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去りゆく人へ

作者: kt178


去り行く人へ 



 藤岡先輩との連絡が途絶えたのは三か月前のことだった。

 「ただいま、電話をとることが出来ません。ピーっと・・・」

 ボクはそれを最後まで聞くことなく電話を切った。

 今は日曜日、午後七時。

 『日曜の夕方なら電話できるよ。まあ、仕事の疲れをとりたいから短めにな。』

 その言葉がボクの頭の中の壁に当たっては反射して、また壁に当たって反射して、まるで静止する気配がない。

 どうしてなんだろう。

 ボクはスマートフォンの画面をじっと見つめた。

 


藤岡先輩と初めて会ったのは大学一年生の時だった。

 「よお、お前ダーツに興味あんの?」

 大学入学当初、ボクが入ろうと思っていたダーツサークルの部室の前で声をかけられた。

 「そうですけど、この部室誰もいないみたいで。」

 ボクは部室のドアのノブを見つめた。

 「そりゃそうだよ。ここのサークル、全然活動してないんだぜ。」

 男は少し得意げに、嘲笑したように言った。

 髪は茶色く、長い。

 革ジャンにジーンズという、典型的なバンドマンという感じだ。

 「そうなんですか。」

 「そうそう。」

 「お前、俺のこと知ってる?」

 「いや、知りませんけど。大学入ったばっかりですし。」

「そっか、それは、いいな。」

男は訝しげに見るボクに気が付いた。

「いや、なんだ、この季節になると一年生の顔の区別がつかなくってな。」

「はあ。」

「俺は藤岡大樹だ。よろしくな、後輩。」

「どうも。」

「ところでお前さ、バンド興味ないか。」

 「ないですね。楽器も弾けませんし。」

 「うーん、そうか。」

 「今、俺がやってるバンドさ、ベース担当が抜けちまって足りないんだ。」

 「いや、僕はダーツを・・・」

 「とりあえず今から部室に来いよ。」

 「えー。」

 「お前な、高校までの部活と違って大学のサークルは掛け持ちするのが当たり前なんだから。その方が人間関係も広がるぞ。」

 「人間関係・・・」

 当時入学したばかりで友達もろくにいなかったボクはその言葉につられ、あったばかりの男に連れられて部室へ向かったのだった。

 これは二年生になった時に知ったのだが、あの日ダーツサークルは代表が風邪をひいていて、偶然休みだっただけらしい。

 「ほら、ここだよ。」

 先輩がドアを開けた。

 8畳ほどの空間にはドラムセット、スピーカー、ギター、何やら分からない機材がところせましと置かれていた。

 ボクらの他に人はいない。

 「これ、持ってみ。」

 先輩がボクに楽器を渡した。

 持ってみると意外に重い。

 「それがベースだよ。重いだろう。」

 「はい。」

 「楽器は重ければ重いほど、音も重くなるからな。よし、じゃあ、やってみようか。」

 「いやあ、ボクまだやるとは・・・」

 「いいからいいから。意外にモテるんだぞ、ベースはな。」

 これがボクと藤岡先輩の出会いだった。

 


