第二話 青函トンネル消失
時代は一旦、青函トンネルが開通した年に飛びます。
■1988年(昭和六十三年)8月21日
青森県 今別町 青函トンネル入口
「青函トンネルの軍事利用はんたーい!」
「はんたーい!」
「軍用列車の復活をゆるすなー!」
「ゆるすなー!」
革新団体や国労といった反対団体のシュプレヒコールを浴びながら、特別編成の貨物列車がゆっくりと青函トンネルに入っていく。
これは北方機動特別演習の一環で行われる鉄道輸送訓練であった。青函トンネルを用いた自衛隊車両の鉄道輸送は今回初めての試みとなる。
機関車に牽かれた22両の貨車の上には、防水キャンバスで覆われた多数の車両が積載されていた。そのほとんどは73式大型トラックと73式小型トラックであったが、ひときわ目を引くのが4両の61式戦車であった。
それは第12戦車大隊所属の戦車で、群馬県渋川駅で積載されたものだった。
元々61式戦車は鉄道輸送を考慮して全幅が3メートルぎりぎりに設計されている。しかし青函トンネルの高さ制限には引っ掛かってしまうため、今回の輸送ではキューポラが取り外され車体上に置かれていた。
また、安全を考慮して燃料は最低限とし、砲弾も搭載していないことになっていた。
貨物列車の最後尾がトンネル内に消えて、反対団体とそれを囲むように警備する警察官らもやれやれと思ったその時、周囲が目も開けられないほどの眩い光で包まれた。
光だけでない。全員が激しい耳鳴りと眩暈を覚えて地に倒れ伏す。
そして光が収まり、ようやく皆が立ち上がると、先ほどまで目の前にあった青函トンネルの入り口が忽然と姿を消していた。
呆然として立ち尽くしたままの反対団体と違い、警備に当たっていた青森県警の立ち直りは早かった。
北海道警側からも同様の現象が発生し青函トンネル出口が消えたとの報告を受け、警察は何らかの大規模な破壊工作が行われたと判断、即座に現地の反対団体の確保に動いたのである。
そして破壊活動防止法を根拠に関連団体の強制捜査が全国的に行われた。捜査に対して武器を用いた激しい抵抗があり、実際に武器爆薬や破壊工作の計画も見つかった事から、これらの団体はその支援団体ともども徹底的に潰されることとなる。
だが執拗な捜査にもかかわらず今回の青函トンネル消失に関する証拠だけは一切見つからなかった。
そもそも、どうやってトンネルを消したのか、その方法が皆目見当がつかないのだ。
トンネルの本坑どころか作業坑も避難路も、排煙送風機室すら消え失せていた。まるで元からトンネルなど無かったかのように山々は自然の草木で覆われている。
事件では自衛隊員とJR職員あわせて100名以上が行方不明となったため、すぐに救助活動が行われたが、山を掘っても軌条は途切れてしまっていた。地中にもトンネルがあった痕跡すら見つからなかった。
こうして30年近い年月と莫大な国費を投入して建設された青函トンネルは、自衛隊車両を乗せた貨物列車とともに完全に消え失せてしまったのだった。
■1867年(慶応三年)8月21日
青森県 後の今別村付近
周囲が眩い閃光に包まれた。
その光が収まると、浜名の山の中腹に大きな穴が現れた。真新しいコンクリート製の外壁の上には「青函隧道」と記されたブロンズ製の銘板が掲げられている。
だが周辺に暮らすものは誰もおらず、この光を見たのは狸や狐など野生動物だけだった。
電気が絶たれたトンネル内は真っ暗だった。
その入り口から500メートルほど入った暗闇の中に貨物列車が止まっている。異常を感じた運転士が咄嗟に非常ブレーキをかけた結果だった。
だがその運転士も、トンネル内や列車内のJR職員も、同乗していた自衛隊員達も、誰一人として生きているものはいなかった。外傷こそ見当たらないものの、全員が倒れ伏し完全に息絶えていた。
青函トンネル内には毎分20トンもの水が湧き出している。本来であれば、この水は最深部にある吉岡駅付近からポンプで排水されるはずだが、今は電気がないためポンプが稼働していない。
このためトンネル内に徐々に水が溜まりはじめた。トンネルの容積はおよそ600万立方メートルもあるが200日余りで完全に水没してしまう計算となる。
湧水だけでなく雨水など周辺の水の流入も加わった結果、半年も経った頃にはトンネルは完全に水で満たされ、貨物列車も61式戦車ともども水面下に隠れてしまった。
それから更に20年後、町村制の施行によりこの辺りに今別村という地名がようやく付けられた頃には、トンネル入り口も完全に木々に覆われ、トンネルの存在は一部のマタギ以外は誰も知らない存在となっていた。
■1867年(慶応三年)8月21日
北海道 後の知内村付近
青森側と同様に、北海道側でも閃光とともに青函トンネルの入口が姿を現した。
こちらも人里離れた場所にあるため、それに気付く者は誰もいなかった。また本来であれば入口と接続する陸橋も無いことから、山の中腹に開いた入口は青森側より更に人目につきにくい状態だった。
そして1年後には入口も深い森に覆われ、ごく一部のアイヌとヒグマ以外に出入りするものの無い存在となっていた。
この青函トンネルの存在が再び多くの人に知られるまで、これからおよそ70年の時を要する事となる。