2-07
シャーペンを手から離し、両手を膝の上に置いた日奈を見て、那智は顔を上げた。
「詰まったか?」
「私、勉強出来るよ。」
「…は?」
「普段から、勉強してる…。テストはわざと悪い点を取ってるの。」
日奈は姿勢を正し、淡々と告白を始めた。
それは那智になら本当のことを話しても問題はないと感じたからだった。
「現実逃避。」
「映像記憶。」
日奈は四文字の言葉を四文字の言葉で言い返した。
那智は日奈の放つ異様な雰囲気に気づき、シャーペンを机に置いた。
ドキドキしながら日奈を見つめる。
映像記憶、よく分からないが聞いたことのある響きだった。
「一度見たものを記憶する能力…。殆どの人は幼少期に消滅するらしいけれど、私はまだ持続してる。」
「まさか…。」
「那智君にはお腹の中にいた頃の記憶ってある?普通、妊婦さんのお腹が動いたら赤ちゃんが蹴ったって言うでしょ?でも私は、この手でママのお腹を押したことを覚えてる。」
日奈は手のひらをにぎにぎとして、最後にグッと握り締めた。
真っ黒で何も見えない空間、母と繋がり、母に包まれ、ユラユラと外の音を聞いていた。
「外に出た時は真っ白で何も見えなかった。でも、ママをママだと認識した時に、この人が私にとって特別で…大切な人なんだって分かった…。」
「マジか…。」
「引いちゃうよね…?こんなのは特殊だから、ずっと言えなかったの…。今までずっと、那智君は気にかけてくれたのに、今日も、ごめんなさい。」
衝撃の事実を突き付けられたら那智は、未だに信じ難い表情で考え込んだ。
記憶力が良いということは、勉強をする意味がないという結論に結びつく。
確かに特殊だし、この能力を隠す為に馬鹿のフリをしていたというのも筋が通っている。
そう言えば日奈は毎日読書をしていたと、那智は自然と納得していった。
「俺らを…泣かせた理由は?」
先程は話を逸らしてしまったが、自分が日奈に泣かされた理由が気にかかった。
映像記憶の能力があるならば、詳細を忘れるはずがないという考えからだった。
「それは…分からない。」
「はぁ?映像記憶持ってんだろ?」
「覚えてるけど、でも分からない…。」
「何だそれ。説得力ねぇな。嘘なんじゃね?」
疑うような顔をした那智を見て、日奈は目を瞑って記憶を辿りながら、どこの情報を切り取るかを考えた。
とっさに蓋をしてしまうほど、その記憶は鮮明で嫌な記憶だった。
わざわざ詳細を口にしたくないのが本音で、那智を泣かせてしまう直前の記憶だけを切り取ることにした。
「児童書のコーナーでね、私はエルマーの冒険を読んで欲しかったのに、那智君がタンタンの冒険を持ってきたの。それで、那智君の絵本を読むから、エルマーの冒険は戻してきなさいって言われて…」
「は?何そのエピソード。」
「那智君、タンタンの冒険大好きでいつも借りてたよね?」
幼い頃の記憶がぶわっと蘇り、那智は鳥肌を立てた。
言われてようやく思い出すような微かな記憶。
日奈に言われた通り、那智は馬鹿の一つ覚えのようにタンタンの冒険を借りていた。
これで日奈の話に信憑性がついてきたと、改めて日奈と向かい合った。
「それで…?」
「それで私、悔しくて…那智君を本で叩いたの。」
「ヤバ…お前なんてバイオレンスなガキなんだ。しかもエルマーの冒険ってそこそこ分厚いから。一回殴らせろ。」
「ごめんなさい。」
一切ピンとこないが、どこか腑に落ちる所はあった。
ただもう一つの疑問は虎と新太だった。
あの二人が泣いていた理由も思い出せない。
「新太と虎は?」
「…同じような、感じ。私の持ってくる本がいつも、対象年齢が一個高くて分厚かったせい。皆に八つ当たりしてたの…。」
「つまり、映像記憶か。俺らは年相応の絵本ばっか読んでたけど、お前だけが児童書読んでて浮いてたと。」
「うん。」
那智はようやく納得して、周りの迷惑にならない程度に小さく唸り声を上げた。
浮いている浮いているとは思っていたが、一つ秘密が明かされたことによって、那智の中で日奈のイメージが大きく変わっていった。
幼い頃の日奈と現在の日奈は不思議と同一人物に結びつかないような印象だったが、カラクリさえ分かれば同じだった。
「お前が変わってんのはそのせいか。」
「かな…?」
「佐奈はそれ知ってんの?」
「うん…家族だもの。」
勉強どころではなくなったと那智は考えてから、コイツに勉強は要らないのだと瞬時に思う。
ずっと頭が悪いと思っていた日奈が実は頭が良いなど、まだまだ実感が湧かない。
