旦那様は私を殺したいほど憎んでいる
「父上! ブリットをイェルドと結婚させるなど、いくら何でも残酷すぎる。イェルドは俺を憎んでいるのに」
一階にある父の執務室から私の名前が聞こえてきたので、はしたないと思いつつ、ドアの近くで聞き耳を立てることにした。今怒鳴ったのは私の兄。そして、イェルドとは兄が誤解で酷い拷問をした上に腕を切り落とした騎士の名前だった。
そんな人と私が結婚? 本当に父が決めたのだろうか?
「わたしだってブリットには幸せになってほしいと思っている。おまえを心底憎んでいる男などに嫁がせたくない。しかし、カルネウス公爵殿から直々の要請だ。我が家の大切な娘を犠牲にするしか、公爵を納得させられないのだ。これ以上、このような馬鹿げたことでもめているわけにはいかない」
父は悔しそうに唸り声のような声を出した。
カルネウス公爵令嬢のセシーリア様は二か月前まで王太子殿下の婚約者だった。美しく聡いセシーリア様と凛々しい王太子殿下はとてもお似合いだと、皆が二人の結婚を待ち望んでいた。
しかし、一年前にフェーホルム男爵令嬢のドリスが王太子殿下と出会ってから、全てが歪み始める。
殿下とドリスが親密であるとの噂はすぐに社交界に知れ渡った。それから半年後にはセシーリア様と王太子殿下の護衛騎士であるイェルドが密会しているとの噂が流れ始める。もちろん、セシーリア様もイェルドもそんな噂を否定した。常日頃から生真面目なイェルドだったので、多くの人は根も葉もない噂だと軽く流していた。
王太子殿下とセシーリア様の醜聞は簡単に消えることはなかったけれど、表面上は何ごともなく時は過ぎていく。
そんな危うい平穏が崩れ去ったのは二か月ほど前。
国王陛下夫妻が同盟国を訪問するために国を留守にした。護衛をしているのは騎士団長である父。国庫を管理するカルネウス公爵も同行した。
そんな中で事件は起こった。
私には婚約者がいた。ノルデンソン伯爵の次男ベンノは三歳上の二十歳。小さい時から王太子殿下の遊び相手をしていて、三年ほど前から殿下の高位従者を務めている。私と結婚後は父が管理する爵位の一つを譲り受け、子爵となる予定であった。
彼と婚約したのは十年前、私が七歳の時なので、燃え上がるような思慕を抱くことはなかったが、それなりに情は持っていた。
それなのに、父が不在中に突然やってきて、一方的に婚約破棄を告げたのだ。
「君は虐めをするような愚かな女だったのだな。そんな女とは結婚できない。婚約は破棄させてもらうよ」
「虐めとは何の話でしょう? 私には覚えがありません」
「言い訳は結構だ。見苦しいだけだ」
理由さえ教えてくれない。私の話など一切聞くつもりはなさそうだった。
そして、戸惑う私を見捨てるように、兄が婚約破棄を了承してしまう。
「ブリットはドリス嬢を虐めていたらしいな。他の令嬢も同じことをしていたらしいが、騎士団長の娘として、愚かな令嬢たちを諫めるのがおまえの務めだろう。一緒になって虐めるなど、我が家の恥だ! 婚約を破棄されて当然だ」
兄は私にはとても甘かった。そんな兄が今まで見たこともないような険しい顔で私を見ている。
「ドリス様? 私は直接お会いしたこともありませんが?」
王太子殿下と噂になっている令嬢であることは知っている。だけど、本当にそれだけだ。虐めたことなど一度もない。仲の良い令嬢と『婚約者のいる男性にすり寄るはしたない女』くらいは言ったかもしれないけれど、それは事実だと思う。もちろん、本人に直接言ったことはない。
「とにかく、僕は君と結婚するつもりはないから。か弱い女性を大勢で虐めるような女と生涯を共にできるはずはない」
