第一話 神の手が差し伸べられる時
朝倉光一は、夕方の空が二番目に嫌いだった。
一番嫌いな夜空がやってくるのを知らせるからである。
光自室の窓から赤く染まった空を眺めながら、永遠に太陽が空に浮かんでいないものかと、光一は到底かなわぬ願いを心の中で思っていた。
これが、ここ最近の光一のルーチンワークである。
二週間前までは、光一は誰もが認める優等生であった。
身だしなみを整えることを忘れず、困っている人がいれば手を差し伸べ、勉強はいつも高得点で、何かを怠るなどと言う事は決してなかった。
だが今の彼はどうだろうか? 髪の毛も寝癖だらけ、人との関わりを自室の壁と扉で断絶し、春休みの宿題もせず、真っ当な人間としての行動すらも行う事ができなかった。
その原因は、二週間前に遡る――――。
◇
二週間前、光一は父である洋介と母親である翔子と共に、ショッピングモールへ買い物に出かけていた。
父親は警察官であったが、休日にそういった家族サービスを欠かさない人物であり、母親はいつも「無理をしなくてもいいのに」と言っていた。それでも洋介は月に二回は家族でどこかに出かけようとする。
その度に光一の予定はいつも狂わされていたが、家族三人のこの時間が嫌いではなかった。
ショッピングモールでは、光一は着せ替え人形にされていた。見慣れた光景であった。
既に彼はたくさんの衣服を持っているというのに、こういう時に光一の母親は息子に服を買いたがる人物であった。
光一が選んだ服は悉く却下されるので、それだけは彼にとって不満の一つではあったが、概ね家族三人の時間を楽しんでいた。
そんな日に、事件は起きた。
三人が駐車場に行こうとする前、光一の父親はトイレに行くと言ってその場を離れてしまった。
光一と翔子はトイレの近くのベンチに座り、窓から見える夕陽を眺め談笑しながら、仲睦まじく洋介の帰りを待っていた。
そこへ、フードを被った男がやってきていたのにも気がつかないで。
翔子の目の前に男が立つと、翔子が不思議そうに「どうかしましたか?」と立ち上がった。
男は隠し持っていたナイフで、躊躇いなく翔子の胸に突き刺した。
「――――……え?」
その言葉ともいえない声を漏らしたのは誰だったのか。
それがわからなくなるほどに、光一や翔子にとって唐突な出来事だった。
それ故に光一は、何をどうすればいいか分からなくなるほどに混乱していた。
男が翔子の胸からナイフを抜き出すと、翔子は力なく崩れ落ちる。
胸の傷口を抑えつけ、荒い呼吸をしながら、必死な形相で光一を見つめた。
何を訴えかけているかは、突然の出来事に頭を真っ白にしていた光一が正しく聞き取れるはずもなかった。
ナイフを赤い血で濡らした男は、憎悪に満ちた瞳で光一を睨みつける。
男もまた息を荒げながら、刃の先を光一に向けた。
だが、その刃が光一を貫くことは無かった。
トイレから帰ってきた洋介が、男をすぐさま取り押さえたからだ。
男は涙を流しながら叫んでいた。「死ね! 死んじまえ!」と。
それを洋介は殴って黙らせた。
光一はいつの間にか動かなくなった翔子を、ただ茫然と眺めることしかできなかった。
結局光一は、夜になっても何もすることができず、自分の頬へ零れ落ちる涙にも気がつきはしなかった。
冷たい夜風が、あざ笑うかのように光一の肌を撫でる。
その夜風は、死にゆく母親の光景と共に、光一の脳裏に刻み付けられたのであった。
◇
光一の翔子は病院に搬送されたが、心臓を一突きされており、救急車が来た頃には既に手遅れだった。
これは後で判明したことであるが、男は以前洋介が強盗で逮捕した男であった。
自分を不幸にした洋介が幸せそうな姿を見て、カッとなってやってしまったと述べている。
そこで話が終われば、光一にとってもここまで心の傷になることはなかっただろう。
だが、その後の追撃が光一の心を抉った。
あろうことか、マスコミが家に押しかけて来たのだ。
光一の母親の写真が欲しいと、警察官である父親の写真が欲しいと、光一の写真が欲しいと。残された家族はどんな気持ちなのか。どんな表情を浮かべているのかと。
事件現場で光一が黙祷を捧げた時にも、覗き込むようにカメラを構えたマスコミ達によって、その光景を世に晒し出された。
さらには、光一や洋介を責める意見もマスコミから出てきた。
――――なぜ現場にいたのに何もできなかったのか?
