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第19話


 夜というより明け方に近い時刻。

 アパートに入ろうとしていた疲れ切った足取りの若い男に私は話かける。


安藤(あんどう)優一さんですね」

「…………」


 質問ではなく確認だ。

 いぶかしげにこちらに視線を投げられる。


 薄汚れた作業着に、目の下のクマ。

 二十七歳という年齢より、はるかに老け込んでみえる。


「亡くなった岬さんのことで、お話が……」

「帰ってください」


 私の言葉を最後まできかずにぴしゃりと遮る。


 うん。

 そうくると思った。

 だからってこっちも退くわけにはいかない。


「ナスターシャさんたけでなく、お寺からも頼まれています。はいそうですかと引き下がれないんですよね」


 挑戦的に胸を反らしたりして。


「それはそっちの勝手だろう」

「まあまあ」


 声を荒げようとする優一を、濡れ女モードの紫がたしなめた。


「ただでとは言わないわ。あなたの時間を買わせてちょうだい」

「ぐ……」


 艶然と微笑む紫に言葉に詰まる。

 色香に惑ったのではなく、買うという言葉に反応したのだ。


「一時間もあれは話は終わるでしょう。四万円でどうかしら?」

「札束で頬を殴るような真似を……」


 悔しそうに優一は拳を握りしめるが、頭ごなしに拒否もしなかった。

 できないのである。

 彼にはお金が必要だから。


「時給四万円と考えればいいわ。お墓を建てるお金に、これで少しは近づくでしょ」

「……どうぞ」


 大きなため息は、とぼけるのは無駄だと悟ったからだろう。

 がくりと落ちた肩が、優一の疲労と懊悩を物語っているようだった。




 優一は、最初から岬に暴力を振るっていたわけではない。

 まあ、暴力を振るうのが目的で結婚する人はそう滅多にいないので、これは当たり前だ。


 ずっと一緒にいたい大切にしたいと思ったから、彼はプロポーズしたわけだし、そばにいて支えたいと思ったから彼女は受け入れたのである。


「それなのに、僕たちはどこかで間違ってしまいました」


 もののほとんどないアパート。

 現金化できるような家財はなんでも売ってしまったんだって。


 そして彼自身は、昼も夜も働いている。

 昼はサラリーマン。夜は道路工事のアルバイトだ。


 そうまでしてお金が必要なのは、岬のお墓を建てるため。


「本当に、いまさらですよね。どんな立派な墓を建てても岬が戻ってくるわけじゃないのに」


 自嘲を込めた言葉だ。


 夫は平凡なサラリーマン。妻は専業主婦。そんなありきたりな夫婦としてスタートした。


 あー、でも昨今の事情ならありきたりでもないかな。

 共働きって夫婦も多いからね。


 夫婦仲はすごく良かったんだけど、岬がすぐ妊娠しちゃうってことはなかった。というのも妊活に焦る年齢でもなかったし、しばらくは二人だけでイチャイチャしたかったらしい。


 爆発すれば良いのにってレベルのラブラブっぷりだけど、じつはそれが悪い方向に作用してしまった。

 結婚二年目あたりから歯車が狂い始める。


 どちらが悪かったわけでも、たぶんないと思う。


 でもどうしても理由を探すとするなら、岬は外に出て働くべきだったかもしれないね。

 夫の帰りを待つ一人きりの部屋は、彼女には寂しすぎたりかも。


 二人の生活を守るために懸命に働いている夫の姿を、彼女は愛情が薄れたのだと感じてしまった。

 だから夕食の時の会話も減ったし、可愛いねきれいだね大好きだよと言ってもくれなくなった。そう感じたのである。


 端から見たら、なに言ってんだって話だよ。結婚して一年以上経つのに、そんな付き合い始めのカップルみたいなラブラブ度なわけないだろう、と。


 でも、岬にしてみたら大事なことだったんだろうね。


 ただ家事をこなしているだけ。外に遊びに行く楽しみもない。

 で、SNSとかから出自のわからない情報を得て、勝手にストレスをため、愚痴っぽくなってしまう。


 その愚痴を聞かされるのは、もちろん夫の優一ね。

 会社で馬車馬のように働いて、疲れて帰ってきたら夕食のおかずは妻の愚痴。

 これで気分は上々って人は、たぶん滅多にいないと思う。


 だんだんと彼の神経もささくれ立っていった。

 そしてある日、ついに破局が訪れる。


「殴って……しまいました」


 交際時代から数えても初めてのこと。

 安直で、しかもまったく解決にならない解決法だった。


 ただ妻は夫の暴力に怯え口を閉ざし、ますますストレスをためるだけ。

 その様子が気に障り、夫はますます暴力的になっていく。


 待っていたのは、最悪の結果だった。


「自殺でした。ですが、僕が殺したのも同然です」

「男であるあんたが、どうして譲らなかったんだい?」


 黙って聞いていた丹籐寺が口を開いた。

 こいつの価値観では、男というのは女を守るものであり、暴力を振るうなんて論外なのである。

 けっこう昭和チックだよね。


「こうなると知ってたら、いくらでも譲りましたよ!」


 突如として優一が爆発した。

 ダムが決壊するように、大粒の涙がこぼれる。


「こんなことになるって判ってたら、譲歩だって歩み寄りだってしましたよ……」


 しゃくり上げながらの言葉だ。

 私と丹籐寺は思わず顔を見合わせてしまう。

 ここで泣くなら、もっと前にできることはいくらでもあったろうにと。


 人間の心って厄介だよね。

 失わないと、その大切さに気づかないんだよ。本当の意味で。


 でもじつは、嘆かせてばかりもいられないんだ。


「泣いてる暇はないわよ。顔をお上げなさいな」


 どこか突き放すように言う紫である。


 

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― 新着の感想 ―
[一言] 1度手を出すと歯止めが利かなくなると言いますし、気づいた時にはもう手遅れだったんでしょうね…
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