第三話 謎のトンネル
時代が今度は太平洋戦争の直前に飛びます。
■1939年(昭和十四年)7月
青森県 今別村
「なんだ、これは……?」
森の中にひっそりと口を開けた、半ば土に埋もれ草木に覆われたトンネル入口を目にした調査員は、唖然として立ちつくした。
この年着工した関門鉄道トンネルに続き、青函トンネルの実現に向けて、鉄道省の盛岡建設事務所は、大臣官房技術研究所に事前調査を依頼していた。
依頼を受けた研究所の技官は調査の道案内として現地のマタギを雇った。
そのマタギの話によれば、技官が適地と考える付近には既にトンネルがあるという。それは彼が生まれる前から存在しているとのことだった。
だが地図にも記録にもそのようなトンネルは存在しない。そもそも道すら通っていない山中である。眉唾物の話とは思ったが、マタギに案内されて現地にいってみると彼の言うとおり本当にトンネルが存在していた。
「ほ、本当にトンネルがあった……」
「ほら、しゃべった通りだびょん?」
「なぜ道も鉄道も無いのにトンネルだけ存在している?」
「さあ?おべね。少なぐども爺っちゃの頃さだば有ったど聞いでら」
「とにかく調べてみよう……」
定礎板を探したいが入口の地面に近い部分は土砂と草木に埋もれてしまっている。仕方なくマタギに頼んで上部の銘板を覆う蔦を取り除いてもらうと、そこには信じられない文字が刻まれていた。
「青函隧道……だと?なぜこんなものが、ここにある?」
その名称が本物ならば、このトンネルは津軽海峡を超えて青森と函館を結んでいる事を示している。
「入ってみるしかないか……」
「熊が居るがもすれねはんで気付げでけ」
マタギに注意されて気を付けながらトンネルに入っていく。
入口の土砂の山を越えるとトンネルの天井は思いのほか高かった。幅も広い。鉄道を複線で引く余裕がある。
天井にはびっしりと蝙蝠がぶら下がっている。幸いにも熊は留守のようだった。
大量の蝙蝠の糞と土砂に埋もれて、赤錆びに覆われた鉄道のレールがわずかに顔を出していた。複線で敷かれたレールはずっと奥まで続いている。
トンネルは緩やかな傾斜をもって地下に向かっていた。
「ここで行きどまりか……」
入口から200メートルほど進んだ所で、それ以上先に進めなくなった。溜まった水でトンネルが完全に水没していたためである。だがレールはそのまま水中に続いていた。
おそらくは自分の知らない極秘計画で作られたものだろう。ならば研究所にも資料があるに違いない。技官はそう考え写真を撮り簡単な測量をすると東京の研究所にもどった。
しかし研究所をいくら探しても謎のトンネルに関わる資料は見つからなかった。先輩や上司に尋ねても誰もそんなトンネルなど知らないと言う。
写真や調査結果をみる限りかなり大規模で公的なものなので記録がないはずはない。こうなればもう一度直接調べるしかないと今度は大規模な調査団が編成された。
その結果は驚くべきものだった。
入口の土砂の下から発見された定礎板には1988年3月竣工とあった。1939年現在より50年近く未来の日付である。
当初は手の込んだ悪戯か謀略と思われた。
しかし何のためにこんな物を作ったのか、目的の見当が皆目つかない。更にそれを否定するような調査結果が続々とあがってきた。
まずトンネル自体が自分たちの知らない工法と構造で作られていた。周辺の山には通風孔や作業通路らしい孔すら見つかった。
もしかしてと北海道側も調査すると、知内村に青森側と同じ様なトンネルの入口が発見された。
水没していない部分に残された照明設備や電話などもボロボロに錆びついてはいたが、わずかに残っていた銘板にはやはり未来の製造日が刻まれていた。
極めつけは水中調査で入口から500メートルほどの位置で見つかった列車だった。
先頭の機関車は未知の大型の電気機関車で、それが牽く22両の貨車の上には、これも見たことの無いトラックと戦車が載せられていたのである。トンネルはその先にもずっと続いていた。
