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 私は食べ終わったうどんを入れていた食器と鍋を洗って、のろのろと制服を脱ぐとシャワーを浴びた。

 私の家族は亡くなった母だけだった。

 父の記憶はない。私がまだ赤ちゃんの時に、仕事中の事故で亡くなったらしい。母は私を一人で育ててくれた。労災と、生命保険と、定食屋のパートのお金。裕福な暮らしではなかったけれど、私は幸せだった。

 そんな母も徐々に具合が悪くなり、一か月前にはとうとう入院をした。

 肺の癌だった。入院費と生活費と、それから葬儀のお金を払うと、貯金は底をついてしまった。

 三月、一日。

 お風呂からあがってパジャマを着る。肌寒さに体を縮こませて髪をふきながら、カレンダーを眺める。

 あと一カ月もしたら卒業できるけれど、どうしよう。

 大学も決まっていたけれど、とても通える状況じゃないし。

 小さく息を吐く。

 私は母の状態がだいぶ悪いことを結構前から理解していたので、悲しかったけれど、打ちのめされたりはしなかった。こうなるだろうっていう覚悟はとっくにできていた。

 それは私にソフィーナとしての記憶があったからかもしれない。

 あちらの世界の寿命は短かった。私の年の頃には親世代の方々が病気で亡くなってしまうのはごく普通のことだった。だから、大人になるのも今よりもずっと早かった。

 十五歳や十六歳で結婚するのだって、割と当たり前だったのである。

 こちらの世界では、未成年淫行とかなんとかで捕まってしまうだろうけれど。

 病床の母はしきりに私を心配していて、私はずっと大丈夫だと言い続けていた。

 私は大丈夫。

 でも、先立つ物は必要である。具体的に言えば、お金がない。


「明日あたり、空から突然五億円ぐらい落ちてこないかなぁ……」


 私は小さな声で呟いて、あまりの馬鹿馬鹿しさにくすくす笑った。

 アパート代と、光熱費と、食費。それらが賄えるぐらいには働かないといけないわね。

 そうするとやっぱり高校は辞めて、就職しないといけないわ。ソフィーナと違って、月夜の人生は長いのだから。

 アルバイトであっても、いくつか掛け持ちしたらそれなりに生きていけるかしら。

 人生って難しい。

 王妃ソフィーナの知識は、この世界でひとりぼっちで生きていくためにはあんまり役に立ちそうになかった。


 一人きりになってしまった静かな部屋のリビングのソファで毛布にくるまって、そんなことをつらつらと考えていると、いつの間にか眠ってしまっていた。

 ――夢の中で、クライス様が私に手を伸ばしている。


「ソフィーナ。……マヨルカ侯爵家に帰りたいと言っているそうだな」


 中低音の声が、不機嫌に言葉を紡ぐ。

 冷たい緑色の瞳が、私を射殺すぐらいの勢いで見つめている。

 私何か気に障ることをしたのかしら! 

 これっぽっちも心当たりはないのだけれど。だって今日は朝からサーモンにタルタルソースをあえたものを食べて、昼には紅茶ときのことクリームソースのパスタを食べて、昼にはフィナンシェを沢山食べた記憶しかないもの。沢山食べすぎだとか、そういうことなのかしら。私の胃袋が国費を圧迫しているとか?

 クライス様が不機嫌な理由が分からない。それは、帰りたいには帰りたいわよ?

 だって私、気付いたら側室になってるし。しかもお飾りだし。側室の上にお飾りとか、必要性が分からないわ。側室というのは、なんていうか、王妃が物足りないから娶るものなんじゃないのかしら。

 それなのに捨て置かれてるとか意味不明すぎて、お兄様のところに帰りたくもなっちゃうわよ。

 私は心の中で、帰りたいです帰りたいですと何回も念仏のように唱えながら、表面上はにこやかに小首を傾げて見せた。「何のことか分かりませんわ」と言って誤魔化すと、クライス様は冷酷な笑みを浮かべる。


