1-18
「藍原君、何話してるの?」
「っ…!」
横から声がかかり那智はハッとした。
それは今現在、他人には聞かれてはならないレベルの話をしていたからだ。
"佐奈は誰にでも股を開く女"という下世話な話題を、学校で広める訳にはいかなかった。
「なんかつまんなそうだし私らと話そうよ。クラス替えしてから結構一人じゃん?」
何度か話した事のあるその女子は、那智の驚いた様子を気にする風もなく要件だけを話し出した。
聞かれていなかった事実に内心ホッとし、那智は口を開いた。
「また機会があればな。俺地味に忙しいから。」
「えー。…じゃあ、また今度ね?」
彼女は不満そうにしながらも離れていく。
その様子をコッソリ目で追えば、後ろで様子を伺っていたグループに戻るや否や、こちらを見ながらコソコソ話し始めた。
当然だろう。
今、クラス内で那智と日奈は一番目立って浮いている。
女子だけでなく男子まで好奇の目で那智を見ていた。
「いいの…?行かなくて。」
「…うざい。」
「那智君は、女の子が嫌い?」
「なんで。」
「だって…楽しそうじゃないもの。」
その答えに溜め息を吐いた。
呆れたように口を開く。
「お前な…知らねぇと思うけど、俺は女に困らないくらいモテるし遊んでんの。意味分かるか?」
「…知ってるよ。でも、女の子と一緒に居ても隣を歩いてるだけって感じ。…つまらなさそう。」
今度は驚いた。
日奈は意外と人を見ている。
「俺…そんなにつまらなさそうか…?」
「…つまらないというか、無理をしているような……。」
自分は無理をしている?
それは初めて考えた事だった。
那智の中で、無理をした記憶は欠片もない。
「自分に嘘を吐くのはしんどい事だから…それがどんなに辛い感情でも、自分に正直にならないと心が苦しいと思うの。」
「いや…別に…。」
「無理はしなくて良いんだよ。」
「っ……、」
那智は急に心が苦しくなって目に涙が溜まった。
急いで目元を隠し、前を向いて机に顔を伏せる。
気を引き締めないと涙が出そうだった。
心臓が痛いくらい鳴っている。
『俺、無理してた…?でももう、無理はしなくて良い。もう無理はしなくて良い…。』
その言葉が、急激に腑に落ちてしまった。
自分はずっと無理をしていて、それに気付かず居心地の悪い日々を過ごしてきた。
でももう、無理はしなくても良いのだと。
鎖がとれたように、何かが変わった瞬間だった。
◇
「なぁ。」
帰りのホームルームで那智は日奈の方を向いた。
「少しだけ、感謝してる。」
「そっか…。よく分からないけど、良かった。」
日奈は口元を少し緩ませた。
那智の顔色が良いように見える。
なにより、那智から罵倒以外の言葉を貰うのは初めてに近くて、日奈はとても嬉しかった。
「…笑うなよ。調子乗んなブス。」
「うん…乗らないよ。」
「……、」
笑わないように唇にキュッと力を入れる日奈を見て、今度は那智が笑いそうになる。
距離をとることで目を背け続けていた那智は、日奈の言葉でようやく決心が着いた。
諦めるなどと言う投げやりな考えではなく、向き合おうと考えていた。
新太や佐奈にした事は一言で許してもらえる程度のものではない。
自分で仕出かした事の結末にちゃんとした形を作ろうと思っていた。
「新太。」
「……。」
警戒して目も合わせずに身構える新太を那智は悲しい目で見た。
話すのも嫌だと伝わってくる。
「ごめん。」
「何が…。」
「…急に新太の事傷つけて…、スゲェ後悔してる。新太の為に‥なんて自己満足でしかない行動だった。」
「俺のため…?ふざけんなよ。」
静かな怒りを向けられる。
確かに、正当化している自覚はあった。
そうしてでも守りたいものがある。
「…ごめん、俺も佐奈とヤってた。」
「っ……。」
「でもな、疑問に感じてたんだ。こんな関係続けてて良いのかって。だから…純粋な新太みてて、昔の自分見てるようでたまらなくなって…、」
「もう…どーでも良いし。」
新太は俯く。
堪らないのはこちらの台詞だった。
こんなカミングアウトをされては自分の立場がない。
虎だけではなく、那智とも関係を持っていたなど…新太にしてみれば馬鹿にされているようなものだ。
「それで那智はどうしたいわけ?」
冷たく言い放つ。
新太が剥き出して怒らないのは、せめてもの抵抗だった。
子供じみた発想で衝動的に行動を起こした那智とは違う…という主張の現れだ。
「俺は…許して、欲しい…。」
新太の質問に、那智はそう返した。
出来ることならば、許しが欲しかった。