結局ボクはその後、大学三年生になるまでベースを弾くことになる。

 ボクは壁に立てかけられたそれを見つめた。

 大学一年生の夏にアルバイトをして買ったものだ。

 なんだかんだ言ってボクはバンド活動にのめり込んだ。

 といっても、大学四年生になってからは一度も楽器に触れていない。

 久しぶりに手に取って一番上の弦を震わせてみる。

 ボーンと小さく、低い音が鳴った。

チューニングが少しずれている。

 『いいか、それがEだ。その下がA。んで、D、G。』

 『なんですか、それは。』

 『いいか、音楽にはコードっていうものがあって、ベースはそのルート音を・・・』

 まだ覚えている。

 藤岡先輩。

 もう二度と会えないのだろうか。



 藤岡先輩のバンドがサークル内で孤立しているのに気が付いたのはボクにとって初めてのライブのリハーサルをしている時だった。

 普段顔を合わせない他のバンドメンバーの姿に緊張しながらステージに向かう。

 「藤岡さん、どうやったら緊張ほぐれますかね。」

 ふと話しかけたが先輩もボクと同じく緊張して見えた。

 「ん、ああ。そりゃあお前、最初は誰だって緊張するさ。」

 普段と違う先輩の表情に疑問を抱きながらもボクは楽器の準備を始めた。

 「はい、じゃー準備ができたら始めてください。」

 観客席に座っているサークルの代表が手を挙げる。

 ボクらはドラムのカウントに合わせて演奏を始める。

 バンドはボクがベース、藤岡先輩がギターボーカル、藤岡先輩の同級生であるドラムとリードギターの構成だ。藤岡先輩曰く、これがバンドの王道らしい。

 曲の一番だけ演奏し終わるとボクは代表を見つめた。

 観客席からどう聴こえたのか意見を仰ぐのをボクらの前のバンドがやっていたからだ。

 しかし代表はチラリともこちらを見ない。

 「藤岡さん、代表どうしたんですかね。」

 ボクは藤岡先輩を見つめる。

 「さあな。いいさ、俺が観客席に行くからもう一回演奏しよう。」

 藤岡先輩はギターとアンプを繋いでいるケーブルを長いものに替えると、観客席に向かった。

 リハーサルが終わった帰り道、藤岡先輩はバツが悪そうに切り出した。

 「悪いな。」

 「何がですか。」

 「俺達のバンド、代表に良く思われてないんだ。」

 「ボクらのバンドっていうよりは藤岡さんが、じゃないですか。」

 ボクは冗談交じりに言った。

 「かもな。」

 冗談で帰ってくるかと思いきや、どうやら本気で悩んでいるらしい。

「代表と俺の間に何か決定的な出来事があったわけじゃないんだけど、俺が一年生の時に代表のバンドを脱けてから変な噂が立ったりしてな。それで、なんとなくだよ。」

 「藤岡さん、悪くないんじゃないですか。」

 うーん、と藤岡先輩は唸った。

 「どうだろうな、そんなもんなんだよ。きっと、人と人の間に溝が出来るっていうのは。漫画みたいに殴り合いの喧嘩とか、泣きながら言い合うとか、そういう分かりやすいものじゃない。」

 「そうなんですかね。」

 「たぶんな。」

 しばらく二人の間に重苦しい空気が流れた。

 藤岡先輩は大きく深呼吸をした。

 「やめだやめだ。俺、こういう空気大っ嫌いなんだよ。今からお前のアパート行くぞ。酒でも飲もうぜ。」

 「良いですね。じゃあ、コンビニ寄りますか。」

 「おう。」



藤岡先輩はいつも部屋のフローリングに直に座る。

一応ボクの部屋には座布団とか座椅子とかはあるのだけど、先輩は遠慮する。

おまけに自分で買ってきた酒やお菓子のゴミは必ず自分で持ち帰る。

変なところで真面目だといつも思っていた。

ボクは藤岡先輩がいつも座っていた定位置を見つめた。


 


 「何でお前が一番怒っているんだよ。」

 「だってどうかんがえてもおかしいじゃないですか。」

 「それは、そうだよなぁ。」

 ボクらはバンド練習を終え、いつもの道を歩いていた。

 「俺もさ、まさかここまでやられるとは思ってなかったよ。まさか、ここまで嫌われているなんてな。」

 それは他でもない、来る大学祭でのライブの事だった。

 大学祭のステージに出られるバンドというのは時間の都合上、数が限られている。

 そのため、サークルに所属している最高学年の三年生のバンドが優先的に選ばれる。

 はずだった。

 「学祭は間違いなく出られるとは思っていた。」

 藤岡先輩は肩を落とす。

 ボクらのバンドは選ばれなかった。

 大学祭に出るバンドを選ぶのはサークルの代表に一任されている。

 どうやらボクら以外のサークルメンバーで話し合いが行われ、決まったらしい。

 おまけに大学祭に出られるバンドは一年生や四年生という例年にはない異色の采配だった。

「今まで練習してきた曲だって、大学祭に向けてってことでずっとやってきたじゃないですか。」

 「ああ。」

 藤岡先輩は正に意気消沈という感じで生気が感じられない。

 ボクもその日、それ以上声をかけることは無かった。

 夕日も沈んだ暗闇の中を、二人で黙って帰った。

 