「私は、君を離さない」


 目覚めた私は「何でよぅ……」と小さな声で呟いた。

 あぁ、嫌だ。

 重たい頭を押さえる。

 全く最悪。最悪過ぎる。顔良し家柄良しの二拍子揃っていても性格が悪ければ全てが無に帰す。正しく虚無。虚無以外のなにものでもない。

 母が亡くなりこれからのことを考えなければいけない大事な朝から、クライス様の夢を見てしまうだなんて。


「彼氏なんて要らないけど、もし作るとしたら、優しさに満ち溢れた豆大福みたいな人がいいわねぇ……」


 ぼんやりと天井を眺めながら独り言ちる。

 豆大福。

 もしくは柴犬。

 あとは大きなクマのぬいぐるみみたいな人が良い。美形は駄目だ、やっぱり顔が良いとろくなことにならない。

 今の私、椎名月夜はそこそこの身長にそこそこの顔立ちの、正しく中の、中の、中、平均値ど真ん中も良いところといった女子高生なので、美形と何かしらの接点を持つ羽目になるとはとても思えない。それだけが救いだ。

 朝の冷たい空気が部屋に溢れ、私はソファの上で小さく震えた。

 

 高校の担任には事情を説明してある。一週間ほど休むと伝えると、心配はしてくれたけどそれだけだった。

 若い担任の女教師はクラスを受け持つのははじめてで、まだたったの二十六歳だか七歳。私と然程年齢は変わらない。

 自分のことで精一杯なのだろう。同情の奥に、どうしたら良いのか分からないという困惑と、面倒ごとには関わりたくないという拒絶があった。

 助けを求めているわけでも、助けを期待しているわけでもない。必要だから、事務的な連絡をしただけだ。そこに余計な感情はいらない。

 色々聞かれたから、適当に答えておいた。

 ただ、ひとつだけ嘘をついてある。

 母の葬儀が済んだら、祖母の元へ行くと。

 私には母以外の肉親はいない。いるかもしれないけど、私は知らない。それを知られてどこかの誰かに保護されるのが一番嫌だ。

 だって前世の私は今の年齢で王妃だったのだし、今更知らない大人の元で庇護される程幼くない。

 王妃として立派かどうかは正直良く分からないけれど、一応義務は果たしていたように思う。

 前回の十八年間と今回の十八年間を足した値が精神年齢だとしたら、担任教師よりも私の方が年上なので、ついつい上から目線になってしまうのは許してほしい。

 そこはまぁ、一応私もソフィーナ・マヨルカ侯爵令嬢だったのだし、仕方ない。

 ともかく平然と嘘をついた私は、行く当てもなく、先立つ物もなく、さてどうしたものかととりあえず朝の珈琲を入れることにした。


 転生してしまって悪いところは、前世の記憶を覚えているところだと思う。

 覚えてさえいなければ、私はもう少し椎名月夜として無邪気に生きて居られたかもしれない。

 母には隠していたけれど、たまに「月夜は大人びてるわよね」とか「落ち着きすぎ、お年寄り?」などと言われていたので、やっぱり私の自我に前世の記憶は多少なりとも影響があったかもしれないと思うのだ。

 とはいえ気づいたときには私は私だったので、自分自身には違和感はないのだけれど。

 そして良いところといえば、より一層ご飯が美味しく食べられる、ということだろう。

 私の前世の世界は、今の世界の歴史のどこを探しても出てこない。中世ヨーロッパ的ではあるけれど、中世ヨーロッパではない場所だった。

 けれど、その生活様式はやっぱり中世ヨーロッパに似ていた。

 あの当時は、私の食べていたご飯はとてつもなく美味しく感じられたけれど、百五十円で買えるコンビニのたらこおにぎりの方が断然美味しいのでは。コンビニ飯は王城の料理人を凌駕しているのでは。

 そう思うと、まぁ、どれもこれも何を食べてもそれはもう美味しくて、コンビニおにぎりの新製品と、肉まんの新製品は必ずチェックする生活を送っている。

 今回の私も美少女ではないものの、運動が好きというわけでもないのに食べてもそれほど太らない燃費の悪い体に産まれることができたので、存分にお金を趣味の食事に費やしていた。

