メモリー6
気が付いた時、グロウ・イェーガーは見知らぬ病室に倒れていた。
拘束していた『エナジー』の縄は無く、『ウィザード』の女性も消えていた。
大部屋の病室には患者は誰一人として居らず、また清潔感も無くしばらく使用されていないことがわかる。壁紙は剥がれ落ち、床は所々えぐれ、窓際にカーテンは無く、窓ガラスは割れている。電灯は取り外されているが、昼間のため日差しのおかげで行動するに十分な明るさはあった。
「あら、ようやくお目覚めかしら?」
不意に頭の上から声がした。
顔を上げると、幼女の怜悧で端整な顔が至近距離にあった。改めて自分の置かれている状況を観察すると、なんとグロウは幼女の膝を枕にして寝そべっていたのだ。
慌てて起き上がり幼女から距離を取る。
フリルの付いた黒いドレスを纏った白髪ツインテールの幼女は、その年齢にそぐわない妖艶な笑みを浮かべる。
「あら、そんなに慌てなくても」
「だ、誰!?」
「私達はカノ。貴方を守る邪神、とでも言っておこうかしら」
カノと名乗る幼女は膝の埃を払いながら立ち上がる。
「さっきのガスマスクとは別の邪神?」
「その問いには肯定と否定で答えるわ。私達は群にして個、個にして群」
カノの言葉をグロウは理解できなかった。
「そうね、百聞は一見に如かず」
「イェアリ・ク。私達は一つから分離して群れを作るけどーーーー」
「それぞれは単一でなく、一つに繋がっているということです」
「イェアリ・ク。つまり、あの地下水道の私達の動向もーーーー」
「ここにいる私達も自分のことのように感知できているわけじゃ」
別の場所から女性の声が聞こえたかと思えば、グロウの中から様々な姿の女性が次々と出現する。
兵士、女子高生、メイド、会社員のような人間の姿の女性も現れれば、肌の色が青や紫の亜人、猫耳や狐耳を生やした獣人、人の形すら持たない女怪異も現れた。
あっという間に部屋を埋め尽くさんばかりの女性が現れたかと思えば、一瞬でカノに集約されて一つとなる。
「多重人格の『ウィザード』が人格を分離させ擬似的な肉体を持たせ『使い魔』にしているのか?」
「そうではないわ。私達はあらゆる世界の強力な特別な力を持つ女性を捕食してきた。ある『キャスト』を行使するために、ね」
「ある『キャスト』?」
「それは今、関係無いわ。ーーーーあらゆる存在、特に性別が女の存在と相性が良かった私達は捕食を繰り返して同化していった。けど、一つの体で複数の力を使うことは、並大抵のことでは無かった。そこで私達は、力の持ち主を再現することで制御することにしたの」
「特別な力を行使できる者は、特別な力を持つ者だけ、というわけ?」
「そうは言わないけど、効率を重視した結果そうなったというわけよ」
妖艶に微笑むカノを前に、グロウは言い様の無い恐怖心を抱いた。
「何と言うか、狂ってるよ…………」
「えぇ、私達は邪神ですもの。人の理から外れていて、当然でなくて?」
そう言ってカノは後ろを向く。
邪神と彼女は自らを称する。
グロウの目から見ても、彼女は人間が住まう世界から外れた邪な存在に見えていた。こうして意志疎通ができているのも、果たして奇跡なのか、あるいは神の気紛れによるものなのか。
いずれにせよ彼女はグロウの理解を超えた存在であり、どう足掻いてもグロウと相容れない危険な化物であることは理解できた。
「警戒しているわね、マスター」
しばらく沈黙が続き、やがてカノは再びグロウと対峙する。
「安心して。私達は貴方にだけは危害を加えないわ」
「それは何故? そして何で、僕のことをマスターと呼ぶんだ?」
「貴方が貴方だからよ。今はそれだけしか言えないけど、信じてちょうだい」
カノはまた妖艶に笑む。
蠱惑的で艶かしいその笑顔は、人間を魅了し堕落させるような力を秘めているように感じた。
「さて、お喋りはここまでにして、そろそろ建設的な話をしましょう。我らがマスター、私達が信じられないなら、私達を利用する手を考えてはいかが? 何にしても貴方がここから五体満足に脱出するには、私達の力が必要になるわ」
「まぁ、状況が最悪だってのは分かってるよ」
「いいえ。分かっていないわ。貴方は貴方が思っている以上に、死の淵へ追い込まれているのよ」
「それは、どういう…………?」
カノが小走りにグロウの元へ駆け寄り、その小さな手でグロウの左手を掴んで引っ張る。
幼子のか弱い力によろめいて数歩移動したその時、天井の一部が崩れ先ほどまで居た場所に落下したのだ。
轟音に驚くグロウは、天井と共に落ちてきた存在に対して更に驚愕することになる。
怪物がそこに居た。
皮膚を引き剥がされたような見た目をした四足歩行の怪物。頭は腫瘍のようなもので腫れ上がり、眼球は飛び出し、人のそれに似た歯と異様に長い舌を持った化物だ。
その何ともグロテスクな化物は、前足に相当する部位に備えられたカマキリのような鋭利な刃物を振りかざし、不気味な声音の咆哮を上げる。
少し移動が遅ければ、あの刃に切り殺されていたことだろう。
「こういうことよ、我らがマスター。貴方はいまだに、『教団』の追撃から逃れられていないということを理解されていて?」
カノの冷静な声がグロウを震え上がらせた。
この化物は『教団』の遣わせた使者。
人の言語を解さないところを見るに、処刑人と考えた方が良さそうだった。
つまり『教団』は、グロウの捕獲から殺害へと方針を変えたということだった。