「不死者の酒場譚」
「お兄さん、ひとり?」
背後から、不意に声をかけられた。
賑やかな居酒屋の喧騒の中、その声はやけに澄んでいて、耳に残る。振り返ると、そこには銀髪の美女が立っていた。
異様に整った顔立ちと、その場の雰囲気から浮いたような銀髪に一瞬目を奪われるが、彼女の格好自体は普通だった。黒のタートルネックにカジュアルなデニムパンツ。だが、そのどこか飄々とした表情と、背筋の伸びた立ち姿には、不思議な威圧感がある。
「えっと……?」
返事に迷っていると、彼女はニッと笑って言った。
「悪いけどさ、ジョッキ一杯奢ってくれない?」
面食らっている間に、彼女は勝手に隣の席に腰を下ろしてしまう。
「あ、あの、どうして僕に……?」
困惑して尋ねると、彼女は軽く手を振った。
「どうしても何も、面白い話聞きたくない? 飲み代くらいで安いもんだよ。」
強引な口ぶりに、断るタイミングを失う。酔客の戯言に付き合うようなつもりで、ため息をつきながら店員を呼んだ。
「じゃあ、生ひとつ……」
「ナイス!」
彼女は満足げに頷き、運ばれてきたジョッキを嬉しそうに手に取った。その仕草はどこか堂々としていて、まるで自分が奢られるのが当然だとでも思っているようだった。
ひと口飲んで喉を鳴らすと、彼女はようやく満足そうに息をつき、改めてこちらに顔を向けた。
「何千年も生きてるとさ、人と仲良くすることもあれば、逆恨みされて命を狙われることもあるんだよね。まあ、不死だから死なないんだけどさ。」
銀髪の美女は、無造作にジョッキを傾け、泡立つビールを一息に飲み干す。居酒屋のざわめきの中、彼女の声だけが異様に通る。
「面白い話するから奢って!」と言われ、つい了承してしまったが、彼女の話は普通の酒場話とは少し趣が違う。いや、少しどころではない。
唐突な言葉に、思わず彼女の顔を見返す。冗談とも本気ともつかないその口調に、どう反応していいかわからない。
彼女はそんなこちらの困惑を楽しむように、ジョッキを傾けながら続けた。
「大陸にいた頃の話なんだけどさ、水銀にハマってた時期があってね。飲むのがクセになっちゃって。」
彼女の発言に思わず顔をしかめる。水銀を飲む?それって、普通なら命に関わる話じゃないのか?
彼女はそんなこちらの反応を楽しむように、肩をすくめて笑った。「いやいや、普通の人間だったら死んでたけど、私は大丈夫だったのよ。まあ、最初のうちは平気だったんだけどね。」
「最初のうちは、って?」
「そりゃあね、さすがに不死の私でも、飲みすぎたら具合悪くなるのよ。だから一度、ちょっと寝込んだことがあってね。その時のことなんだけど――」
話はここから奇妙な方向へと進む。
彼女が水銀で体調を崩していたある日、信頼していた人間――名前はあえて伏せていた――が見舞いに訪れた。心配してくれていると思いきや、開口一番、こう言い放ったという。
「早く死んでくれ。」
「そいつはね、私が不死だって知らなかったんだろうね。私が死んでくれれば、何か得をする状況だったんだろうさ。」
「その人、結局どうなったんです?」
「おもしろいことになったよ。」
彼女は新しいジョッキを受け取りながら、声を少し低くして話を続けた。
「最初はさ、あれこれと手を回して、私を殺そうとしてたの。でも、全部失敗。私が不死だってわかると、そいつの方がどんどんおかしくなっていったんだよ。最初は怒り、次は恐怖。そして最後には絶望。人間ってさ、自分じゃどうにもならない状況に置かれると、こんなに簡単に壊れちゃうんだなって思った。」
彼女の語り口には、冷淡さと共感が入り混じっている。
「そいつが死んだ後、少しだけ悲しくなったよ。でも、しょうがないよね。私は不死だし、彼は人間だもの。価値観が噛み合わなかっただけの話。」
その後も彼女は、水銀にまつわる奇妙なエピソードを次々に語った。水銀を服用していたことが原因で、ある王族に祀り上げられた話や、逆に神の怒りを買ったとされて大衆に追われた話。
どれも荒唐無稽だが、彼女の語る真剣さに、嘘とは思えない。何より、その瞳の奥には、数え切れない時間を歩んできた者特有の深い陰影があった。
「さて、そろそろ行こうかな。」
彼女は立ち上がり、こちらを振り返る。
「面白かったでしょ?ごちそうさま!」
そう言い残して、彼女は居酒屋を後にした。
これが、退屈な人生を大きく変えるきっかけになるとは、まだ知らない男の物語。
水銀にまつわる奇妙なエピソードを次々に語っていた一部抜粋
冗談なのか本気なのか分からない話に、俺は頭を抱えたくなった。だが、彼女は話を続ける。
「その頃ね、私を崇める連中がいたの。『永遠の命を授けてくれ』とか言ってくるわけ。でもさ、水銀飲むだけで不死になれるわけないじゃん? それなのに、ある日、一人が死んじゃってさ。そしたら逆恨みされて、殺されかけたんだよね」
「え、殺され…?」
「まあ死なないけど?」彼女は軽い調子で言う。「でも、刺されたり火をつけられたり、いろいろ面倒だったなあ。その後はそいつらの村、丸ごと追放されちゃった」
「追放って…何をしたんだよ?」
「うーん、村の水源にちょっと細工したくらい? だって、仕返しは必要でしょ?」
俺は背筋が凍るのを感じた。だが、彼女は気にする様子もなく笑っている。
「ま、そんなこんなで、大陸を離れてここに来たってわけ。最近は平和だけどさ、ちょっと退屈でね。だから君みたいな面白そうな人に話してるんだよ」
「俺が面白い?」
「うん。普通なら信じないか、怖がって逃げるでしょ? でも君は逃げない。奢ってくれるし」
俺は、まんまと乗せられていることに気づきながらも、彼女の言葉を否定する気にはなれなかった。何より、その銀色の瞳が語る物語には、奇妙な説得力があった。
「それで、不死の秘密って結局なんなんだ?」
彼女は少しだけ驚いた顔をしたあと、楽しげに微笑んだ。
「秘密ってほどのものでもないけどね。でも、教えてほしいなら…あともう一杯、どう?」
俺は渋い顔をしながらも、手を上げて再び注文をした。