ベンノは虫でも見るような冷たい目で私を睨んでいた。十年の月日はこんなにも軽かったのかと、あまりの衝撃に反論もできなかった。涙さえ出ない。
「婚約破棄の件は俺から父に伝えておく。ベンノは何も心配しなくてもいい。ブリットには少し教育が必要だがな」
そう言って兄は私の腕を掴んだ。
それから父が帰国するまでの十日間、私は部屋に軟禁状態になる。父が留守の間は兄が我が家を取り仕切っていて、使用人は誰も逆らえない。母と二歳下の弟は領地へ行っていて留守にしていたので、反対できる者は誰もいなかった。
婚約者のベンノも、優しかった兄さえも私の言うことを全く信じてくれなかった。そのことがとても辛い。私に向ける冷たい目思い出して、やっと泣くことができた。
ベンノとの十年間。そして、兄との十七年間。私にとってはとても重要な時間だったのに、二人にとっては私に弁明さえ許さない程に軽かったようだ。少しの信頼も築けていなかった。
ドリスがベンノや兄にどんな証言をしたのか気になったが、友人への手紙さえ禁じられた私に知る方法もない。
時間だけはいくらでもあった。でも、何もすることを許されない私は、ただ泣き暮らすしかなかった。
部屋から一歩も出ることが許されていない間に、大きな事件が起こっていた。
ドリスがイェルドに襲われ純潔を失ったと王太子殿下に申し出たのだ。そして、イェルドと通じていたセシーリア様がドリスを襲うことを命じたとして、二人が捕えられた。
もちろん二人は罪を認めなかった。それに苛立った王太子殿下はイェルドへの拷問を兄に命じる。
イェルドの拷問の場にはセシーリア様も連れ出された。たおやかな公爵令嬢にとって、どれほど辛いことだったか、想像に難くない。
『セシーリアに頼まれたと言え。そうすれば楽に殺してやる』
兄はそう言ってセシーリア様の前でイェルドの拷問を続けたという。
「しかし、イェルドはブリットに何をするかわかったものじゃない!」
ドリスの言うことだけを信じ、私を部屋に閉じ込めたのに、兄は私を心配しているらしい。本当に今更だ。あの時、ドリスのことを少しでも疑っていれば、こんなことにならなかったのに。
「公爵殿はブリットがどんな目に遭っても離婚は認めないとおっしゃっている。唯一、死体になればこの家に帰ることを許すと。意に反すれば騎士団への予算を減額されてしまう。そうなれば国を守ることも難しくなる。公私混同だと思うが、それほど公爵殿を怒らせたのはおまえだ」
兄は無言だった。反論などできるはずはない。
父は騎士団のため、そして、国のために私を犠牲にしようとしている。
私だって貴族の娘。政略的な結婚をしなければならないことは理解していた。無実の罪で拷問されたイェルドはとても気の毒だし、誠心誠意お詫びしなければならないとも思う。
でも、結婚するのは怖かった。
「恋人でもないセシーリア嬢を護るために苛烈な拷問に耐えきったイェルドだ。おまえを殺したいほどに憎んでいるとしても、罪なきブリットにその憎しみをぶつけるとは思えない。あいつは騎士だから」
父は部下でもあったイェルドを信頼しているようだった。
「騎士の誇りである剣を持つ利き腕を奪ったのは俺だ。騎士道など捨ててしまう程の酷いことをしたのは俺なんだ。公爵殿に俺の首を差し出して、この結婚をなかったことにしてもらってほしい」
絞り出すような兄の声が聞こえてきた。
「その願いは却下された」
父は諦めきったように呟いた。
カルネウス公爵が怒るのは理解できる。不義の疑いをかけられ、酷い拷問まで見せられたセシーリア様は、心に深い傷を負い修道院へ入ってしまった。
陛下と公爵、それに父が帰国し、騎士団が全力を挙げて捜査した結果、全てドリスの狂言であったことが判明した今でも、セシーリア様は一生俗世へ戻るつもりはないと言い張っているらしい。
