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ここは、学院堂。
生徒集会のあと、白蓮会が安全のためにと生徒たちを残していた。
『ガーン!!!!』
きいたこともないような轟音が響く。 生徒たちは、一瞬の恐怖に動けなくなっていた。
「これは、脅しではありませんよ」
妙にねちっこい声が学院堂にひびいた。 どこから入ってきたのか、舞台の壇上にあの船での爬虫類のような顔をした小男が、いつになくするどい目と、薄い唇の口角をいやらしく持ち上げて、笑い顔をして立っている。
「みなさん、今日は、わたくしたちのために、お集まりいただき、お心遣い痛み入ります。 みなさんの学校、いや、その前の寺かな? 今日は、そこに預けたものを返してもらいにやってきました」
怯え、後ずさりする生徒もいる。
「おおっと動かないでください。 手荒なことはしたくありません。 この学校の電話線は切らせていただきました。 みなさんは学業のあいだ、携帯の電話、スマートフォンを持ち歩かないのも知っています。 馬鹿ですねぇ。 自分たちが決めたルールに縛られて、誰にも助けてもらえないなんて」
泣きそうな顔をする生徒を舐るように見ながら、その男は話を続けた。
「これは、わたしの遠い祖先が大事にしていた宝珠です。 『黒栄星石』といいます。 とってもありがたい繁栄をもたらすといわれているんですよぉ」
右手に持った黒い珠状の石を胸の前にだすと、ころころとこねながら話しをしだした。
「遠い昔にわたしの故郷から持ちだれて、さんざん探したところ、あなたたちの町のちんけな広場にありました。 ちょっと強引な手も使ったけれど、早速返してもらいましたよ」
「おかげさまで、わたしの国での事業も、うまーくまわるようになりました。 だけどね、やっぱり、心配で心配で、いつかまた、なくなっちゃうんじゃあないかって、人間っていうのは強欲に歯止めがかかりませんねぇ」
「はなしは、まだ続きます。 実はもうひとつ、祖先がなくしてしまったものがあるんですよ。 それは、やっとで掴んだ繁栄を、ずっと永遠につなぎとめてくれる力をもったお宝なんです」
「それがね、みなさんのもとにあるんですって‥‥‥ 知っているでしょう? 」
そういうと、爬虫類のような子男は、上目遣いで、閉じることのないような瞼をさらに見開いて、その虚空が広がったような真っ黒の瞳を生徒全員に向けた。
「アイツなんなんだい? 調子にのって、ベラベラと全部説明してくれちゃっているよ」 舞台下手の壁に背をもたれながら、白蓮会風紀委員長の《天知ひかり》が少しあきれたような口調でつぶやいた。
「そんなものは、知らないと言っている」
学院堂の扉の前に、白蓮会第百二十代会長《西園寺咲耶花》が、文字通りの仁王立ちになって立っていた。 背筋をのばし、この空間のすべてに通るような、りりしい声がこだまする。 右手には、お経の文字がびっしりとかかれた、白い経文の木板。 その経板をたたむと、大刀のような形にして、その切っ先を子男のほうへとまっすぐに向けた。
「それでも、この学院を襲うというのなら、わたしたちは許さない」
咲耶花は、胸を張りながら、一歩前に進んだ。
「知らないというのなら、力づくで探させていただきますよ」
そういいながら小男が手をあげると、ぞろぞろとダンプカーの荷台から、男たちが降りてくる。 そして、ダンプカーが開けた穴の向こうからも、何人もの男たちが侵入しようともくろんでいるのが見えていた。
それを見ながら白蓮会の武闘派《風祭純》と《紫雷ともえ》、 風神、雷神と呼ばれる二人が、腕を組みながら声を揃えて、ニヤリと笑った。
「「ふふふ 狙ったとおりだ 作 戦 開 始」」
「球技部集団いくよ! アタック!! 」
白蓮会の副会長《風祭純》が学院堂に響き渡るような腹から突き抜けるような声で叫ぶ。