それでも那智は、何故だか根拠もなく日奈の言葉を信じていた。
日奈がそう言うのならそうなのだろうと、本人すら自覚していないレベルで信頼感を持っていた。
「そんな話、佐奈から聞いたことない。」
「佐奈ちゃんは言わないよ…。だから私も、ずっと言わなかった。」
「俺は?俺に話して良かったのか。」
二人が今までひた隠しにしてきた事実を那智は知ってしまった。
知らされてしまった。
今までの十数年間を、嘘で塗り固めて生きてきたとなると、相当な決意があったに違いない。
自分がもし同じ立場ならば到底成し得ない事を日奈がしてきたのだと想像し、改めて聞いても良かったのかと心配になった。
「那智君は、いつも声をかけてくれた。幼稚園でも、小学校の時も、中学も、今も…朝一番に話すのは那智君だった。」
「…悪口しか言ってないけど。」
那智は苦い表情をして顔を逸らす。
いつしか日課のようになっていた日奈への誹謗中傷を、あたかも前向きに捉えているような語り口に居たたまれなくなった。
「それでも、気にかけてくれた。今も、話を聞いてくれる。那智君は口が悪いけど、いつも本当の悪口は言わなくて、本当は世話好きで優しい人。」
「なんだよそれ…。」
「何というか、その優しさを前に、嘘をつき続けるのも失礼だなぁと…。」
「マジで褒めても何も出ねーぞ…。」
那智は照れくささを誤魔化すために日奈を睨み付けた。
日奈は人をよく見てると思う。
確かに那智は日奈に対して誹謗中傷を繰り返してきたが、陰口という行為自体は嫌っていた。
誰かが悪口を言っていても聞き流すだけで深くは同意せず、適当にやり過ごしてきた。
日奈だけが例外だったのは、普段悪口を言わなかった分のしわ寄せだったのだと気がつき、那智は尚更居心地が悪くなった。
「那智君は必要以上に話さないでしょ?だから一緒に居たら楽だなぁと。」
「あぁ…それは俺も思う。すっげー楽。」
那智はふと、自分達はどこか似ているのではないか、という考えに至った。
浅い会話のみを必要としていて、それ以上に、精神的な部分で深く心を許せるような誰かをお互いに必要としていたのかもしれない。
それこそが今、日奈と共にここに居る意味だと那智は悟った。
「なぁ、俺はお前のヒーローだったりするのか?」
「…その台詞、自分で言ってて恥ずかしくない?」
「オイ、やめろ。聞いた俺がバカだったわ。」
「ちなみにヒーローだと思った事ないよ。」
「黙れ。」
情報が莫大過ぎて全てを処理仕切れない。
明後日には試験だと言うのに、本当に勉強が手につかなくなった。
「チッ…シネ、バカが。」
「多分、那智君の方が……。」
「あ?言ってみろよ。続き言ったらエルマーの冒険で殴るからな。」
「ごめんなさい。」
速攻で頭を下げた日奈に、那智は思わず笑ってしまった。
これから武器としてエルマーの冒険を購入するしかないな、と密かに計画を経ててまた笑った。
◇
18時の10分前、閉館時間を知らせる館内放送が流れた。
「マジか…。」
「……。」
あれからの二人は、児童書コーナーで殆どの時間を使ってしまった。
初めはエルマーの冒険を探す所から始まり、タンタンの冒険や他の懐かしい絵本を見つけていくうちに夢中になってしまった。
そんな所での館内放送は、二人を現実に引き戻す役目を大いに果たしていた。
「勉強してねぇ…。」
「そうだね、頑張ってね。」
「お前…前から思ってたけど、たまに図々しいよな。お前に心はないのか。」
「ないよ。」
「いやあるだろ。冗談通じねーな。」
淡々と話す日奈に那智は笑い、エルマーの冒険をちらつかせた。
まだここでは叩かない。
ここぞという時に使おうと、ニヤニヤ笑った。
「本は読むものです…。」
「誰が言ってんだよ。エルマーは武器だろ?」
「エルマーは九才の少年。那智君…戻してくるね。」
日奈は那智の手から本を抜き取り、元の場所に戻しにいった。
それを後ろから見届け、戻ってきた日奈と共に図書館を後にした。
「今日はありがとう。」
「おー、すげぇ疲れた。」
二人は別れ道で一度立ち止まり、向かい合う。
那智は一瞬家まで送ろうかと考えたが、まだ空は明るいし、そもそも彼女でもないのに馬鹿らしいと考え直した。
「じゃあ解散。」
「また学校でね。」
解散と言いながら敬礼のポーズをとった那智につられて日奈も敬礼のポーズをとる。
その後は余韻を残すこともなく別れたが、今のやり取りが案外可愛いものだったことに、那智は口元を緩めて帰り道を歩いた。