なぜドリスがイェルドを嵌めようとしたのかというと、王太子殿下の護衛騎士であったイェルドがドリスに対しして節度を持って殿下と接するようにと苦言を呈し、それが気に入らなかったとのこと。ドリスは既に純潔でなかったが、それを王太子殿下に知られて、咄嗟にイェルドに襲われたと嘘をついた。それを殿下や兄を含む側近たちが素直に信じたのだから、本当に情けない。
「このままブリットを生贄にするつもりですか!」
兄が怒鳴っているが、悪いのは全て兄だと思う。今更私を気遣っているようなことは言わないでほしい。
「そうせざるを得ない状況にしたのはおまえだ。わたしの名代として勝手に婚約破棄を認めたのもおまえだろう。十七歳になったブリットに、今更良い縁談などそうそうあるはずないではないか! セシーリア嬢のために痛みに耐えきったイェルドに、ブリットを幸せにしてくれるのを期待するしかない」
セシーリア様と同じように修道院へ逃げ込もうかと一瞬考えた。でも、そんなことをすればカルネウス公爵をもっと怒らせることになり、本当に国が荒れてしまうかもしれない。
話を聞く限り、イェルドは高潔な騎士らしい。いくら兄を憎んでいて、公爵の許しがあったとしても、妻を苛むような人柄ではないのではないか。
そう思った私は結婚を受けることに決めた。
その夜、父からイェルドとの結婚話を聞かされた私は、黙って頷いた。
その日から母は泣き暮らしている。あまりに母が泣くものだから、私は泣くこともできず、ただ母を慰めていた。弟はひたすら兄を責めていたので、私はそれ以上兄を責めることもできないでいた。
その後、王太子殿下は王位継承権を失い、公爵として臣籍降下した。そして、易々とドリスの甘言に騙されていた兄を含む殿下の側近たちも、廃嫡になったり勘当されたりした。
ベンノも例外ではなく、伯爵家から勘当されたので平民となったらしい。もう私には一切関係のない話だけど。
そうして一か月後、結婚式の日がやってくる。結婚式にはあまりに不似合いな濃い灰色のドレスを纏い、父と一緒に馬車に乗って王都の教会へ向かった。母と弟は辛いからと参列を拒否した。廃嫡され平民の騎士となった兄は参列する資格を失っている。
結婚が決まっても、今までイェルドと会う機会はなかった。だから、結婚式の今日、初めてイェルドと顔を合わすことになる。
イェルドに会えば、まず兄がしたことを謝ろうと思っていた。
しかし、実際イェルドを目の前にすれば、軽々しく謝罪などできるはずもなかった。
右袖のふくらみが失われていて、イェルドが歩くと頼りなく揺れている。左手の指の爪は少し見えているだけだった。全て剥がされてしまったらしい。頬から顎にかけて引きつったような火傷の痕がある。熱した鉄の棒を押し付けられでもしたのだろう。どれほど辛くて痛かったかと思うと、とても正視に耐えなかった。
イェルドはリンデゴード子爵家の三男だけど、子爵家からは誰も参列していない。貴族同士の結婚にしては本当に寂しい式だった。
イェルドは何も言葉を発しない。私も彼にかける言葉が見つからないでいた。
神父に求められるままにイェルドは結婚証明書に左手で署名する。子どもが書いたような拙い文字に、彼が利き腕を失ってしまったのだと実感した。その横に私も署名する。緊張のせいで震えていたためか、お世辞にも整っているとは言えない文字がイェルドの名前の横に並ぶ。それらは幸せな結婚ではないと主張しているようだった。
あまりに沈痛な雰囲気のためか、誓いの言葉もキスもないままに結婚式は終了した。
「これで君たちは夫婦となった。心から祝福するよ。ブリット嬢は婚約破棄されたのにも拘わらず、ちゃんと結婚できて良かったね。イェルド君もそんな体になったが、こんな可愛らしい妻と爵位を得ることができ、本当にめでたいことだ」