結局その後、藤岡先輩はあきらめ切れずに何度か代表と掛け合ったらしいが、『決まったことだ』と、相手にされなかったらしい。

 三年生が中心メンバーであるボクらのバンドの最後のライブは、大学祭直前に行われる学内ライブになった。

 「あれは絶対くじで決めてないな。」

 「間違いないですね。」

いつものようにボヤキながら歩く。

大学祭直前のライブの演奏順は代表曰く、くじで公平に決定したらしい。

しかし、くじの結果を見てみると、代表らの所属しているバンドは人が一番集まる時間帯、ボクらのバンドはその直後の人が帰り始める時間帯に配置されていた。

「ここまで行くと逆に感心しちゃうね。」

藤岡先輩は笑った。

「代表の執念というか、ここまで人は人を嫌いになれるんだなってさ。大して何もしちゃいねぇのに。」

「最後のライブなのに。」

「まあ、そりゃお客さんは多い方が良いけど、気にせず全力でやろう。」

それに、と藤岡先輩は付け加えた。

「お前には来年もあるだろう。」

そうしてボクの肩を弱弱しく叩いた。



しかし、ライブ当日思いもよらない出来事が起こった。

 代表の所属しているバンドのドラム担当が事故で演奏できなくなったのだ。

 ライブの演奏順は繰り上げになった。

 その日の学内ライブはボクらの物だった。

見たこともない人数の観客。

嬉しそうな藤岡先輩とバンドメンバー。

苦悶の表情の代表。

ボクらのバンド思いっきり跳ねた。

そうして、ボクと藤岡先輩のバンドは活動に堂々とピリオドを打った。

「俺さ、理不尽なとこいっぱいあったけど、嫌なこともいっぱいあったけどさ、たまーーーにはあんだな。こういうの。」

良かった。

笑顔で終われて良かった。




バンド活動は終わったけど、卒業するまでボクと藤岡先輩の関係は続いた。

お互いのアパートに遊びに行ったり、好きなアーティストを語り合ったり。

もちろんボクには他にも仲の良い先輩や友達はいたけど、あれほどまでに気の合う人には出会わなかった。

そんな先輩も卒業し、就職した。

絶対連絡するよと言った。

それが卒業式の日、半年前。

連絡が途絶えたのは三か月前だ。

ボクは静かに息を吐くとソファに寝転んだ。




―――では、もうその後輩の方とは連絡は取っていないんですね。

 後輩からは連絡が来るんですけど僕が返信をしていなくて・・・まあ、仕事が忙しいっていうのもあるんですけど、なにより

―――なにより?

 ちょっと面倒くさくてね。僕とその後輩は昔バンドを組んでいたんですけど、アイツはずっとその話を僕にしてきて。もうこっちは社会人として毎日必死なので、バンドどころじゃない!