こうして謎のトンネルの全貌が明らかになり戦車まで発見された事で、政府と陸軍は慌てて関係者に緘口令を敷いた。
すでに一部の地元紙やカストリ紙には記事が出てたが、まだ噂レベルであり内容も荒唐無稽に過ぎたため幸いにも信じる者は誰も居なかった。
青森・北海道両側の入口周辺は厳重に封鎖され、沈んでいる列車を回収するため、鉄道省に命じて最寄りの津軽鉄道線中里駅から今別村のトンネル入口まで仮設鉄道が敷設された。
一両ずつ切り離して水中から引っ張り出された貨車と積荷は思いのほかに状態が良かった。想定より腐食も少なく一部には塗装すら残っていたのである。
マタギの証言から列車は少なくとも30年は水中にあったと思われたが(実際は70年以上)、どうやら青森の寒冷な環境と真水であったこと、そして水の流動がほとんどない事で低酸素状態が保たれたことが腐食の進行を遅らせたものと推定された。
このため回収した車両を別の貨車に積みかえる必要もなく、貨車に簡単な整備を施しただけでそのまま奥羽本線経由で移送された。そして密かに神奈川県相模原町の陸軍技術本部第四研究所に次々と運び込まれた。
なお機材と一緒に100体を超える白骨化した遺体も回収された。
わずかに残っていた持ち物を元に内務省が調査した結果、その多くの身元が判明した。なんと驚くことにそのほとんどが実在しており今も存命だったが、もちろん当人達にその事が知らされることは無かった。
こうして政府や軍の関係者の間では、非公式にではあるが、トンネルと列車は未来の日本から来たものであるという考えが共通認識となった。
その進んだ未来の技術は現在の日本の大きな益になると考えられたため、さらに詳細な調査が行われることとなる。
■謎の機関車と貨車
車両類の移送後、残された機関車と貨車については東京都芝海岸の鉄道技術研究所で調査が行われた。
機関車はED79という電気機関車で、銘板によれば1971年(昭和46年)に日立製作所でED75から改造されたとなっていた。もちろん未来の日付であり日立製作所どころか鉄道省も知らない機関車である。
チキ7000という長尺貨車も未知の貨車であった。1975年(昭和50年)三菱重工が製造したという銘板があったが、こちらも当然ながら知るものなどいない。
ただ機関車も貨車も現在の鉄道省が持つ機関車(ED15系)や貨車(チキ1500)より進んだ技術が用いられているものの、十分理解できる範囲であり、すぐに新型車開発の参考にされる事となった。
■謎のトラック
12台もの台数が回収された軍用トラックは、運転席が前輪の上にあるという非常に珍しい構造をしていた。日産80型のようなセミキャブオーバー型でなく完全なキャブオーバー型である。
銘板によると73式大型トラックという名称で1980年(昭和55年)に「いすゞ自動車」という聞いたことの無いメーカーが製造したとなっている。
6輪駆動方式でV8ディーゼルエンジンを搭載しており、2年前に制式化された陸軍の九四式六輪自動貨車より技術的に遥かに進んだトラックであった。
だが理解できない構造ではないため、陸軍は自動車工業、東京瓦斯電気工業の2社に命じて、このトラックを参考にした新型エンジンと新型自動貨車の開発を命じた。
■謎の乗用車
6台が回収された乗用車は四輪駆動方式でオープントップの構造だった。銘板によれば73式小型トラックという名称で三菱重工製となっているが当然ながら三菱も陸軍も知らない車両である。
陸軍はすでに「くろがね四起」の愛称で知られる九五式小型乗用車を運用していたが、これはくろがね四起どころかドイツのKfz.1などよりはるかに簡素な構造ながら実用性も走破性も高かった。このため陸軍はすぐに日本内燃機や豊田自動織機などにコピー生産を命じている。
1941年(昭和十六年)に一式小型乗用車として採用された本車は、当たり前だが米国が同じ年に採用したJEEPとほぼ同じものであり、戦時中には敵味方の誤認がたびたび発生したという。
そして最も陸軍に衝撃を与えたのが、4両回収された戦車だった。