満面の笑みでそんなことを言いながら近づいてきたのはカルネウス公爵だった。結婚式の祝いの言葉としてはおかしくはないけれど、父は苦虫を噛み潰したような顔を見せている。
「公爵閣下、お心遣い、ありがとうございます」
全く喜んでいないというように目を伏せたままでイェルドが礼を言う。
「君は娘の恩人だからね。結婚の世話くらい安いものだ。どのように扱っても文句を言わない花嫁だから、気に入ってもらえると思うよ」
公爵は口角を上げて私を見た。
「カルネウス公、参列してくださりありがとうございます」
目が合ったので礼を言うと、
「娘の結婚式には参列できそうにもないからね」
表情を消した公爵は振り返ることなく教会を後にした。
そのまま家に帰らず、父が管理する領地の一つのファルンバリ子爵領へ行くことになった。同行するのは侍女と御者。そして、護衛が二人だ。領地の屋敷にも現地で採用した使用人と、管理を任せた代官がいる。
「馬車に乗らないのですか?」
護衛と同じようにイェルドが馬を引いてきたので、思わず訊いてしまった。
「騎士は馬上でも剣や槍を持って戦うので、左手一本でも馬を操ることができます」
少し不快そうに答えると、イェルドは器用に馬に跨り、馬を駆けさせる。右の袖が風を受けてそよいでいた。
領地ヘは四日後に着いた。途中の町では宿に泊まったが、なぜかイェルドは護衛と同じ部屋に泊まり、私は侍女と同室だった。結婚したというのに、イェルドとは殆ど言葉も交わすこともなく短い旅は終わった。
領地の領主邸へ入り、代官や使用人たちと挨拶を交わした。父の従弟である代官には引き続き管理の補佐をお願いして、イェルドと二人で領地のことを勉強していくことになった。
その夜、イェルドが私の寝室にやって来た。夫婦なのだから同衾は当然だ。
優しくはしてもらえないかもしれないけれど、彼ならばあまり酷いことはしないはず。そう自分に言い聞かせて、震え続ける体を止めようと努力した。
「貴女が近くにいると、俺は冷静ではいられない。だから、もうこの部屋を訪れることはしない。貴女が亡くなったら、この領地は団長にお返しするつもりだ」
一方的にそう告げて、震える私を残しイェルドは部屋を出て行ってしまった。
私が死ぬ? やはりイェルドは私を殺すつもりなの?
湧き上がる恐怖を追い出そうと首を振ると、真っ赤な髪が目に入る。私の髪は兄と同じ色。私を見れば拷問した兄を思い出してして冷静さを失ってしまうのも無理はない。
父が語ったカルネウス公爵の言葉を思い出す。
「死体になれば家に帰れるんだ」
恐怖のためかつい口に出てしまった。
母と弟はまた泣くだろうから慰めなければと思い、もう死んでいるのだから慰めることもできないと思い至り、笑いが込み上げてくる。
恐怖が振り切れてしまったのか、私はその夜、涙を流しながら笑い続けていた。
いつの間にか眠っていたらしい。
カンカンという甲高い音が何度も響いてきて目が覚めた。窓からは明るい日差しが差し込んできている。すっかり朝になっているらしい。
音が気になって窓から覗いてみると、イェルドが護衛の一人と剣を交えていた。他の男たちがにこやかに見つめているので、ただの訓練らしい。
左手一本で剣を持っているのに、イェルドは互角に戦っているように見えた。さすが近衛騎士。彼はとても強い騎士だったと聞いている。そんな彼の右腕を奪ったのは私の愚かな兄だ。
相手に右側から突かれ、イェルドは剣を取り落とした。訓練用の刃を潰した剣らしく、イェルドに怪我はないようだった。でも、悔しいだろうと思う。右腕があれば決して負けることのない相手だから。