―――なるほど。話が噛み合わないと。

 はい。後輩はたぶん今、大学四年生かな。とにかく暇なんでしょうけど。

―――いつまでも昔のことを言う人、たまにいますよね。

 そうそう、それです。たしかにあの頃は楽しかったし、後輩にもとても感謝しているんですけど、終わったことなので。いつまでも浸っているわけにもいかないし。

―――なるほど。

 僕としてはアイツも一歩踏み出してほしいな。新しい何かを見つけて。それこそ、僕なんか過去の人だって忘れてしまって。

―――うーん、悲しいかな人生はそういうことの繰り返しなのかもしれませんね。

そうですね。ああ、そろそろ昼休みも終わるので。行かなくちゃ。

―――お忙しいところ、ありがとうございます。

 いえ、話せてスッキリしました。では。

新社会人だという短髪の青年は足早にその場を去った。





杏菜から別れを告げられたのは二か月前のことだった。

「ごめんなさい。」

「いや、謝るとかじゃなくてさ。もう一回冷静になって、それから・・・」

「だから、ごめんなさいって。」

「いやでも、急すぎるというかさ、なんかあったの。」

「うん、特には。」

ボクは静かに息を吐いた。

喉が渇く。

コーヒーをすすった。

苦い。

これは苦いなぁ。

「せっかく就職先もお互い近い場所にしたのにな。」

ああ、と杏菜は少しボクを可哀そうな人を見る目で見た。

「その話だけど、実は、あの後違う企業受けて受かったの。前話していたところとは結構距離あるから。」

心配しないで、と杏菜は付け加えた。

何を心配すると思ったのだろうか。

「ああ、そっか。知らなかった。」

「言ってなかったし、言わなかったね。そういうことだから、本当にごめんね。」

生きていて謝られることはたまにあるけれど、こういうシチュエーションでの謝罪は心をえぐる。

人に謝るときは謝る側が多少の反省というか、非が自らにあると考えるのが普通だ。

そもそも杏菜が悪いのか、僕が悪いのか。

分からない。

「じゃあ、ごめんね。わざわざ呼び出して。それだけだから。」

杏菜はバインダーに手を伸ばした。

ここで『待ってくれよ』と引き留めようとも思ったが、ベタ過ぎる。

ボクはよく漫画に出てくるダメ男か。

「最後にさ、理由聞いてもいい?」

だからといって冷静ぶるのもなんだろう。

「理由って、ああ、別れようって?」

「うん。」

他に好きな男が出来たとか、ボクのこういう癖が嫌いだとか、

「何だろう。」

杏菜はそう言うと、目を細めてジッと下を向いた。

杏菜のこの動作は必至で何かを考えていたり、思い出したりする時によく見た。

「うーん、何だろうね。」

じゃあ、と言って杏菜は店を出て行った。

取り残されたボクの身体は静かに熱くなって、すぐには動けなかった。

まだぬるくもなっていないコーヒーを見つめながら、終わりというのはなんて無責任でなんで突然来るのだろうと思った。


杏菜と初めて会ったのはボクが二度目のライブを終えて後片付けをしている時だった。

「あの、すいません。」

「あ、はい。」

ボクは手を止めて彼女を見た。

彼女の後ろには茶化すようにこちらを見る先輩がいた。

ボクは先輩を見ないようにした。

「いえ、あの、良かったなーって思って。」

「ライブ、ですよね。」

「はい。」

彼女は白いブラウスに黒のジーンズ姿。今風、という感じだった。

「実は私もベースを始めようと思ってて、すごい上手だったから、お話を聞きたくて。」

「上手、そうかなぁ。」

ボクは照れたんじゃなくて正直にそう思った。

というのも、ベースを始めてからまだ数か月しか経ってなかったし、先輩にも「まだお前には難しい曲は無理だな」と念を押されていたからだ。

「あっ、上手というか、一生懸命で。」

「はあ、いや、ありがとうございます。嬉しいです。」

これは後になってから分かったことだが、杏菜はベースはもちろん、バンド自体に興味は一切なく、ボクと話す口実が欲しかっただけらしい。

「それで、あの、私もバンド活動というか、サークルに入りたいので・・・」

「ああ、それならあそこに座っている代表に言えば・・・」

一瞬彼女は下を向いた。

「いえ、あの代表なんだか怖くて。」

「あ、知ってます?」

ボクは少し嬉しくなった。

代表がボクらのバンドを嫌っているというのはその時既に知っていたからだ。

代表の悪評は聞いて何となく悪い気はしない。

「知ってるというか、ほら、雰囲気が。」

「分かります。」

