。ハワイ久々ー。」
明日からの一週間は懇談のため、昼には授業も終わる。
早くも訪れた夏休みな気分に、那智はかなり浮かれていた。
◇
「芳野さん、次どうぞ。」
「はい。」
三者面談当日、名前を呼ばれた日奈は立ち上がった。
すれ違いに教室から出てきたのは謙二郎で、母親ともども挨拶をしてきた。
それに対し父の征志が愛想良く返す。
そんな年齢に関係なく爽やかで格好良い征志の笑顔は、謙二郎の母の心をあっという間に奪っていった。
「芳野さんは就職希望という事ですが…何かやりたい職業はありますか?」
「いえ。」
「…親御さんと進路のお話しは普段なさいますか?」
「いえ。」
「すいません、娘は普段から寡黙なもので…。就職のことも今知りました。」
日奈が父と並んで座るのは昨年の三者面談以来だった。
征志は前回以上の困り顔で進路調査に目を通す。
ただ目を通すと言えるほど記入はしておらず、空白の部分が目立っていた。
「芳野さんは二年生の頃から全て未定で進路調査を提出していましたが…心境の変化はありましたか?」
「いえ…特に…。」
日奈の返答には担任まで困った顔をした。
何を聞いても何もないと言う答えが一番困るものだった。
「では…好きなことは?趣味はありますか?」
「…特に。」
「そう言えば芳野さん、読書が好きですよね?本の関係から進路を考えるのはどうでしょう…?いきなり出版関係の就職とかではなく、進学の方面でも…。お父様はどうお考えですか?」
「……日奈、進学についてどう捉えている。」
征志は担任からの質問を日奈に流した。
征志自身もどうすれば良いのか分からなかったのだ。
それは日奈にしても佐奈にしても、目標や夢がないことが原因だった。
先程まで佐奈の教室で面談をしていた中で、佐奈は進学を希望していながら具体的に何をしたいのかはハッキリ決めていなかった。
特に理由もなく、大学へ行くのは当たり前だという固定概念だけで進路調査を記入したようであった。
決して今まで何もさせてこなかった訳ではない。
父として、習い事がしたいと言った佐奈には何でもさせてあげた。
ただ、どれも長くは続かなかった。
日奈に対しても、好きな本や白い家具を自由に買い揃えさせ、本人の希望通りの生活を与えた。
ただ、それは好きだと言える程のものではないと今知った。
何かを与えても持続しない佐奈と、何かを与えても何も感じない日奈。
二人の娘の将来は、征志自身の最大の悩みでもあった。
「学びたいものがないのに大学へ行くのは時間とお金の無駄だと思います。」
「分かった……。就職先を探そう。」
「待って下さい!まだ時間はあります…!就職一本に絞るのは芳野さんのあらゆる可能性を狭めることにも成りかねませんし…。」
「先生、大学にはいつでも行けますよね…?今の私には目標がないので、無理矢理進学を決めることの方が、あらゆる可能性を狭めることに繋がると思います。」
日奈の主張に担任は押し黙った。
日奈の言いたいことも分かるが、それ以上に大人の世界は甘くないと伝えたかった。
「日奈…そんなに偉そうなことを言うのは行きたい道を見つけてからにしなさい。進学先で夢を見つける可能性だって十分にあるだろう?」
「……。」
日奈はなんと返して良いか分からず黙り込んだ。
夢、可能性、将来、それは日奈にとって見つけにくいものだった。
「この夏の間にもう少しだけ…考えませんか?進学でも就職でも、芳野さんが興味のあるものを見つけてくれたなら、私も全力でサポートしますので…。」
「はい…。」
「まずは好きなこと、芳野さんが出来ること、少しでも気になることを探して紙に書き起こしてみて下さい。もちろん話ならいつでも聞きますので、相談していきましょう。」
「…はい。」
グッタリと頷く日奈を見て、担任は不安そうに笑った。