 砂糖とミルクを入れた珈琲を飲みながら、働くとしたらやっぱりご飯が食べられる賄いつきの食堂か、コンビニか、レストランか、焼き肉店か、それともアイスクリームショップが良いかな、などと考える。

 熊さんみたいな見た目の、心優しくて学生たちにデカ盛りを提供しちゃうような男気のある店主さんが、ちょっと地味な私をお嫁さんに望んでくれないかしら。

 前世では色々あったけれど、私は今回こそは幸せになりたい。

 私の食べっぷりに感銘を受けて「一生、月夜のご飯を作りたい!」などと求婚してくれないかしら。

 美形じゃなくて、優しければそれで良い。

 あと浮気をしない人。これは外せない。

 そんなことを考えながらにやにやする私。母が亡くなったばかりなのに不謹慎かもしれない。でもきっと、母も私の幸せを望んでくれている筈だ。暗い顔ばかりするのは良くない。

 今日から、頑張らなければ。

 

 アパートの玄関のチャイムが鳴ったのは、そんなまったりとした朝のことだった。

 葬儀屋さんが何か連絡をするのを忘れたとか、何かしらの書類があるとか、だろうか。それぐらいしか思い浮かばない。学校に特別親しい友人もいないので、私の家を心配して尋ねてくるクラスメイトがいるとも思えない。

 孤独な日々を送っている訳ではないのだけれど、あまり誰かと親しくしようという気にならなかった。

 だって、執着されるのは恐ろしい。

 いや、自信過剰な訳じゃないのよ。本当よ。

 誰に対しての言い訳なのか分からないけれど、私は心の中でそう繰り返した。

 ソフィーナだったころ、まぁ、なんていうか、束縛されたというか、執着されたというか、そういう相手だったのだ。クライス様という人は。

 人は見かけによらないものである。冷酷で他人に関心がないように見えたのに、なんでまた、食べることが趣味という特徴ぐらいしかない私にそこまで拘ったんだか。

 美少女だったからかしら。

 その可能性が一番高いわね。

 やっぱり顔が良いとろくなことにならない。

 そんなことをつらつら考えながら、私は玄関の扉を薄く開く。

 扉の前に立っていたのは、私の敵としか言いようのない、見たこともない煌びやかな美形の男だった。


 狭い玄関の扉の前に立っている、麗しい男の人。

 私は見なかったことにして扉を閉じようと思ったけれど、思っただけでできなかった。

 美形とは虚無。美形とは敵。

 そんなことは分かっているのに、ついつい見てしまうのもまた美形。こればっかりは仕方ない。やっぱりどうしても目がいってしまうのだ。テレビに映った美形の俳優とお付き合いしたくはないけれどついつい見てしまうのと一緒である。

 目の前の美形は、年の頃は二十代後半ぐらいに見えた。上質なスーツを着て、濡れたような黒い髪は少しだけ長くて目にかかっている。背は高く、私のアパートの小さい玄関の扉と同じぐらいに高いのではないだろうか。潜るときに頭がぶつからないだろうか。それぐらいに高く見える。

 瞳は色素が薄いのか、少し茶色がかっている。いかにも上流階級の、いかにも金持ちそうな、絵本の中から抜け出してきた王子様のような美形である。

 私は、はっとした。

 王子様だなんて、なんて不吉な……!

