第五話 最後の戦い~エピローグ
■1945年(昭和二十年)2月28日
フィリピン ルソン島 クラーク基地
日本軍 独立戦車第八中隊
「第二小隊、陣地転換完了しました」
「轍は消したか?」
「はい、ぬかりなく。小官が直接木に登って確認しましたが、敵機から見ても分からないはずです」
ならば良しと岩下大尉は頷くと第二小隊に小休止を命じた。
先日、独立戦車第八中隊が16両の敵戦車を撃破した戦いの後にも、敵はさらに2度の大規模な攻撃を仕掛けてきた。だがそのどちらも無難に撃退している。
そして彼らが防備をさらに固めるため独立自走砲中隊と複郭陣地に籠ってからは、敵の地上部隊による攻撃はぱったりと止んでしまった。
どうやら敵はマニラ攻略を優先し、彼らを無理攻めせず陣地に押し込める方針に転換したようだった。そのためここ1週間ほどは大きな戦闘が発生していない。
ただし航空攻撃の手は緩められていない。敵の攻撃も巧妙になってきており、いくら陣地転換をしても戦車の轍を追って森の中まで攻撃してくる。
今では移動後に木の枝で轍を消すようにしているが、そのことに気付くまでにオハ改が3両も失われてしまった。
膠着状態が続いているが物資にも限りがある。できれば後退できるうちにしたかったが……岩下大尉がそんな事を考えていると、隊長車の通信兵が司令部からの通信を伝えてきた。
「方面軍司令部より。独立戦車第八中隊は独立自走砲中隊とともにマニラ方面へ転進せよとのことです」
「待ちに待った後退命令だが……少々遅すぎたな」
岩下大尉はため息をつくと、今や一緒に行動している独立自走砲中隊の鷲見中尉の顔を見やった。
「はい大尉殿、しかし自分は元から死守する覚悟でしたので、何も変わらないであります」
鷲見中尉の方も既に半ば諦め覚悟を決めている様だった。
もうマニラ方面へ脱出することなど出来ない。既に彼らは敵中で完全に孤立してしまっていた。
彼らは頑張り過ぎたのだ。というより敵の進撃速度が予想を超えて速すぎた。
それでもまだオハ改は5両残っている。自走砲2両も健在である。物資もやりくりすれば、あと一月は持久できそうだった。
「まあ少なくとも我々がいる限り敵はこの飛行場を使えん。それで十分以上にマニラへの支援になるだろう」
そう言って岩下大尉は飛行場の方をみた。そこには40両近い戦車の残骸が放置されていた。いまだに米軍はクラーク基地を使用できていない。すべては彼らがここに居座り続けているためだった。
岩下大尉は皆に向き直ると、努めて明るい口調で言った。
「敵さんには、もう少し付き合ってもらおうか。皆にも苦労をかけるが宜しく頼むよ」
それに兵らは笑顔で応じた。岩下大尉は大きく頷くと通信兵に司令部への返事を打たせた。
「通信兵、司令部に返信。独立戦車第八中隊および独立自走砲中隊のマニラ方面への転進は困難なり。我らはこの地に留まり最後まで抗戦する所存なり。以上だ」
司令部からは、すぐに了承の返事とともに山下大将直々の激励文が届いた。
この後も彼らは3月半ばまで陣地で粘り続けた。砲弾が尽きた後も戦車を爆破処分したのち車載機銃を武器に終戦まで山中でゲリラ戦を展開した。
終戦後、米軍の呼びかけに応えて部隊の生き残りがようやく降伏したが、その数はわずか30人ほどになっていた。その中に岩下大尉、鷲見中尉の名は無かった。
■戦後の日本(青函トンネルが来た世界)
結局、日本は原子爆弾2発を落とされた後、8月15日に無条件降伏した。
元の世界となんら変わりない結末であった。強い戦車が少々あったところで戦争になんら影響を与えられないという当然の結果であった。
オハ改は硫黄島と沖縄にも少数が配備されていたが、この頃には日本側も誘い込んでから迎撃する方針に転換していたため自走砲的な使われ方しかされず、その真価を発揮できたのはルソン島の戦いだけだった。
もし樺太にオハ改が配備されていたら活躍できただろうという説もあり、架空戦記でもよく取り上げられる題材である。だが当時は対米戦が優先されていたためオハ改が北方に配備される可能性は低く、仮に配備されてもT34/85が相手となると、それほど性能面の優位は無かったと思われる。
オハ改は本土決戦に備えて多くが残されていたため、進駐してきた米軍はここで初めて無傷のオハ改を手に入れる事ができた。
彼らの評価としては、オハ改は日本軍最良の戦車であり、ドイツのタイガーⅠ相当の実力というものだった。別の言葉で言えば、連合軍のM26戦車やセンチュリオン戦車などの最新鋭戦車であれば十分に対処可能という意味でもある。