まずは、選び抜かれたバレー部のセッターとアタッカーたちの美しい連携で、波状攻撃のようにダンプから降りようとする男たちに向かってボールを撃つ!また撃ちまくる。 流石に現役のアタッカーたちの、長身から打ち落とされるボールは、男たちをうずくまらせるには十分だ。
波状攻撃のボールを撃ちつくしたのを見計らい、もう一人の副会長《紫雷ともえ》が叫ぶ。
「ゆけ!剣道部!! いつものように打ち抜け!! 」
剣道部の猛者たちが、バレー部の波状攻撃でしゃがみこんだ悪漢どもに向かっていく。 日々の練習で鍛錬をした、打ち下ろしの竹刀の一撃で、男たちが起き上がることを許さない。
「そうだー! いつもの練習どうりに魂のこもった面を撃つんだ! 」
「ハイ! 先輩」ともえの後輩たちがいつにもなく力をこめて「メーーン」と叫んだ。
「さあ、まだまだ行くよ! サッカー部、ゴール目指して撃ちぬけ! 」
今度は《風祭純》が音頭をとる。 穴から入ろうとする男どもを、サッカー部のメンバーが思い切りシュートをする。
「キャー! いつも、キーパーをよけようとしてうまくゴールできないんだけど、当ててよいとなると面白いように決まるわ!」 「思い切り撃ちぬけるよね」
なんだか楽しそうにシュートをしていた。
「さあ、まだまだ行くよ! 野球部! ソフトボール部!! ピッチャーは、強そうなヤツを狙ってゆけ! 今日は、ビーンボール最多がMVPだ! 他のメンバーは集団ノック! 球がなくなるまで打ち尽くせ!! 」
黙って、見ていられなくなった合奏部が、応援曲を奏でだした。 曲目は、もちろん『狙い撃ち』。
「ぐぬぬぬ なにをやっているのか、あの馬鹿者たちは! 」
爬虫類のような顔の男がいっそう目を大きくして、耳元まで開いた薄い口びるで叫ぶ。
「なんのために高い金を払って雇ったと思っているんだ! 闘蛇たちよ、もったいつけてないで、早く出てくるんだ」
蛇骨会もだまってはいない。 ボールをよけるために身の回りのものを盾にするもの、また、腕に自信のある本当に屈強のものたちが、ボールや竹刀を潜り抜け、有象無象のしゃがみこんだ男たちを足蹴にしながら、ぞくぞくと学院堂に入ってくるのだった。
「あらかた球技系運動部の球もうちつくしたな。 おかげで雑魚どもはずいぶんと減った! 柔道部、空手部! ラグビー部! それに合気道! 剣道部!! ボールを避けて入ってきた野郎どもを駆逐するよ! 」
「無理をするんじゃあないよ! ヤバそうな敵は、私たちの獲物だ! 」
ついに白兵戦のときが来たかと、《紫雷ともえ》と《風祭純》が声をはりあげた。
入ってきた男どもと、格闘技系運動部の猛者たちとの大乱闘が始まった。 当然戦いの中心は、白蓮会のメンバーだ。 鬼の形相で、切り込み隊長の《紫雷ともえ》が相手の中へ切り込んでゆく。
「片手面 稲妻連打! 」
目にも留まらぬ剛剣を正確に相手の頭上に打ち下ろし、反す竹刀で、もうひとりのわき腹も撃ってゆく、一連の動作を何度も繰り返すことで、屈強な男どもを次々となぎたおしていった。
いつものともえとの掛け合いの時とはうってかわって、静かなる能楽師のような顔持ちになった合気道の達人《風祭純》。 向かってくる相手を、まるで空間の大気をかきまわすように軽々と投げていく。 いや、向かわぬ相手さえも、その体をくずし、天地がどちらにあるかもわからなくなるほど、みるみると投げ飛ばしていった。
「風車なげ」。 《風祭純》は、いつになく落ち着いた声でそういった。
《風祭純》《紫雷ともえ》。 白蓮会の風神・雷神。 この二人が通ると台風が過ぎさったあとのように、なぎ倒された悪党だけが大量に床にころがっていく。
「キャー」 悲痛な叫びとともに、柔道部の猛者たちが後ずさりをしていた。 その先には、柔道部の部長がうずくまっている!
