冷めたミルクティーを片手に
いつの間にか、あんなに熱々だったミルクティーが冷めていた。
「冷たい。ってゆーかぬるい」
私の独り言は年々増えていく。
大きくため息をついた。
子供の頃って、こんなにアンニュイな気分になることあったっけ……?
いーや。無い。
断じて無い。
あの頃は本当に天真爛漫だったなー。
綺麗な石ころを帰り道に拾っただけで幸せだった。
今なら、宝石が落ちてれば幸せだ。
そんな事ありえないが。
「……。あー。進まない」
パソコンを放置して、ミルクティーをサイドテーブルに置き椅子を立つ。
何が進まないって?
「小説よ。しょ・う・せ・つ!」
私は、新人作家だ。しかもデビューほやほやの。
この間、学生時代の原稿を実家から掘り出し、雑誌の賞に応募してみたところ見事に一次選考会通過。あれよあれよという間に、新人賞を獲ってしまったのだ。
仰天したのは誰よりも私自身だ。
が、困ったのはそれからだった。
賞を獲ったのはいいものの、書いたのは学生時代。
今とは、感性も感覚も違った。
同じ人間なのに。
書籍化デビューを目指す、編集者は私に原稿を強請った。
過去の自分と、今の自分。
いくら違うことを訴えても無駄だった。
同じ人間だから大丈夫と。
そこを口車に乗せられてほいほいと絆されてしまった自分もイケない。
窓辺に立つ。
外は曇りで、小雨が降ってきていた。
だから、アンニュイな気分。
「おまけにミルクティーは冷めた」
ついでに、アイディアもぬるいとの編集者からの批評。
もっと新人賞くらいの輝きが欲しい、との仰せだ。
世の中も冷たいし、いっそ田舎へ引っ越せば。
従妹が農家だったけなー。
私には、やっぱり作家は向いてないのかも。
「ああ、アンニュイ!」
最早、アンニュイを通り越して悲しい。
グダグダ考えている時だった。
『生きた証が欲しい、だから詩人になったんです』
付けっぱなしだったテレビからふとそんな台詞が聞こえた。
思わずテレビを見る。
そこには、自分と同じくらいの年代の女性が映っていた。
『生きた証が欲しいから、詩人に?』
『ええ』
男性アナウンサーの問いに女性は頷いていた。
私は、居住まいを正してテレビの音量を上げる。
『わたし、二十代の頃の記憶が無いんです』
『記憶が無い?』
アナウンサーがはて? といった感じで問う。
そこで女性のアップが映る。
女性の目は、夜の湖面の様にキラキラしていた。
『二十代の頃の記憶が無いって言っても、記憶喪失とかじゃないんです。所謂、暗黒時代です』
女性はふふふと笑っていた。
『毎日が、それこそ毎日が、暗く重たい日々だったんです。死を見つめていました。毎日』
息を吞んだ。
さらりと言ったが、この人相当精神的にまいっていた人じゃん。
私は、二十代何をしていただろう。
考えている中でもインタビューは続く。
『でも、ある日、光が差したんです。素敵な人と巡り会えたんです』
『素敵な人、とは?』
今度はほう、といった感じでアナウンサーが興味深げに聞き返した。
女性は、左手をそっと上げた。
薬指に指輪が光っていた。
『今の夫です』
『それは、良かったですね』
『夫と出会って、毎日に色が付き始めました。世界が一気にカラーになりました。でも』
『でも?』
グッと、女性の顔にまたアップが寄る。
『夫に、二十代の頃の話を聞かれて、わたし気付きました。死を見つめていた毎日の話なんて引かれるに決まっている。そもそも、あの頃わたしがしていた事ってなんだっけ? って』
私は、テレビに注目していて、自分の小説のことなど頭から吹っ飛んでいた。
『何もしていませんでした。生きていた事だけが、していた事です』
女性は、語り続ける。
『何もしていない、二十代の記憶が無いからこそ、わたしはその十年分の生きた証を、ここに残したいんです』
女性は、晴れ晴れと笑っていた。
インタビューの話題は、そんな女性が出版した詩集に移っていた。
「……」
凄い話を聞いた。
正直、私はそう感じた。
つまりは、こういう事だろう。
暗黒時代を生きたことさえも、詩にした、さっきの詩人の女性。
生きた記憶を、自分の中に植え付けるのではなく、生き返すのでもなく、証を残す。
なんてカッコいい、ハードボイルドな話だろう。
番組の最後に、その女性の詩集のサイン会の案内がテロップで出ていた。
思わずメモをする。
「会いたい」
呟く。
何か、私にも光が差し込んできた。
そんな感覚だ。
懐かしい感覚だ。
ミルクティーを飲む。
「つっめたい」
冷めたミルクティーを片手に、私はカレンダーに◎印を付けた。
そして、パソコンに向かう。
頑張ろう、私だって、生きた証を残してやる。
そう思えると、手は動いていた。
小雨は、いつの間にか上がっていた。
太陽の光が差し込んでいた。
冷めたミルクティーに光が反射していた。
お読みくださり、本当にありがとうございます。