1-15
電話の音が鳴った。
「はい、日奈です。」
いつもは動作がゆっくりとしている日奈にしては、珍しく素早い動作で電話をとった。
そして十秒もしないうちに電話をきると、目の前の食器を焦るように片付け始めた。
冷めるのを待ってまだ手を着けていない淹れたばかりのお茶まで片付けられる。
「どうした?」
台拭きを手に戻ってきた日奈に問う。
「人が来ます…ぁ、きて。」
「…おい!」
日奈は焦るように新太の腕を引っ張り無理やり立たせると、寝室の方へ連れて行った。
「隠れてて、駄目なの。」
意味不明な事を言う日奈に新太は声を上げようとしたが、寝室の向こう側…今まで新太達が居た部屋に人が入ってきた気配を感じ、押し黙った。
『オイ。』
「すいません、今行きます。…ごめんね、」
小さく謝った日奈は、まだ手に持っている台拭きを握り締めて寝室を出て行った。
新太はいきなりの事に驚きながら、どうしたものかと別の意味で心臓を高鳴らせた。
なにより日奈への訪問者とは珍しい。
興味津々と扉に耳を当てて聞き耳を立てた。
「すいません、今から拭きます。」
「…飯。」
「はい。」
日奈への訪問者、それは夏目遙斗だった。
いつも通りせっせと料理をする。
「…おい。ココに誰か居たか。」
その言葉に新太はドキリとする。
誰か居たかと聞いた声が怒りを含んでいた。
自分は日奈に誘われたまま気紛れにここへ足を運んだだけではあるが、今の隠れている状況では心臓に悪い。
「椅子が暖かい。」
「私がそこに座っていました。紛らわしくてごめんなさい。」
「……。」
日奈は準備をしていた手を止めるとクルリと回り一度頭を下げて謝った。
そして証拠を隠滅させる為にマグカップの中身をコッソリ流した。
「誰も入れんじゃねぇぞ。」
「はい。」
この部屋に夏目以外を居座らせない事は暗黙の了解となっていた。
夏目自身が周りの目を気にせず過ごせる場所だという理由で、他の人がここを訪れるのを嫌っていた。
「ま、そもそもお前みたいな奴にダチなんて居ないよな。」
「………お酒は飲まれますか。」
「見りゃ分かるだろ。まだ仕事だ。殺すぞ。」
夏目はテーブルに料理を並べている日奈の髪の毛を鷲掴みにした。
「髪、短くなったなぁ?俺のお陰だろ、感謝しろよ。」
「…ありがとうございます。」
「今度は刈ってやろうか?スッキリしてダチも出来るんじゃねぇか。」
「……。」
「何か言えよ。」
ガシャンと音がした。
扉越しにしか会話を聞けない新太は、その異様な空気に違和感を覚えた。
日奈の様子では慣れているように思えたので相当深い関係である事は確かだ。
しかし相手の男は異常なくらい当たりがキツいように思える。
「本当は誰か居たよなぁ?よく俺に嘘なんて付いてくれたな。」
その声に反応して身体が反射的に震える。
間もなく扉の向こう側から嫌な音が聞こえてきて新太はゾッとした。
純粋にその男が怖かった。
「っ…、」
「苦しいか?」
「っ…ぁ、…」
「俺もな、苦しいんだよ。俺が嫌な思いしたんだ。お前も苦しまないと割に合わないだろ?」
急に日奈の声が聞こえなくなり、新太は息を潜めながら嫌な想像をした。
何が起こっているかは分からないが、何かが起こっている事は確かだった。
「約束しろ。」
「……。」
首に巻き付いた夏目の指に苦しみながら日奈は何度も頷く。
夏目はその様子を冷たい目つきでしばらく眺め、ようやく食い込んだ指をゆっくり離していった。
「約束破ったらただじゃおかねぇぞ。」
次は何をされるか分からない。
日奈の頭の中で『針千本飲まーす』と、有名な曲が流れる。
急いで首を縦に振った。
「絶対に破りません、夏目さん。」
夏目さん。
その名前に驚いたのは新太だった。
新太が知っている夏目は夏目遙斗しか居ない。
彼は芳野の親戚で新太とも昔から面識があった。