「俺が許したらどうなんの?」
「…。」
新太はとても優しい存在だった。
一緒に居ると落ち着くのだ。
日奈の言葉を借りるなら、無理をしなくて良い存在なのだろう。
だからと言って『友人で居て欲しい』と、たった一言口に出せないのは、小さなプライドが邪魔をしている所為だ。
「もう良い…どうせ俺はただの引き立て役だろ?悪いけど他の奴当たれば。」
「…そんなん言ってねぇだろ。」
「本当は内心見下してきたくせに…。」
「…なにそれ。俺ら友達だろ?」
「どうだか…。」
新太自身、那智をブランド品として利用していた面があったため、信用出来ない部分も大きかった。
きっと見下されているに違いないと疑惑を抱いて過ごしてきた新太にとって、今回の事は疑惑を大きくする引き金となってしまった。
「こんなに信用されてないんじゃ、もう無理かもな…。」
新太の拒絶を見て那智は俯いた。
「……那智が悪い。」
「そうだな。」
別れ話でもしているようだと少し笑いが込み上げてくる。
確かに別れ話ではあるが…。
「俺にはもう何もなくなった。佐奈と虎には多分嫌われたし、凛子とも性格合わないし、つーか人間関係面倒。」
「いきなり何だよ。」
「俺、普段そんなに話さねーだろ?でもな、これでも心開いてるつもりなんだよ…特に新太には。」
「へー…。」
どうにでもなれと、那智は最後の最後で本心を露わにした。
佐奈のことはお姫様のように気を遣っていたし、凛子は佐奈の友達と言うだけでそれ以上ではない、そして虎とは一定の距離感を保っていた。
そんな中、那智にとって新太の存在は大きかったのだ。
「そう警戒されると、なぁ…。」
「自分の胸に手を当ててよく考えてみろ。」
「…悪い。」
心底イヤそうに身構える新太を目の前に、那智は制服の胸元をグチャッと握り潰して謝った。
「本当にごめん。俺、新太とはやっぱり仲良くしてたい…。友達で居たい…。」
ハッとして那智の目を見ると、今度こそ素直に出てきた言葉と共に、今にもこぼれ落ちそうな大きな涙がそこにあった。
いつも堂々としていて、どこか冷たい印象の那智にしては素直な反応だ。
新太は意外そうに見つめる。
「…。」
しばらく無言が続く。
新太は考えに考えて、那智の肩を思い切り叩いた。
『俺、単純じゃん。』
ここまで言われて、嬉しくない訳がない。
失ったものもあるが、この目の前の友達を手放す理由が見つからなかった。
◇
新太と和解できた那智は自宅に帰ると佐奈に電話した。
緊張で喉が渇いてくる。
『…はい。』
「…よう。今良いか?」
『……うん。』
お互いに気まずくて無言が続く。
このままでは駄目だと思った那智は思い切って口を開いた。
「佐奈、この間は本当にごめん…。」
『うん…。』
「それでな、色々考えたんだけど…。やっぱり佐奈と距離置きたい。」
『っ…私、もっと那智との時間作るよ。だから、捨てないで!お願いだからっ…』
佐奈の必死な声。
今にも泣き出しそうな佐奈の声が段々と震えていくのが分かった。
「そう言う身体だけとか本当は嫌なんだよ。」
引き止める声に惑わされないように那智はしっかりと伝えた。
電話にして本当に良かったと思う。
もし目の前に居たならば思い切り抱き締めてしまいそうだった。
『なにそれっ…!今まで散々私以外とも遊んできたじゃない!なのに今更嫌なんて…!』
「これからはもう遊ばない。疲れた。」
那智は正直な所、心の中で佐奈の不幸を願っている反面、誰か一人を愛せる人間になって欲しいとも感じていた。
ただその誰かになれる自信を那智は失って愛し続ける事を辞めたかった。
自分だって幸せになりたい。
那智は全てから解放されたかった。
『私が悪いの…?それとも他に好きな人出来た?』
「正直な話さ、他の奴と遊んできたのは嫉妬して欲しかっただけなんだ。でも佐奈は俺1人じゃ満足しないだろ?」
『……。』
「俺はもう誰とも付き合わないよ。」
那智が言える精一杯の本心だった。
なるべく佐奈を傷つけない言葉を選んで、それでも距離を置きたいと分かってもらえるような台詞を吐く。
『………。』
言いたい事を言い終えた那智は佐奈の答えを待った。
『ダイキライ。』
「っ……」
プツリ。
通話が切れて無機質な電子音が耳元で鳴る。
これが佐奈の答えだと知った。
「……しね。」
誰に…と言う訳でもなく嫌な気持ちを振り払うように呟いて、那智は布団に身体を預けた。
佐奈との繋がりがとても細くなったのだ。
ただただ寂しくて悲しかった。