 彼が何者で何をしに来たのかなんて分からないけれど、早々にお引き取りを願うべきだろう。

 居留守を使っておけば良かった。

 私は玄関を開けてしまった数秒前の私を恨んだ。


「……どちら様でしょう、部屋、間違えていません?」


 恐る恐る聞いてみる。

 大きな裾の長いシャツを羽織っている私のむき出しの足が、何となく心もとない。

 三月の、まだ冷たい外の空気が部屋の中に吹き込んだ。男の背後の景色は白くかすんでいるように見える。

 雪こそふっていないけれど、降りそうなぐらいにどんよりと薄暗い。


「……椎名、月夜さん」


「はぁ……、私ですけれど」


 低い声が、私を呼ぶ。名前は間違っていない。だとしたらやはり私に用事があるのだろうか。

 訝しく思い私は眉を潜めた。


「はじめまして。……俺は、天牢院(てんろういん)輝夜(こうや)といいます。君を、迎えに来ました」


「……間に合ってます」


 思わず本音が漏れてしまった。

 見た目がきらきら輝かしい人間というのは、名前まできらきらしていないといけない決まりでもあるのだろうか。

 やたらと豪勢な名前の男に、私は若干蒼褪めながら首を振った。

 いや、だって、知らないし。

 見知らぬ美形に迎えに来たなんて言われましても。ここは現代日本であって、私の生きていたどこかファンタジーな世界とは違うのです。だから、きらきらした美形の男が突然私を迎えに来たりはしないのだ。そんなことが許されるのは絵本の中ぐらいのものである。

 そしてその上、なんたって私は前世から美形運がないのだ。目の前の男性はクライス様ではないのだけれど、美形となるとどうしてもクライス様のイメージと重なってしまい良くない。

 母が亡くなりこれからのことを考えている私を混乱させるのは辞めて欲しい。美形の皆様は美形の王国で愛憎劇を繰り広げていただくということで、ここはひとつ、私のことはそっとしておいてください。そういうことで、どうかしら。

 悪くない提案だと思うけれど。

 その為に私は中の中ぐらいの見た目で産まれてきたのだ。美少女のソフィーナとは違って、中の中に産まれたのは穏便な人生を過ごすために違いない。そうに決まってる。


「急なことで、驚いたとは思います。……けれど、君の母が亡くなったと連絡を受けて、急いで君を迎えに来たんだ」


 事務的だった声音に、僅かに感情が籠る。

 急に気安くなった美形、もとい天牢院さんに私は警戒心を強めた。


「ええと、人違いじゃないでしょうか」


「人違い、ではないよ。月夜……さん。君の亡くなった父親は、俺の母の前の夫だった。……けれど、随分と昔に浮気相手と姿を消してしまってね。それが君の亡くなった母親。……亡くなる前に、連絡が入った。月夜さんがひとりきりになってしまうから、引き取ってくれないかと言って」


 なにその複雑なやつ!

 私は心の中で叫んだ。

 前世の私もそうだったけれど、私は男女間の複雑なやつは苦手だ。頭が痛くなってしまう。だからどろどろした不倫ドラマとかは見ない主義。それなのに、今まさに私どろどろした不倫ドラマの世界に巻き込まれそうになってません? 

 私が好きなのは巨大ご飯を食べる番組なんですけど。今すぐチャンネルを変えて欲しい。

 ええと。ちょっと整理させて。――私の父は天牢院さんのお母さんの元夫。ということは、天牢院さんは今の旦那さんの息子ということで、よく考えたらほぼ無関係なのでは?

 無関係、なのでは?

 大事なことなので二度繰り返した私。

 天牢院さんの綺麗な顔を見上げた。


「えーと、あの、あのですね、つまり私と天牢院さんは、血の繋がりはないってことですよね?」


「そう。血は繋がっていないけど、縁はある」


「まさか! 積年の恨みを晴らしにきたのですか……!」


 やはり、美形。

 現代女子高生的に言えばイケメン。

 イケメンとは執念深い生き物である、クライス様を筆頭に。

 浮気された天牢院さんのお母さんが、泥棒猫であるところの私のお母さんが亡くなったことを知って、残された私に恨みを晴らしに来たに違いない。

 いや、私を恨んでるのは天牢院さん?

 お母さんを私の存在が傷つけてるからとか?

 分からないけど! とても嫌な予感が!


「積年の恨み? え? どうして?」


 天牢院さんは困惑している。

 私は騙されない、美形はちょっと困った顔をしただけで全てを許したくなってしまう威力を持った生き物だ。

 威力というか、顔面力というか。

 絆されては駄目よ月夜。ソフィーナだった時に痛い目を見ているのだから!

 


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