それでもイェルドは剣を拾い上げ、違う男と剣を交えている。
もう騎士ではなく領主となったイェルドだけど、剣を諦めきらないのかもしれない。
剣の音を聞きながら、私は刺繍をすることにした。
常に危険が伴う騎士の妻は、夫の無事を願いハンカチに刺繍して贈る風習がある。母も虎を刺繍したハンカチを贈っていた。イェルドはもう騎士ではないし、私からの贈り物なんて迷惑なだけかもしれないけれど、それでも刺繍したかった。
虎や獅子、鷹などの勇猛な獣や猛禽類を選ぶことが多いのだけど、私は竜を刺繍することに決めた。
もちろん竜は想像上の生き物で、実際にはいない。物語に登場するのは殆ど悪しき竜で、聖剣を得た勇者に討伐されてしまう運命なのだけど、中には心優しい竜もいる。お姫様を救った隻腕の聖竜もそんな良き竜だ。
『強大な力を持つ黒竜は、小さな国のお姫様に恋をしました。でも、そのお姫様は体が弱く、もうすぐ儚くなってしまうでしょう。それを嘆いた黒竜は自らの前足を引きちぎりお姫様に与えました。竜の血も爪も鱗も、万病に効く特効薬となるのです。お姫様は竜のお陰ですっかり元気になりました。黒竜はその国を護る聖竜となり、国は大いに栄えました』
こんなおとぎ話だけど、黒髪のイェルドにぴったりだと思う。だって、彼は自らの腕と引き換えにしてセシーリア様を護ったのだから。
もし、イェルドが拷問の苦しさに負けて、セシーリア様がドリスを襲えと命じたと証言していたら、セシーリア様はカルネウス公爵が不在の間に処刑されていたかもしれない。
そんなことになっていたら、公爵は私一人の命で許してくれなかった。きっと一家皆殺しを願うに違いない。
父も母も、弟だって無事だ。それはイェルドが拷問に耐えてくれたから。
私は一体何を恐れていたのだろう。イェルドは私たちの恩人なのに。
彼が望むならば、この命を差し出して当然だった。
イェルドならば、きっとそれほど苦しませずに殺してくれるに違いない。その時まで、彼の無事を祈って刺繍を頑張ろう。
そんなことを思って刺繍していると、あっという間に昼になる。朝食は部屋まで運んでもらったけれど、昼は広い食事室に用意されていた。
イェルドの提案で、大きなテーブルの同じ側に距離を開けて座ることになった。前を向いていると、お互いの姿は目に入らない。
兄と同じ赤髪など見たくはないのだろうと思い、素直に従うことにした。
料理はナイフを使わず食べられるように、予め小さく切り分けてあった。隻腕のイェルドへの配慮らしい。
右腕を失って三か月余り。もう慣れたのか、イェルドは左手だけで器用に食べていく。朝早くから体を動かしたのでかなり空腹だったらしく、何度もお代わりを頼んでいた。イェルドが私の方を向くことはなかったけれど、怒っている様子もなく、穏やかに食事は進んでいた。
昼食が済むと、執務室で叔従父様から領地のことを教えてもらうことになった。ここでも、前の机に叔従父様が座り、イェルドと私は距離をとって並んで座る。やはり叔従父様の方を向くと、お互い目に入らない。
イェルドはとても寡黙で、食事中も執務室でもほとんどしゃべらなかった。領地のことに興味がないのかと、横目で見てみれば、真剣な顔をして叔従父様を見つめている。やる気はありそうだ。
そんな代わり映えのしない毎日が続いた。知らない間に二か月以上も経っている。
イェルドは剣の鍛錬を欠かすことはなかった。片腕に慣れてきたのか、今では護衛たちを翻弄するほど強くなっている。さすが元護衛騎士だ。
爪も少し長くなり、もうしばらくすると元のように指の先まで届くだろう。酷い剥がされ方をしたせいか、爪は少し歪んでいるし白っぽい。それでも、指先がむき出しよりはいいと思う。顔の火傷の痕は、色が少し薄くなったくらいで今でも痛そうだ。