――――高校生とはいえ、スポーツマンである彼が何もしなかったのはおかしい。
――――父親は警察官だと言うのに、妻を守ることができなかった。
――――仕事上での怠慢な行いが、私生活にも出て来たのでは?
――――私だったら犯人を迎撃して、母親を守れた。
無責任な情報の羅列が、光一と洋介の心を蝕んでいった。まだ十七にも満たない光一は、頭がおかしくなりそうだった。
結果、光一は春休みの殆どを自分の個室で過ごす羽目になった。
母が殺された時に何もできなかった後悔に加え、マスコミからの無責任な糾弾に、光一は自分が悪かったのだと己を責めた。
こんな状態でも仕事を休むわけにいかず、洋介は仕事へと向かった。
父親は、息子に何も言わなかった。
何を言えばよかったのか、父である洋介にも分からなかったのだろう。
だがそれは、何もしない理由にはならない。
◇
それ以来というものの、彼は春休みの大半を一人自室に篭っていた。
ふと光一が窓から空を見上げると、いつの間にか空は黒く染まっていた。
夜が来たのだ。優しい母が死んだ時と同じような、冷たい夜が。母を連れ去るようにやってくる夜が、光一は一番嫌いなのだった。
光一は小学生の頃から、自分は完璧な人間でありたいと、皆に褒められるような正しい人でありたいと考えていた。
その為の努力も怠らず励んでいた。成績も順調に上がっていったし、運動能力も自慢できるほどに向上した。周りからの評判も良く、人間関係では良き友人とも出会えた。
他の多くの人より、完璧で、正しい様な人間になっていたつもりだった。自分を大切に育ててくれた両親に報えるような、自慢の息子なのだと。
だが、目の前で母親が殺されたというのに、光一は守るどころか殴ってやることもできなかった。目と鼻の先に、仇はいたというのに。
今でも彼は、翔子の形相を覚えている。自分に助けを求める様なあの顔を。
父親の、なんとも言えないようなものを見る、自分への視線を。
結局のところ自分と言う人間は、優等生を気取っただけの、親も守れないの男だった。それが光一の自分に対する結論であった。
自分の胸が抉られ、ぽっかりと穴が開いている感覚。
どうやってこれから続く人生を生きていくか、母親も守れなかった自分に一体何ができるのか? 様々な疑問や不安が、夜の闇が光一の心を蝕んでいくように侵蝕していく。
ならばもういっそ、自分生きる価値等無いのだろうか?