「われら~ 中国四千年の蛇形拳の歴史には、ジュ~ド~など恐るるに足らずぅぅ~! 」
毒蛇を思わせるような、赤と黒の縞模様のシャツを着た長身の男が、大きな口を耳元まで見開き、両腕をくねらせながら向かってくる。 大きな口からは、赤くて長い舌がだらしなく伸びていた。
「大丈夫か! ここは私たちにまかせろ! 早く部長を救護室へ!! 」
《紫雷ともえ》が蛇形拳の男と対峙する。
「今度は、ケンド~かいぃぃ」
男は長い腕をむちのようにしならせて、するりするりと、ともえの間合いの外から襲いかかってきた。 手、指先を蛇の頭に見立てた手刀が、四方八方から変幻自在に襲ってくる。
「まったく、くねくねとつかみどころがないね! 」
曲線軌道の攻撃を放つ慣れない相手に、応戦一方の《紫雷ともえ》であったが、それでもなんとか相手の技をしのいでいた。
「ん~埒があかないねぇ それに、竹刀でよけられると痛いしぃぃ~ 」
そういうと、影武者のように、後ろからまったく同じ容姿の男が襲ってきた。
男の手刀がともえのわき腹をかすると、えぐられたような痛みが走る。
「われら蛇形拳兄弟ぃぃ。 ふたりの両手、四匹の蛇の攻撃をかわせるかなぁぁぁん」
前の男の両蛇の攻撃をかわした刹那、後ろの男も同じ形で襲ってくる。
その時、後ろの蛇を捕まえて、絡め、跳ね上げる《風祭純》の姿があった。
「どうした、雷神! 後ろがお留守とは情けないな。 守ってやるよ!」
《風祭純》が鼓舞する。
「ふん、あんたには、私の後ろで戦うのがお似合いだからね。 守らせてやるさ」
《紫雷ともえ》が嬉しそうにそう叫ぶ。
背中あわせになった、風神・雷神。 直線的な相手を得意とする二人は、どうしてもこの類の相手には、防戦一方になる。 相手の無軌道な蛇の動きに翻弄されていた。
「それでも」
「それでも」
「「背中むこうにアイツがいるからには、絶対に弱音は吐かない! 」」
お互いの意地がぶつかりあったおかげか? それとも背中を預ける相手がいる事の安心感か? 少しずつ相手を押していく二人。
「んンンンン めんどくさいよねぇ。 もう終わりにしたいよねぇ」
「「あたしら三蛇精、三兄弟なんですよぉぉぉぉぉ」」
背の高い二人の男がそういうと、もうひとり顔は二人の蛇拳の男と同じ、姿は小柄になった新たな蛇形拳の男が、くるくるっと曲芸師のように回転しながら現れた。
「よこっとびぃぃ 毒蛇ぁ~~ 」
そういうと、小柄な体躯に似合わない大きな両手を大蛇の顎に見立て、風神・雷神に飛び掛ってきたのだった。
そのとき、学院堂舞台の一文字幕を上げ下げするための分銅が、振り子のように『ぶぅぅん』という音をたて、大きな弧を描きながら、三人めの毒蛇の男に直撃した!! そして、風神・雷神は、背の高い蛇形拳の男たちのくねくねとした動きが、その一瞬に止まったことを見逃さなかった。
「豪雷落とし 正面打ち!! 」
《紫雷ともえ》は、左足で思い切り床を蹴り、全力をこめて振り降ろした両腕からくりだされる一撃必殺の面で、竹刀が折れるほど、男の脳天を叩きのめす!!