服を着ているのでわからないけれど、体中に火傷や切り傷の痕があるらしい。
兄を憎んでいるはずだけど、イェルドは私を殺す素振りも見せなかった。それどころか、ほとんど近寄ることもない。せっかく刺したハンカチも渡す機会もない。
イェルドが剣の鍛錬をしている午前中は暇なので、玄関に飾るための大きな布に隻腕の聖竜を刺繍することにした。イェルドとこの領地を護ることができるようにと心を込めて針を動かせば、死の恐怖も忘れてしまいそうになる。
こうして穏やかな日々が過ぎていく。
そんなある日、突然ベンノが訪ねてきた。
イェルドは叔従父様と一緒に町へ視察に行っているので留守だった。私を捨てたベンノが今更何用だと不審に思うけれど、追い返すこともできず、応接室に通すことにした。もちろん、護衛と侍女も同室してもらう。あのような暴言を吐いたベンノと二人きりになど絶対になりたくないし、私は夫ある身なのだから、イェルドを裏切るような真似はできない。
「ブリット、久しぶりだね。元気そうで良かった」
なぜかベンノはとても機嫌が良さそうに見える。その笑顔が少し気に障った。
「お久しぶりですね。私との婚約を一方的に破棄したベンノ様が、何か用でもあるのでしょうか? もし用があるのならば夫と一緒にお伺いしますので、夫が在宅の時に来ていただけませんか?」
さっさと帰れと言いたい。元は伯爵令息だけど、勘当されたので今では平民なので、失礼にはならないはず。
「用があるのは君だけんなだ。婚約破棄の件は謝るから、もう一度僕と婚約してくれないかな」
ベンノがそんなことを言い出したので、目を見開いてしげしげと彼を見しまった。
「はい? 何をおっしゃっているの? 私はもう結婚しております」
「知っているよ。それに、イェルドとは白い結婚だということもね」
「誰がそんなことを!」
「この領地は元々君の父上のものだったのだろう? 騎士団長殿はとても君のことを心配していて、君たちのことを逐一報告させている」
私のことを心配してくれているのはわかるけれど、恥ずかしいからそんなことまで報告させないでほしい。私は元気にしているで十分なのに。
「父が貴方にそんなことを教えたの?」
なぜ、今更ベンノに?
「いや、君の兄上だ。僕たちは親友だからね。ブリットを幸せにしてほしいと頼まれた。もちろん、僕も君を幸せにしたいと思っている。この領地を一緒に治めていけたらいいね」
あの馬鹿兄! 女に騙されて、私に暴言を吐いて婚約を破棄した男に結婚を頼むなんてあり得ない。こんな男と再婚するくらいなら、このままイェルドと暮らすわよ。
イェルドはあんな体になっても、文句ひとつ言わないで頑張っているのよ。 使用人にも礼節を持って接しているし、動作だってとても美しい。
私は嫌われているので妻として扱ってもらえないだけで、彼は夫として申し分ないもの。
そう思うと、何だか泣けてきた。
「それは嬉し涙かな。僕も嬉しいよ。正直平民に落とされて困っているんだ。君の兄上は平民になっても騎士として身を立てることができるけれど、僕は剣が使えないので騎士になることもできない。でも、領地の運営なら自信がるよ。こんな小さな子爵領くらい余裕だ」
小さな領地で悪かったわね。随分と舐めているようだけれど、学ばなくてはならないことはとても多い。女にころっと騙されるような男には無理だと思うのよ。
「間に合っておりますので、どうか、お引き取りください。私は夫と離婚するつもりも、貴方と再婚するつもりもありません」
「このままじゃ、君は夫に愛さることもなく枯れていくんだぞ。それでもいいのか?」