そう光一が全てを諦めようとした時だった。
「いや、君にはある。誰にだってある。生きる価値というものはな」
突如、どこからか声がした。
光一はその声がどこから来たのか分からず辺りを見回すが、部屋の中には彼以外の人間はいなかった。
気のせいかと思い、光一が窓に視線を映しなおすと、光一は心底驚愕した。
そこには見たことも無い男の顔が映っていたからだ。
窓の外に人がいたのではない。窓ガラスに映っている筈の光一の姿が、別人の物になっていたのだ。
それを理解するのに、光一は二秒かかった。
「な、な…!?」
事を理解した光一は、驚きのあまり体をのけ反らせ、ベッドの上に倒れこむ。
慌てて自分の顔を調べるが、いつも通りの光一の顔に違いはなかった。
では鏡の中の男の顔は何なのか? と疑問にたどり着き、光一は恐る恐る窓ガラスを覗き見ようとした。
「そう緊張しなくてもいいだろう? 少し、私と話そう」
窓ガラスの中にいたはずの男は、いつの間にか光一の隣に座っていた。
その男は黒色と白色を基調としたローブを身に纏っていたが、それは決して古めかしい物ではなく、美しさを感じるような意匠を取り入れていた。
そして、その顔立ち体の骨格が、古代ギリシャの彫刻を想起させるのもあって、光一は彼が死神のように思えた。何もできなかった無力な自分の魂を刈り取り、罰する為に地獄の釜に注ぎ込む死神に。
そう思うと、光一は一息を吐いた。
「…………俺を殺すならば殺せ」
光一は、そうであるならばいいと思いながら呟く。そうでなくとも、自分を殺してくれるのであれば、神でも強盗でも彼は構わなくなっていた。
マスコミ以外、誰も彼を糾弾することはしなかった。子供だからしょうがないと、殺人鬼に襲われて生きているだけでも奇跡であると。
彼の親戚も、友人も口を揃えてそう言った。マスコミに怒りを持ってた人達もいた。
だが、光一はそんな言葉が欲しかったわけではない。
何もできなかった自分にも非はあるのだと、信じて疑わなかったのだ。
それを誰かに口にするほど勇気があるわけでも無かった事を思い出し、光一は改めて卑怯な自分を情けなく感じた。
「なんだ。何もできないまま命を散らしたいのか?」
光一のそんな思いなどつゆ知らず、死神のような男は語りかけてくる。
「そんな事を、君の母親が望んでいるとでも?」
「……………」
そう言われても、光一は何も言い返せなかった。
翔子の事を考えると、死んだ時の必死の形相が想起される。それ以上の事を、光一は考えることができなかった。
あの時、母である翔子が何を思っていたのか。それを考えようにも、あの時何もできない自分が許せなくて、弱い自分が情けなくて、考えることができずにいた。
「何もできなかった事が罪だとでも思っているのか?」
ピクリと、光一の体が震えた。
「やはりそうか」
死神のような男納得したように頷くと、光一の肩に手を置いた。
不思議と払い除ける気は起きず、その手は温かかった。
「変わりたくはないか? 誰かを守れるような自分に」
その声は光一にとって、救いの糸を垂らすような言葉だった。
すがりつく様に男の顔を見ようとするが、すぐに暗い表情を浮かべて光一は俯く。
「……変わりたい。でも、そんな資格は、俺には……」
もう光一の心は疲労しきっていた。変わりたいと思っても、立ち上がれないほどに。
それを聞いた死神の様な男は笑みを浮かべると、光一の肩を掴み立ち上がらせた。
「……何をするんだ」
「来い。罪過で栄光は塗りつぶせないと教えてやる」
光一の疑問に答えているのかいないのか。死神の様な男は、部屋の中にある姿見に光一を押し付けた。
光一は思わず目を瞑り、頭に耐えようと歯をくいしばる。
だが、その必要はなかった。光一の体は、鏡の中に入ってしまっており、衝突の痛みなど無いからである。
「こ、これは一体!?」
光一が戸惑うの束の間、死神の様な男の手によって、鏡の中にそのまま突き落とされてしまったからである。
男はそれを確認すると、のれんをくぐる様に鏡の中に入っていった。
◇
光一が鏡の中に落ちると、そこは満天の星空の中だった。
下では無い。真横に星々の光があるのだ。