だが夏目はいつもは抜かりなく猫を被っているので、今扉の向こう側に居る男が“あの遙斗”だとはどうしても思えなかった。
『声…似てるな。でも雰囲気も話し方も違うし、遙斗さんのご兄弟?』
新太のよく知っている夏目遥斗とは似ても似つかない姿にまさかと思う。
「まぁいい。俺も今日はお前に構ってやれる時間はねぇんだ。お前みたいに暇人じゃねぇからな。」
ある程度満足したのか夏目は黙々とご飯を食べ、10分程すると部屋を出て行った。
「もう行きました。すいません。」
「また帰ってこねぇよな?つーか…誰だよアイツ。どんな関係……血!血出てる!」
新太は日奈に聞きたい事が山ほどあったが、日奈の首に引っ掻いたような跡があり、一筋の血が溢れるように流れるのを見て焦りだした。
「…後で拭きます。」
「いやいや、失血と消毒!」
新太が焦ったように言うので、日奈は言われた通り消毒をしてから傷に絆創膏を貼った。
傷自体はとても小さかったが放置して血を垂れ流しにしていたので大怪我に見えたらしい。
「ビビった。」
「ご心配お掛けしました。」
「いや…それでさっきの奴誰?夏目って言ってたし…遙斗さんのご兄弟とか?」
新太の知る夏目遙斗はやはりこんな乱暴者ではなかった。
だから夏目遥斗だとはどうしても思えない。
「夏目さんは夏目さんです…よく、分かりません。」
「なんだそれ…下の名前が分からないのか。」
「はい。」
本当は知っていて知らない振りをした。
夏目が佐奈にさえ隠してきた本性を新太に教える訳にはいかなかった。
「これ…イジメというか…DVなんじゃね?いつもこんな事されてるのかよ、」
「…私が嫌な思いをさせたから。だから、私が悪いの。
「夏目さんは夏目さんです…よく、分かりません。」
「なんだそれ…下の名前が分からないのか。」
「はい。」
本当は知っていて知らない振りをした。
夏目が佐奈にさえ隠してきた本性を新太に教える訳にはいかなかった。
「これ…イジメというか…DVなんじゃね?いつもこんな事されてるのかよ、」
「…私が嫌な思いをさせたから。だから、私が悪いの。」
「…そうか?結構ヤバい感じしたけど、」
「大丈夫。それより引き止めてごめんね。時間大丈夫かな?」
日奈は少し強めに言って、わざと話題を変えた。
「いや、大丈夫だけどさ…そろそろ帰るわ。」
日奈のこれ以上は何も聞いて欲しくないという気持ちを察し、新太は荷物を手に取った。
質問でさえ避けるぐらいだ。
相当言いたくない関係に違いない。
「八尋君、ちょっと待ってて。」
新太が帰ろうとすると呼び止められる。
日奈は備え付けの電話で使用人を呼び出した。
「お前が案内すれば良いだろ。」
「私と八尋君が一緒だと、不自然。」
「…今更。」
言い分は分かるが何だか可笑しくて新太の口元が少し緩んだ。
「八尋君は、笑ってる顔が一番素敵だと思う。」
「…んだよそれ。」
急に褒められた新太はムッとする。
社交辞令でもなんでもなく、本心でそう言ってるような気がして余計に照れくさかった。
「失礼します。」
返答に困っているとノックと共に見たことのある使用人が入ってきた。
「八尋さんをお願いします。」
「承知しました。では八尋様、参りましょう。」
「あ、すいません…。オイ、今日のこと絶対誰にも言うなよ。アイツにもな。」
「大丈夫。絶対に言わない。」
日奈はコクリと頷いた。
それを見て新太は使用人と共に部屋を出て行った。
しかし閉まったばかりの扉が開き、新太が再び顔を覗かせた。
「それと何かあったら周りに相談しろよ。お前見た目はアレだけど、話せない奴じゃねぇし。」
「…ありがとう。」
「じゃあな。」
バイバイ、と返す前に扉が閉じる。
今度こそ部屋に一人となった。
「八尋君、大変そう。」
自身の小さな呟きが、日奈には冷たい声に聞こえた。