日本は61式戦車を20年後の未来の最新最強戦車だと信じていたが、まさか敗戦後にはじめて作った平均以下の戦車だとは知る由もなかった。
ただ、米軍を驚かせたことが有る。それはオハ改の装備する90ミリ砲だった。
これがなんと米軍の90ミリ砲M3A1と瓜二つだったからである。むしろ日本の方が米軍より技術的に進んでいる部分すらあった。
当初は米軍の砲をコピーしただけと思われたが、フィリピン攻略以前に太平洋戦線でこの砲が使われたことは無い。そのため最初はスパイの存在が真剣に疑われた。
だがオハの試作車(61式戦車)と一式小型乗用車の試作車(73式小型トラック)が発見された事で調査団は大騒動となった。なにしろこれらは明らかに米軍が開発する前から存在していた事が判明したからだった。
そこで米軍はこれらの車両の経緯についてを詳しい調査を進めた。するとなぜか青森で発掘されたという眉唾物の証言や資料が大量に出てきた。
疑問に思いながらも現地を調査したところ、実際に青函トンネルを発見したことで再び驚くこととなる。
米軍は即座に青森側と北海道側の入り口周辺を封鎖接収し、日本側の関連資料を収集するとともに更なる調査を行った。
現在では青森北端と北海道南端の青函トンネル入口周辺は米軍のレーダー/SOSUS基地となっており、どこよりも厳重な警備が行われている。
そして最終的に、90ミリ砲M3A1と一式90ミリ戦車砲、JEEPと一式小型乗用車の相似については、世間では「技術の収斂進化」の稀有な例として表向きは処理されることとなる。
その裏で米軍は極秘に力業でトンネル内を排水し、莫大な費用をかけてトンネルを復旧していた。そして南北連絡路と各種実験に活用しているため、未来永劫ここを日本に返還する気はなかった。
あまりに警備が厳重であることに加え、江戸時代から謎のトンネルが存在したという噂もあることから、この基地はオカルト雑誌でフィラデルフィア実験との関連やUFO関連施設であると書かれる事が多く、世界的にも米国ネバダ州のエリア51と並ぶミステリースポットとなっている。
このような事情から、現在に至っても基地は返還されておらず関連資料も公開されていない。そしてこの米軍基地の存在により北海道新幹線が構想されることもなく、現在でも青函連絡船が運行されている。
■その後の日本(青函トンネルが消えた世界)
30年近い年月と多大な国費を投入して完成した青函トンネルが消失し多くの犠牲もあった事から、その消失原因の究明に長い時間がとられたのは必然であった。
このため一旦は廃止されたはずの青函連絡船が復活し、再びかつてのように運航を再開することとなる。
事故調査はいつ終わるとも知れずトンネル再工事の目途などたたないため、青函連絡船は延命しただけでなく老朽化した連絡船の代わりに高速で大型の新型船が次々と建造されていった。
そして21世紀に入り北海道新幹線が建設される頃になっても青函連絡船は健在だった。
青函トンネルが無いため、かわりに10両編成のE5/H5新幹線を丸ごと積載できる大型高速鉄道連絡船が建造され、そのための新たな船着き場も建設された。
全長300メートルに達し30ノットを発揮する超大型連絡船は「海の新幹線」と呼ばれ、2025年現在でも日本最大最速の貨客船の座を誇っている。
青函トンネルの消失が日本経済、特に北海道の地域経済に与えた影響は大きかったが、それはあくまで期待値であり、青函連絡船が更新されている現状では実はそれほどマイナスにはなっていないという意見もある。
また、本事件により強制捜査を受けた革新団体とその支持母体である国労や政党が弱体化や解散消滅した結果、日本全体としてはプラスになったという見方すらある。
自然の面でも、トンネルを経由した野生動物とくにキタキツネの本土侵入がないため、エキノコックスの本土侵入が防がれているとの説もある。
ちなみに地中を含めて青函トンネルの痕跡が何も残っていないことから、オカルト雑誌では怪現象として取り上げられる事が多い。
そしてこの世界では青函トンネルの再工事が計画されることは二度となかった。
もっと色々と書きたいエピソードが有ったのですが、執筆時間をなかなか取れず書く事ができませんでした……ご容赦ください。
結局、少数の強い戦車が有ったところで歴史は変わらないという結末になりました。当たり前ですが。
そして青函トンネルが消えたことで、結果的に青函連絡船が生き残る世界となりました。
おわびに次回、おまけのWiki風解説をお送りします。