手を伸ばせあっさり届いてしまい、簡単に手の中に収まってしまうほど小さな星の明かりがそこにはあった。
蛍といえばそれまでかもしれないが、不思議な事にその光は、光一がよく見る星の光に違いないと思えた。
だがそんな事を光一が考えている暇はない。
今も尚、落下中だからである。
「――――のわぁぁぁぁああああ!!??」
情けない叫び声を上げながら、ジタバタと手を伸ばし、これ以上落ちまいと星を掴もうとする。
だが星々は掴む事はできるが引っかかる様な感覚はなく、手の中に収まるだけで星に引っかかることは不可能だった。無駄だと分かり小さな星から手を離すと、元居た空の場所に戻っていく。
死を悟り、頭が空っぽになりそうな光一の背中を、乱暴に掴み取る手があった。
ここへ突き落とした張本人、死神の様な男であった。
男はこの満天の星空の中で浮かんでおり、故に光一も地上に叩きつけられることも無い。
「……あ、ありがとうございます」
光一が礼を言うと、男はやれやれと笑みを浮かべて光一を背中に抱え直す。
「深呼吸でもして、落ち着くんだな」
男がそう言うと、二人はゆっくり地上へと降下していった。
その言葉を素直に受け取った光一は、落ち着こうと大きく深呼吸をする。
星空の真っ只中であると言うのに、光一が落ち着けるほどの空気がそこには存在した。
光一が落ち着いた頃、二人は地上に降り立っていた。
二人が降り立ったのは、どこかの建物の屋上らしかった。
光一は男の背中から降りると、辺りを見回す。
柵は一つとしてなく、正方形の床に魔法陣の様な模様が描かれていた。
「おお……!?」
そこから見える周りの光景は、光一が今まで見た事ないものであった。
多くの高い建物がそびえ立っている。それ自体は不思議な事じゃない。問題はそこに並ぶ建築物だ。
建物の素材が、緑色に輝くクリスタルによってできているのだ。
星々の灯に照らされたクリスタルの建物群は、今まで光一が見てきた中で、心が躍る様な光景であった。
「あの、あの! 申し訳ありませんが、これは一体なんなんでしょう!?」
光一は興奮が抑えられない満面の笑みを浮かべながら、隣に立っている男に問いかける。
「これか? 私が作らせた空中都市だ」
「空中都市……!?」
これが空にある光景だと、光一は信じられなかった。
なぜなら、全ての建物を見下ろす事ができているこの場所でからさえ、都市の果てを見ることができなかったのだからである。
「空中とはいっても、ここはお前の世界とは別の場所にある。お前が元の世界で空を仰ぎ見たところで、この空中都市は見えんがね」
「俺の世界とは、別……?」
光一はその言い方に引っ掛かりを覚えた。まるでここが別の世界であるような言い回しだったからだ。
「そうだとも。この世界は、お前の知る世界の裏側。魂と運命を管理するは異世界。人々はこの世界を――――『ギルディオンワールド』と呼ぶ」
「ギルディオン……?」
聞いたことのない単語に、眉を顰める光一。
その疑問に、男は微笑みながら答えた。
「この世界の神の名であり、すなわち私の名前だ」
光一は驚愕した目をまんまるにした顔で、男――――ギルディオンを見る。
自分があなたを死神だと思っていたことはさておき、神を自称するなどどうかしている、本当に神なら何故母は救われなかっただの、言いたいことはたくさんあった。
だが、それをグッとこらえて、慎重に言葉を選ぶ。
「……その神が、何故俺なんかに構うのですか?」
神は不敵に微笑みながら、光一の目を見据える。
「貴様は神に選ばれた。その罪過を以てしても、これから積み上げる栄光は素晴らしいものとなる」
指を鳴らし、カーテンがめくれたかのように現れた玉座に座りながら、ギルディオンは謳うように言葉を紡ぐ。
「朝倉光一。君の新たなる物語は、ここから始まる!」
光一にはギルディオンが何を言いたいのか、詳しい事はわからない。これは確かな事だ。
だが彼が、その言葉に微かに希望を抱いたのもまた確かな事だった。
「――――さあ、私の手を取るがいい。この世界が、君を立ち上がらせてくれるだろう」
椅子に座りながら、ギルディオンは手を差し伸べる。
光一はそれにすがるように手を取った。