「禁忌技 突き風当て!! 」
《風祭純》は、体を相手の間合いに忍び込ませると、相手の左腕を発射台にしてミサイルのように放たれた右拳を、男の顔面で炸裂弾のように大爆発をさせた! そして、男はにやけた目もその長い舌も、わからくなるほどひしゃげながら崩れていった。
「お二人とも~ オツムがお留守ですよぉ? やっぱり、上を預かれるのはワタシしかいないなぁ」 白蓮会書記長の《九重ゆみか》が舞台の上のすのこで、指を頬にあてながらニヤニヤしていた。
「それとね、中国四千年ってフレーズ、インスタントラーメンのセールスコピーだったって
知ってた? 蛇拳たちには、聞こえてないか? 」
「「ゆみか! キサマーー!! 」」
風神雷神は嬉しそうな顔で、いつものように怒ってみせた。
ダンプカーで壊された入り口から、ひときわ大きな入道のような男が、ぬぅっと入ってきた。 上半身を裸にした浅黒い体、その背中には白い大蛇の刺青が脂肪の震えにまかせて、ぶるんぶるんとうごめいている。 顔の脂肪にうもれてしまって、開いているのかもわからない目、その入道のような男は、なにをするのも面倒くさそうに、ゆっくりゆっくりと怠惰に学院堂の中を進んできた。
剣道部の猛者たちが、集団でとり囲む。
「メーン」 「ドー! 」 代わり代わりに竹刀を撃ちこんでゆくが、分厚い脂肪にはじかれて、弾けた竹刀が仲間たちを傷つけてゆく。 業を煮やした一人の猛者が渾身の突きをのど元に撃つ! しかし、どこが首か? 胴か? 境界がわからない。 弾けた竹刀と、手首に伝わる痛みが残るだけだった。
「私たちが交代するわ! 」
空手部の面々が巨漢の男を取り囲んだ。 「突き! 」 「蹴り! 」 修練を重ねた技を、おもいおもいに繰り出していくが、分厚い脂肪に覆われた急所へは届かない。
「とび蹴り! 」 後頭部への一撃を試みた者もいたが、襟元には更なる脂肪の鎧が仕込まれていた。 思わぬ方向へと弾けた体が、受身もとれずに床に殴打する。 巨漢の男は、まさに暴走機関車と化していた。 その道を歩き進むだけで、攻撃を繰り出した猛者たちを蹴散らしていく。
「おまえたち武道家の技など、俺様には微塵も効かねぇ。 普段、偉そうにしている、おまえらの修練で磨いた技が、飯をくっているだけの俺様にまったく役たたないとは笑っちまうぜぇ。
この間のヤツは、空手五段とかいってたっけ、寝る間もおしんで極めた突きが、まったく俺様に効かないで青ざめていたな。 手首と一緒にプライドもへし折ってやったぁ」
「おまえらは、空手何段だ? ひとり一段でも八人いれば、八段か? 」
巨漢の男は、体にあわぬ小さな手のひらを顔に近づけようとしたが、脇の肉が邪魔をして、腕を上げることができなかった。 しかたがないので、胸の前で、ひーふーみーよーと数えて見せた。
「こんなに倒しちゃう俺様は、何段なんだぁ 」
「オラオラオラ! おしゃべりだけの相撲取りはおまえかい? ここは、いくさ場だよ!
土俵にもあがらない、歩いているだけのおまえがいていいところじゃないよ! 」
《天知ひかり》が両腕を組みながら、巨漢の男を見上げて、不敵な口元をして睨む。
「おまえは、なんの武道家なんだぁ? 俺さまの前で、自分の修練がいかに無駄だったのかと無様に嘆くがいいぜぇ」
巨漢の男が上がらぬ腕をブラブラさせながら、ズンズンと向かってくる。
「試してみるかい? 」
そういうと《天知ひかり》は、まっすぐ向かうと見せかけて、するりとした身のこなしで男の右わき腹を横向きに回転しながらすりぬける。 そして男の体を梃子にして、弾けて巻き込んだ左足に全体重をかけると、男の膝の裏側へとするどいかかと蹴りをいれた。
「んんん そこは、自然と鍛えられている場所だぁ。 この体重を支えて歩かなくちゃあならないからねぇ。 美味しいものを食べに行けなくなっちゃうと困るんでねぇ」