「なので、あの連絡先というか、教えてくれませんか。」

「いいですよ。」

ボクは携帯を取り出した。

「私、佐々木杏菜って言います。」

「こちらこそよろしくお願いします。」

「あれ、一年生?」

「はい。」

「じゃあ、ためぐちでいいです、いや、いいかな。」

「はい。じゃなくて、うん。」

いいな、って思った。

これがボクと杏菜の出会いだった。


先輩曰く、一年生というのは最も恋人ができやすい学年なのだという。

「誰でも新生活は不安だろ。人肌恋しくなんだよ。」

「先輩もそうだったんですか。」

「いや、俺の話はいいんだよ。」

いつもの廊下を歩いていた。

やがて食堂が見えてきた。

「先輩、じゃあボクはここで。」

「ああ、そっか。てことは今日は水曜日か。」

「はい。じゃあ、お疲れ様です。」

「おう、じゃあな。」

食堂の奥の奥。

窓からちょうどバス停が見える大きめのテーブルで杏菜はいつも待っていた。

「あ、どうもこんにちは~」

ボクは少しふざける。

杏菜は一瞬驚いた様子だったがすぐにボクだと気が付いた。

「なにそれ。」

フフッと、八重歯を見せながら笑った。

「待った?」

「うーん、それほど。」

「そっか。」

「行こうか。」

「うん。ちょっと待って。」

杏菜はいそいそとテーブルに広げてあるノートやらテキストを鞄にしまう。

「あれ、今週ってなんかテストあった?」

「んーん。資格の勉強。」

「さすがですねぇ。」

「人間はね、最後は一人で戦わなければならないの。過去を断ち切り、未来へ向かって。」

「今週の分、まだ見てないなぁ。」

「ええ~私なんか毎週リアルタイムで正座しながら見てるよ。」

「ハマりすぎ。」

「歩きながらネタバレしてあげようか。」

「やめてくれ~。」

「冗談冗談。」

杏菜はまた笑った。

いいな。

「よし。準備完了。」

ボク達はバス停へ向かった。


駅前でバスを降りて辺りを見回す。

空がほんのり赤く色づいていた。

「どっち行こう。」

「今日は、こっちかな。」

杏菜が指さす。

「オーケー、行こうか。」

毎週水曜日はこうして肩を並べて行き当たりばったりの散策をする。

地図も見なければ特に目的もない。

おいしそうなカフェでコーヒーを飲んだり、公園の遊具で遊んだり、カラオケボックスに入ったり。

時には何も見つからずに歩くだけの日もあるけれど、それでも良かった。

二人で歩くだけでも良い。

二人とも車を持ってなくてよかった。

ゆっくり時間の流れを感じられるから。

「今日はなかなか何もないね~」

杏菜が辺りを見渡しながら言った。

今日の散策は今のところこれといった発見も無かった。

やがて丁字路に差し掛かる。

「こっちの道は、たぶんこの前に行った通りに出る。」

じゃあ、と杏菜がボクの指とは逆を指した。

「こっちね。」

「うん。」

しばらく歩いていると小さな看板が見えた。

「何の看板かな。」

二人とも歩く速度が少し上がった。

「あ、ん、なんて読むのこれ。」

看板の正面に来たものの、オシャレな筆記体で書かれた英字に二人とも困惑した。

「ああ、アンティークじゃない?」

「アンティークって小物のこと?」

「そうそう。」

「本当だ、店の中、置物とかが見えるよ。」

杏菜が店内を指さした。

「入ろうよ。小さな隠れ家的な。オシャレだね~。」

返事もしていないのに杏菜に手を引かれてボクは店内へと足を進めた。

「行くから、あんまり引っ張ると危ないよ。」


店内はさっき杏菜が言った通り決して広いとは言えなかったが独特の雰囲気がある。

木を基調とした店内の内装はどこか懐かしさを感じる。

やさしい香りがした。

しばらく店内を二人で回った。

少し心配だった商品の値段は思ったほど高くはなかった。

記念に何か買おう。

「じゃあさ、お互いがお互いに合う小物を選ぶのは、どう。」

杏菜が嬉々とした表情でボクを見つめる。

「いいよ。あんまり高いのは無理だけど。」

「分かってるってば。」

「じゃあ、スタート。」

ボクらは違う方向へと足を進めた。


ちょうど選び終わったとき杏菜がボクの肩を叩いた。

「終わった?」

「ちょうどね。」

「なんだろう~」

「とりあえず、買って、外で見せ合おうっか。」

「オーケー。」

会計を済ませて外に出ると、夕日が沈みかけていた。

オレンジ色の光に照らされてボクらは思わず目を細めた。

「それで、何買ったの?」

あえてそれには触れずに杏菜がボクを見た。

