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輝夜さんが出張に出かけると言ったのは、卒業式を三日後に控えた三月の中旬のことだった。
輝夜さんは私を目の届くところに置きたがった。出張にも本当は一緒に連れて行きたかったというけれど、私はお断りさせてもらった。
輝夜さんは立場的には兄のようなものなのだけれど、一応は男と女なので出張先で二人きりでホテルの部屋に泊まるのはまずいと思う。輝夜さんには恋人がいるかもしれないし、誤解を招く様な行動は控えなくてはいけない。
恋人、いるかどうか知らないけど。
何となく聞きづらくて尋ねられないままだった。輝夜さんは落ち着いた見た目なので二十代後半に見えるけれど、まだ二十五歳を過ぎたばかりなのだという。若くて美形なのだから恋人の一人や二人いるだろう。でもそんな気配は微塵もない。私が鈍感なだけかもしれないけれど。
昨今は色んな恋愛の形があるから、輝夜さんの好きな相手が女性だけとは限らないし、不用意に聞くべきことでもないだろう。私は輝夜さんのことを詳しくは知らない。物腰が柔らかくて優しいけれど、――なんだろう。話していると、なんだか胸がざわざわする感じがするときがあった。
登校日なんてぽつぽつとしかなくて、学校にはほぼ行っていないに等しい私は外に出ることもできずに、天牢院家で日々ぼんやりと過ごしていた。それはまるで在りし日のあの塔の中のようで気持ちが鬱屈してくるのが分かるので、輝夜さんが居ない隙を見計らってせめて外をお散歩ぐらいはしようかと思っていた。
広大な家の敷地の中はお散歩を許されていたけれど、門の外には行ってはいけないと言われていた。久々にコンビニに行ったり本屋さんに行ったりしたい。輝夜さんと二人なら出かけられるけれど、一人になりたかった。
「月夜。明日の夕方には帰ってくる。俺がいない間、誰も家に入れてはいけないよ」
「はい」
「勿論、一人で出かけてもいけない。危ないからね。……本当は一緒に連れていくのが一番安心なんだけれど」
「輝夜さんと私は年頃の男女なので、お泊りはまずいと思うんですよね」
「月夜は俺の妹のようなものなんだから、気にする必要はないのに」
何回か繰り返したやり取りを、もう一度玄関で繰り返す。
輝夜さんは本当に不思議そうに首を傾げた。下心なんて微塵もなさそうな表情なので、年頃の男女であることを意識している私の方が寧ろ間違っているような気さえしてくる。
私は間違ってないと思うんだけど。
いかに私が地味な見た目の普通が服を着て歩いているような女であっても、そこは気にさせて欲しい。
輝夜さんみたいな美形の国出身の美形の方は私なんて眼中にないことは分かっているのだけれど、やっぱり性別というものはありますし。
「知り合って二週間も経っていない男女がお泊りをするのは駄目ですね」
「一緒に暮らしてるのに?」
「部屋は別ですよ、輝夜さん。たまには、ええと、その、輝夜さんは私じゃなくて恋人の人とかを構ってあげた方が良いと思います」
とうとう言ったわ、私。
今がチャンス、タイミング。そう思ったので、私は言いづらかったことをやっと言うことができた。
恋人と表現したので、輝夜さんの相手が女性でも男性でもどちらでも大丈夫だ。無暗に人を傷つけない、そんな言い方ができた筈。
ソフィーナだった時代、お兄様が何人愛人の方を侍らしていても、クライス様がエリス様と仲睦まじくしていても何も言わなかった私にしては、踏み込んだ方だわ。
どろどろ昼ドラぐちゃぐちゃ不倫、男女間の痴情の縺れというものが苦手で只管避けていたのよね。ご飯が美味しく食べれたらそれで幸せだったから、男性を取り合ったり不義を働いたり、そういうのに巻き込まれたくなかったの。
そういう恋愛の泥沼なんかについて私はずっと蚊帳の外だと、関係ないと思っていたのに、結局それが原因でソフィーナだった私は死んでしまったのだから、人生どうなるか分からないものだわ。
「……俺には恋人はいないよ。もしかして、気になっていた?」
「いないんですか……、美形の国の王国の人なのに……」
「月夜は美形の国の王国の人ではないの?」
美形の国の王国という単語はあっさり輝夜さんに伝わったらしい。
ということは輝夜さんには自分が美形という自覚があるということだろう。いや、無い方がおかしいのだけれど。しゅっとしてきらきらしている輝夜さんが自分の容姿をなんとも思っていないとしたら、かえってその方が心配になってしまう。
「私は普通ですよ。鰻で言えば梅ですね」
「鰻……」
「輝夜さんは鰻で言えば松です。一万五千円ぐらいの」
「そうなんだ……」
輝夜さんは腕を組んで、軽く首をひねった。
鰻よりも天丼で例えた方が良かったのかもしれない。
「俺は月夜のことは可愛らしいと思っているけれど」
「もしかして美形を見過ぎて飽きたとかじゃないですか。普通な私が物珍しく見えるんですよ」
「髪の色と目の色が黒いというだけで、月夜は可愛いんじゃないかな」
髪の色と目の色は黒いわね。
昔は銀色の髪に、緋色の瞳をしていたけれど。