頭をコキコキと横に振ると、どうといことはないという顔で巨漢の男がひかりのほうを向いた。
「それならこれは、どうだーー! 」
《天知ひかり》は、右手の横壁をワイヤーアクションのように、ななめ上方向に上りきり、逆らった重力がとぎれる瞬間に壁を蹴り上げ、巨漢の男の頭へとダイブしながら膝蹴りをくらわせた。 そしてそのまま肩車のように座り込むと、めったやたらに頭へと正拳をぶち込んだ。
五発、十発と殴り続けていくと、男はヤメロといいながら、《天知ひかり》をふりほどこうとするが、わき腹の肉が邪魔をして短い腕が届かないでいた。
「んんん 頭は、苦手だ」 そういうと、男は、しゃがみこむようなしぐさを見せてこう叫んだ。
「ダンゴローラーだぁ!! 」
男は、その巨大な体重をかけて『天知ひかり』を乗せたまま、前転をし始めた!。
とっさのところでジャンプをして、逃れることができた《天知ひかり》は、膝をつき、その光景を見ながら唖然とした。 巨漢の男は床に倒れている仲間の男たちを、その全体重で踏みしだきながらごろごろと転がっている。 骨の折れる音、肉のつぶれる音、男たちの阿鼻叫喚の声が耳に飛び込んできた。
「あぶねぇ、あれに巻き込まれたら命がいくつあっても足りねえ」
《天知ひかり》は、あごをすぅっと擦りながら不敵に笑った。
「だけど、危機こそ、そこに勝機ありだ」
転がり続けて巨漢の男は、壁にぶつかった。 もう押しつぶすものがないということを確認してから立ち上がり、ゆっくりと《天知ひかり》のほうを向いてこう言った。
「もういっちょういく? 」
肉でうもれた瞳の意図は見えなかったが、あきらかに挑発しているように見えていた。
「あたりきしゃりきのコンコンチキよ! 次の一撃でオマエをぶっつぶす!! 」
《天知ひかり》はそういうと、拳を振り上げ、くの字に曲げたその腕の、上腕部をパンッと叩いた。
そして、制服に巻きつけたタスキを少しゆるめ、「いくぜ! 」 とひとことだけ言うと、前傾姿勢のまま、最大のスピードで一直線に巨漢の男に向かっていった。 そして、巨漢の男の目前で、目にもとまらぬスピードでジャンプをすると、男の脂肪の階段を駆け上り、軽やかなステップで頭上高く壁の欄間まで手をのばす。 その際に目にもとまらぬ早業で、学院堂の欄間にタスキをつなぎ止め、男の頭上にダイブ! またも馬乗りになって、男の頭を攻撃する。
「それは、イヤだっていっただろぉ こんどこそつぶしてやるぜぇ。 ダンゴロー‥‥‥ 」
巨漢の男は、しゃがもうとする途中の姿勢で、目を白黒させた。 いや、顔の肉で見えないでいたが、白黒させたに違いない。
《天知ひかり》が結びつけた欄間から続くタスキは、輪になって巨漢の男の首と思われるところに繋がっていた。 そこは、あごかもしれない。 もしかして頬かも、いずれにしても、その巨大な体重を頭部一点に集めるには十分であった。
巨漢の男は、しゃがみかけた自らの体重を元にもどすことができないでいる。 中途半端に曲がってしまった膝も、この重さの体躯を元に戻すには筋力がたりない。 この男が一生涯で一度もであったことのない、この姿勢が最大限に男の体を苦しめた。
欄間がミシミシと音を立てて曲がっていく。 しかし重厚なこの学院用の造りだけあって折れる気配はない。 泡をふきながら、タスキをはずそうと男はもがいていたが、短い腕をわき腹の脂肪が邪魔をして、タスキまで手を届けることは叶わなかった。 気絶をする間際、男がうめいた。
「おまえぇ 武道家のはしくれとして卑怯きまわりなぃ」
「ハッ! こちとら自称ケンカ十段の《天知ひかり》サマだぜい! ケンカに卑怯も愛嬌もねぇよ! 」
《天知ひかり》がそういうのと同時に、耐えかねた欄間がメキメキと音をたてて崩れて落ちていった。
「それにしても、先代から譲り受けたタスキは切れないねぇ! 素材はなんだい? キズナってんじゃあ笑えないよ」
《ひかり》はそういいながらも大きな声で笑ってみせた。