嫌なところを抉ってくる男ね。本当にこんな男と結婚しなくてよかった。
「私が夫に愛されないのは兄のせいだけど、貴方も加担していたのでしょう? お願い帰って!」
「どうかしたのか?」
イェルドは帰ってきていたようで、私が大きな声を出したので驚いたのか、応接室に入って来た。
「ブリットに求婚していたんだよ。彼女の兄上に頼まれてね。かつて十年も婚約していたから」
私が説明するより早く、ベンノがそう言った。妻に求婚するなんて、いくらなんでもイェルドは怒ると思ったけれど、少し俯いただけだった。
「わかった。俺は貴女と離婚してここを出て行くよ」
しばらくして顔を上げたイェルドには怒りも悔しさも見られない。全くの無表情だった。私にこれっぽっちも関心がないのだと思うと、本当に泣けてきた。
「そんなお体で、ここを出て行ってどうするつもりですか?」
泣き声をごまかそうと、つい声が険しくなる。
「最近は片腕にも慣れたし、俺一人が食べていくくらいの職は見つけることができるだろう」
悔しいけれど、子爵家の護衛より強いのだから、本当に仕事はあると思う。
「カルネウス公は許さないと思います」
公爵の命令で決まった結婚だから、簡単に離婚できないはず。
「結婚してもうすぐ三か月になる。公爵閣下も気が済んだのではないか? それに、貴女が逃げ出すことは許さないとおっしゃったが、俺が逃げる分には貴女に責任はないのだから、大丈夫だ」
イェルドの言葉はまるで私に言い聞かせるようだった。そんなに私と離婚したいの?
「私は貴方の妻です!」
「ずっと貴女を縛るつもりはない。ベンノ君と結婚して幸せになればいい」
平気な顔でそんなことを言う夫に、怒りが湧いてきた。自分でも理不尽だと思うけれど、嫌われていようと、憎まれていようと、書類上であっても私はイェルドの妻なのだ。他の男に簡単に譲られるなんて我慢できない。
「女に騙され一方的に婚約を破棄するような不実な男の妻になれと言うの! そんなに私のことが嫌いなのね。それならば、いっそ殺してよ。こんな男と結婚するくらいなら、貴方に殺されたい」
こんなことを言うと嫌がられるかもしれないと思いながら、私はイェルドの目をまっすぐに見つめた。深い緑の虹彩がとても美しいと思う。
「貴女はこの男が嫌いなのか?」
戸惑いながらイェルドがベンノを指差している。
「当たり前です。十年も婚約していたのに、私のことを信じてくれず、一方的に婚約を破棄するような男を好きになる方が難しいと思うの。嫌って当然でしょう?」
「そ、そうなのか? ベンノ君、妻は君と結婚するつもりはないらしい。悪いが今すぐ帰ってもらえないか?」
今、イェルドは妻と言ったわよね。それだけで口元が緩みそうになる。
「し、しかし、この領地は元々僕のものになる予定だったのに。とにかく追い出されると困るんだ」
「妻を裏切ったのは君だ。そんな君に妻も領地も渡さない」
そう言ってイェルドは私の腰に左腕をまわした。あまりのことに顔が熱くなる。絶対に真っ赤になっているに違いない。
「本当にこのまま出て行ってもいいのか?」
ベンノが何か言っているけれど、自分の心臓の音が大きくて頭に入ってこない。
「お引き取り願え」
私が何も答えないので、イェルドが部屋の隅に控えていた護衛に命じた。
「済まない。貴女に不用意に触れてしまった」
護衛に腕を引っ張られるようにしてベンノが連れ出されると、イェルドが慌てて腕は離す。そして、二歩私から離れた。
「いいえ、あの男から私を護ってくれたのでしょう? 嬉しかったです」
ベンノを諦めさせるためだったのだろうけれど、それでも自分の妻に手を出すなというような態度は本当に嬉しかった。感動で涙が出そう。
「貴女は私に触れられるのが嫌ではないのか?」