「顔立ちの良しあしはともかくとして、月夜が俺の恋人について気にしてくれていたなんて、嬉しい気がするね」
「……輝夜さんの私生活に迷惑をかけたくありませんので」
「それだけ?」
輝夜さんの声に妙な艶が燈った気がした。
これは、もしかして藪蛇かもしれない。何か聞いてはいけないことを聞いたような、そんな気がする。
「月夜。……君が言うように、俺たちは男女だ。どれぐらい君と親しくなれば、一緒に泊まりに行ってくれる? 月夜、俺の妹じゃなくて、恋人になる?」
輝夜さんは私の頬に触れた。
綺麗な顔が近づいてくるので、私は一歩下がる。
「……輝夜さん、仕事で疲れているんですか?」
会社経営とは左程忙しくないと輝夜さんは言っていたけれど、毎日遅くまで起きているし仕事部屋に居ることも多いし、電話も良くしている。私に時間を割いてしまっている分忙しくなっているのではないかと思う。
だから疲れているのかしら。私が可愛く見えちゃうほどに疲れているのだわ、きっと。
「違うよ。……月夜、考えておいて。……俺は君が可愛いんだ。だから、いつか誰かに奪われてしまうんじゃないかと、俺のいないところで死んでしまうんじゃないかと、心配で仕方ない」
「そんなにすぐには死んだりしませんよ。帝都はおおむね平和ですし」
唇が触れるのかと思った。
慌てて自分の口を両手で押さえると、輝夜さんは笑いながら私の額へと口づけた。
「約束を守ってね、月夜。一人で出かけないで。それと、誰も家に入れてはいけない。分かった?」
「……分かりました。私は子供ではないので、大丈夫です。輝夜さん、気を付けて行ってきてくださいね」
私は戸惑いながら、何とか笑顔を作って輝夜さんを見送った。
「それじゃ、行ってくる」
輝夜さんが扉から出ていくのを見送って、私は玄関にずるずると座り込んだ。
胸がどきどきしてる。吃驚した。輝夜さんは今まで優しい保護者みたいな立場をずっと保っていたから、こんなに距離を詰められたのは今日が初めてだ。
美形の皆様は美形の大国で恋愛を繰り広げるのだから私は関係ないと思っていたのに、今日の輝夜さんは優しい保護者のお兄さんではなく、男性だった。
揶揄っただけ、なのかしら。
私が男女は一緒に泊まってはいけないと言い張っていたから、揶揄いたくなっただけなのかしら。
きっとそうだわ。意識しすぎると息苦しくなっちゃうから、忘れる事にしましょう。
だって恋愛というのは恐ろしい。
輝夜さんに縺れる痴情があるかどうかは分からないけれど、お金持ちの美形なのだから惚れた腫れたがないほうがおかしいので、私は巻き込まれたくない。今回こそは容姿はどうでも良いので優しくておおらかな人と結婚して、幸せになるのだから。
私は自分の部屋に戻り、携帯と財布を鞄に詰め込んだ。
家出をしようとしているわけじゃない。コンビニに行くだけである。この日の為に、家政婦のおばちゃんの一人と仲良くなっている。家政婦のおばちゃんが輝夜さんに怒られたら申し訳ないので、家政婦のおばちゃんが買い物に行った隙を見計らって、私はコンビニにおにぎりを買いに行ったということにする打ち合わせはもう既にすんでいる。
実際におばちゃんが買い物に行った隙を見計らい、私は見張りの手薄になった玄関を出た。
輝夜さんには申し訳ない気がしたけれど、ここからコンビニまでは歩いて十分ぐらい。案外駅が近く、駅前にいつもにこにこ眩しい笑顔のニコニコマートがあると、家政婦のおばちゃんが教えてくれた。
久々の外出。およそ二週間ぶりの一人きり。
輝夜さんに嘘をつくことに罪悪感がないわけじゃなかったけれど、でも閉じ込められるのは苦手なのよね。クライス様みたいに理由も分からずに閉じ込めるわけじゃないから輝夜さんのほうがまだ良いのかもしれないけれど、自由に外に出れないのは心が荒んじゃうわ。
コンビニぐらいなら良いわよね。近いし。
十分ほどるんるんしながら、まだ少し肌寒い三月半ばの街を歩く。自由って良いわ。久々に、普通の生活に戻ったみたいでとても良い。
駅前には沢山の普通の人たちが歩いている。それぞれいろんな事情があるのだろうけれど、私の目からは皆普通に見える。
道も間違えずに駅まで来ることができた。曲がり角も少なくて、あんまり難しくなくて良かった。
目当てのコンビニに入り、おにぎりを物色する。
この感じも久々だ。一個ずつ包装された、鮭やシーチキンや、たらこのおにぎりが並んでいてとても美味しそう。デザートもお弁当も新しいものが出ている。パンも新製品がある。春だからかしら、いちごを使った食べ物が結構多い。
どうしようかしら、と暫く棚の前で考える。
ふと気づくと、私の隣に背の高いお兄さんが立っていた。
私は邪魔にならないように少しだけ横に避ける。
お兄さんは二十代前半ぐらいにみえる、ひょろりと長くてちょっと猫背の人だ。茶色い髪の毛がぼさぼさしていて、目が半分ぐらい隠れている。細い体にぶかぶかしたモッズコートを羽織っている。
細い足に、重たそうなエンジニアブーツを履いていた。
「……あの」
お兄さんに話しかけられたので、私はびくりと体を震わせた。
まさかコンビニで話しかけられることがあるとは思わなかったからだ。




