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「今日、ここにいたのがきみでよかったよ」
西日がきつい教室、きみはきみ自身の席に座って、真っ直ぐ黒板を見据えたままで言った。それはまるで、先生に当てられて承久の乱が起こった年号を答えるみたいに淡々としていた。
「きみはどう思ってる?」
どうと聞かれても答えようがなくて困る。きみでよかったようにも、きみじゃなくてもよかったようにも思うから。前触れもなくきみがさっとぼくを振り返る。
「ははーん?」
現実世界で「ははーん?」なんて科白に遭遇するとは思わなかった。
「さてはその顔は、別にきみじゃなくてもよかった、って顔だな?」
きみは身体ごとぼくに向き直った。じいっとぼくを見つめているらしいきみの瞳は、眼鏡のレンズに阻まれてよく見えない。
「よしわかった。今日が終わるまでに、きみにも絶対に『今日、ここにいたのがきみでよかった』って思わせてやるよ?」
右側の口角をぐっと持ち上げてきみが言った。下校時間を告げるチャイムが鳴り響く。こんなときでもチャイムは律儀で正確なんだな。きみがチャイムに耳を澄ますような仕草をして。
「馬鹿正直なチャイムだな。こんなときまで」
呟いて立ち上がった。
そこできみはおおきくおおきく、腕を天に突き上げるように高く真っ直ぐに伸ばした。うーんっ、と声に出しながら伸びをする。それから二三度首を左右に曲げて、肩を上下にして、手首と足首をほぐし始める。ぼんやり見ているときみが、真面目な口調で。
「ぼんやり座ってる場合じゃないでしょ。準備運動」
はい? それって、必要?
「気分だよ気分。よし、やってやるぞって思うでしょ? 体育祭の前みたいに」
ぜんぜん思わないよ。きみみたいにスポーツ万能じゃないもん。だけどきみが準備運動を止める様子がないから、仕方なく席を立つと適当に手や足をぶらぶらさせた。よし、ときみが呟く。ひとしきり準備運動を続けて、やっと止めたきみに倣ってぼくも止めた。きみが大きく、頷いた。
「手始めにどこから行こうか?」
どう答えるべきだろう。考える振りをする。きみは真面目にぼくの答えを待っている。
「……音楽室?」
恐る恐る答えたら、きみの口角がぐーんと上がった。きみがぼくに歩み寄る。目の前に立つ。そして。
ぼくに向かって、きみは手を差し出した。
「よく解ってる。行こうか」
近くに立ったら、眼鏡のレンズ越しでもくっきりときみの目が見えた。瞳がきらきらしていた。
こんなときなのに。