「私は貴方の妻ですから」
そう言うと、イェルドは俯いてしまう。
「今夜、貴女の寝室を訪れてもいいだろうか?」
しばらく俯いていたイェルドは、意を決したように顔を上げた。そして、かすれた声でそんなことを訊いてくる。護衛は出て行ったけれど、部屋にはまだ侍女がいる。彼女に聞かれるのはとても恥ずかしいけれど、
「貴方が望むならば」
そう答えると、イェルドは嬉しそうに笑う。初めて見た彼の笑顔から目を離せない。こんなにも素敵な笑顔を見たことがないと思ってしまう私は、随分とイェルドに惹かれてしまっているらしい。
でも、それは仕方がない。彼は誰よりも努力家で、真面目で、強い人なのだ。好ましいと思わない方が難しい。
その夜、本当にイェルドが寝室に来てくれた。
「私は兄に似ているでしょう? だから、私のことを見たくもないのだ思っていました」
私を視界に入れたくないと主張するように、イェルドは私と一定の距離を保っていた。
「まさか。貴女が似ているのは髪の色くらいだ。あんなごつい男に似なくて本当に良かった。俺は貴女をいつでも見ていたかったが、貴女が嫌だと思ったから」
大きなイェルドが恥ずかしそうに目を伏せる。そんな動作は少し可愛い。
「でも、私に近づくと平静でいられないっておっしゃったわ。やはり怒っているのでしょう?」
「貴女のような美しい女性の近くにいて、平静な男がいると思えない」
これは口説き文句に違いない。全て私の誤解だったの?
「セシーリア様のことが好きだったのではないの?」
だから彼女のためにこれほどの拷問にも耐えたのではないのだろうか?
「将来君主の妻となる女性に懸想するなどあり得ない」
生真面目な騎士らしい答えだった。
「私が死ねば父に領地を返すと言ったわ。貴方は私を殺すつもりだと思っていたの」
「済まない。怖い思いをさせた。そういう意味ではなく、ずっと将来君が亡くなれば、その時に騎士団長にこの領地を返すつもりだった。寝室を別にしていると、継ぐべき子どもができないから」
「私が嫌いだから、寝室を分けようと思ったのよね」
「とんでもない。君はとても魅力的で、嫌いになるはずないだろう。このような醜い体の俺を、貴女が嫌っていると思っていた」
「それは兄のせいだもの。だから、貴方は私のことを憎んでいると思っていたの」
「貴女に何の咎もないのに、憎むはずはない。こんな男と無理やり結婚させられて哀れだとは思う。だから、貴女に手を触れることができなかった。こんな体を見せて、恐れられるのも怖かった」
本当に恐れているようで、イェルドの左手が細かく震えていた。
「お願い、体を見せてください」
そうしないと、前に進めないと感じた。兄が何をしたのか、イェルドがどれほど苦しんだのか。それから目を逸らしては駄目だと思う。
しばらく躊躇っていたイェルドだけど、寝衣の上着を一気に脱ぎ去った。
「見るに堪えないと思ったらすぐに言ってください。この部屋を出て行きますので」
イェルドは心配そうに私を見つめている。
引き締まった筋肉質の体には、酷い傷痕や火傷が無数に散っていた。右腕は肘の上のところからなくなっている。
どれほど苦しかったのだろう。それでも彼は拷問から逃れるために嘘の証言をしようとはしなかった。
そんな傷痕に嫌悪なんて抱くはずはない。
「ごめんなさい」
ただただ馬鹿な兄が許せない。
そして、夫が愛おしい。
直立不動のイェルドに近づく。そして、その胸に飛び込んだ。微動だにすることもなく彼は左手で私を受け止めてくれた。
精一杯背伸びしても私の唇は背の高い彼の首にしか届かない。
目の前の火傷の痕に口づけをする。
「ブリット?」
初めて私の名を呼んだ夫の顔は真っ赤になっていた。