今の段階ではこれ以上話が広がらない。
それからは成績や普段の学校生活について話が移っていった。
「芳野さんは、一年生の頃から同じクラスの藍原君とよく一緒に居るのを見かけます。仲がいいんですね?」
「藍原…那智君?そうなのか日奈?」
「うん…。」
「そうか…この子と那智君は幼なじみなものでして…。まだ仲良くしてくれてたんだな。」
征志は嬉しそうに表情を緩めた。
担任もようやく和んだ教室の空気にホッとして同じように微笑み返した。
「芳野さんも藍原君も礼儀正しいと評判ですよ。授業中の態度もそうですし、課題の提出もキッチリしていて、真面目に取り組んでくれていますし。」
「そうですか…後はもうちょっと勉強する努力をしてくれれば良いんですけどね。」
征志の言葉に日奈の心がザワザワした。
学校という機関の中では勉強が全てと言っても過言ではない。
こうした面談の度に『勉強をする努力をしろ』と発言する征志にはいい加減ウンザリしていた。
「もう卒業なんだから…最後ぐらい頑張りなさい。」
「はい…頑張ります。」
最後だけは平均点を上回る点を取ろうかと思案する。
しかしそれでは今までの努力が水の泡だと、佐奈の苦手な教科以外を上げることを密かに決めた。
「芳野さーん、お疲れさま~。」
面談が終わり教室を出た日奈を、少し先の廊下で待っていたのは謙二郎だった。
あれから征志の格好良さに興奮した母を宥め、色んな意味で日奈が気になった謙二郎はわざわざ面談が終わるのを待っていた。
「お疲れ様です…。」
「ちょっと今時間ある?面談の話とかちょっと聞きたくてさ…。」
謙二郎が日奈を待っていた理由の一つはこれだった。
学年で二人だけ就職を希望している身として、どんな話し合いが行われたのか聞きたかった。
その申し出に日奈は少しだけ戸惑いながら頷く。
「じゃあお父さんは帰る…。今後も日奈を宜しくお願いします。」
「あ、はい。こちらこそ!」
元気良く返事をした謙二郎に、征志は優しく微笑んで階段を降りていった。
「クソ格好いい…。愛想の良さも佐奈ちゃんそっくり、いいなぁ…。」
謙二郎の母ばかりでなく、謙二郎までもが目を細めて、征志の後ろ姿を見つめていた。
そして最後には、あーゆー男になりたいと密かに思った。
「話…。」
「あ、そうそう。ここじゃなんだし屋上ー。」
「ぁっ…、」
謙二郎は日奈の腕を取って引っ張るように歩き始めた。
試験も懇談も終わり、謙二郎の足取りは幾分軽い。
これから始まる夏休みに浮かれている者がここにも一人居た。
「あっつい!場所間違えたぁー!」
「……。」
「まぁ良いや。日陰行こ。」
「手…離してくれませんか…。」
「あーごめんごめん。」
謙二郎は日奈の手をパッと離して日陰に座り込んだ。
日奈も間を開けて隣に座る。
二人はようやく話す体制へ入った。
「僕、思う訳ですよ。進学とか意味ないなぁって。別に夢もないのにさぁ。」
「…うん。」
「好きなこと探せだの出来ることから模索しろだのうるせぇよ。知らねーよ。趣味なんてねぇよ!と思うわけ。どう思う?」
「私も…同じようなことを言われた…。」
「あちゃー。」
謙二郎は大袈裟にリアクションをしてから溜め息を吐いた。
自分だけに寄り添うような言葉を掛けながら、日奈にも同じ言葉を掛けた担任が恨めしくなった。
「芳野さんは夢、見つかりそう?」
「……。」
「そっか…。」
無言で頭を横に振る日奈を見て、難しいよなぁと唸る謙二郎。
夏休みを目前に出された大きな課題が、二人の前に立ちはだかっていた。
「……。」
「……うるせ。」
束の間の無言に、蝉の生き生きとした声が聞こえる。
この蝉のように生まれ持った使命があったなら、一体どれだけ楽だろうか。
そんな不毛な考えを抱いて謙二郎はグッタリとした。
「暑い…もうすっかり夏だなぁ…。」
「うん。」