紅く染まった頬につい触れたくなる。

ボクは紙袋から小さなハサミを取り出した。

「なにこれ、ハサミ?」

「そうそう。ミニシザーだって。」

ボクは杏菜にそれを渡した。

その小さなハサミは銅色で、指を入れる穴が大きく、その分、先端の刃は短い。

持ち手のレリーフがまさにアンティークという感じがした。

「らしいね。」

「え?」

ボクは聞き返す。

「なーんか、実用的というか、無駄が無いというか。」

「そっか。」

でも杏菜がこういう言い回しをする時は悪いとは思っていないとボクは知っている。

「ありがと。今日からありとあらゆるものをこれで切るよ。」

「なんか怖いな~。」

「ふふふ。」

「次、杏菜だよ。」

「はいはーい。私はね、これ。」

杏菜は紙袋からガラスのボトルを取り出した。

半透明のボトルは薄い緑色で、夕日に照らされて光が反射する。

「これは何用?」

ボクが尋ねる。

「花。」

「ああ、花瓶みたいな。」

「そうそう。っていうか、花とか飾ったこと、無いでしょ。」

「無いなぁ。」

たしかに。

部屋の家具などにまったくこだわりが無いわけではないけど、

「花を飾ろうなんて考えたことも無いね。」

「そうでしょ。なんか、いつも実用的なものばっかり考えてる気がする。」

ほら、これも。と、先ほどボクがあげたハサミを見せつける。

「これを機に何か飾ってみたら。」

「そうだね、来週は花屋に行くか。」

「賛成。」

「じゃあ、暗くなったし帰ろうか。」

 「うん。」

 安奈がボクの一歩前に出たと同時にボクは忘れものに気が付いた。

 立ち止まっているボクに気が付いた杏菜が振り返る。

 「どうしたの、帰るよー。」

 「杏菜、ありがとう。大切に使うよ。これを言うのを忘れててさ。」

 「どういたしまして。」

 沈みかけた夕日をバックに杏菜が笑う。

 また来ようね。

 うん。

 言葉二つ交わして僕らは太陽を追うように帰った。



ボクは机の上に置いてあるボトルを見つめた。

結局その後、何度か花を買ってきて飾ったものの、枯れては換え、枯れては換えを繰り返すうちにやめてしまった。

どうせ枯れるのになぜ新しい花をまた手向けるのか。

どうせ別れるのに人はなぜ出会うのか。

どうせ死ぬのに人はなぜ・・・

人間暇になると哲学的なことを考えがちになる。

ところで、恋人と別れると思い出の物を捨てるとかよく聞くけれどボクは捨てる気にはならなかった。

それはなぜかと聞かれるとハッキリとは答えられない。

杏菜はボクが買ったハサミを今も使っているだろうか。

なんとなくボクは使っている気がする。

別れたからとかそういう理由に縛られずに目の前にある「ハサミ」という便利なツールを使うのが彼女だ。

ボクなんかよりもよっぽど実用的で強い人だ。

少なくとも就職活動の履歴書を一緒に書いている時には使っていたっけ。

証明写真を切るときに、使っていた。

ボトルを見て杏菜と一緒に行ったアンティークショップを思い出していたが、それどころか、就職活動さえも今やボクを通り過ぎて行った。



「そろそろ真剣に考えないとね。」

一月。

杏菜はボクの部屋のコタツで寝ころんだまま呟いた。

「何を。」

ボクは杏菜の足をつつきながら答える。

「『何を』って言ってる時点で考えてないでしょ。」

杏菜は起き上がってボクを見た。

「ああ、就職か。」

「そうそう。」

うーん、とボクは唸った。

そのころ杏菜は公認会計士の資格を無事に取って、自分の進路、自分の道というのが明確に見えていた。

ボクはというと、なんとなく就活セミナーや企業説明会に顔を出したものの、ハッキリと自分が何をしたいのか分からずにいた。

手ごたえを感じずにセミナーから帰ってくるボクに杏菜は「参加しただけで満足してない?」といつも言った。

「大体さ、就職活動って大学三年生には無理があると思わない?」

「なんで?」

「だってさ、大学三年生っていうのは大学生活にも慣れに慣れ切って、大学に行く機会が減ってみんなダラけだす。学生だから髪を染めても怒られないし、講義に遅刻しても特に怒られない。就職活動は急にその逆をやらなきゃいけない。」

「たしかにそうだけど、いつかは・・・というか、もうすぐ来るんだよ。間違いなく。その日が。就職活動解禁日が。」

杏菜が珍しく語気を荒げた。

「たしかにそうだけど、イマイチモチベーションが出ないというか、実感がわかないんだよね。」

今度はボクがコタツに飲み込まれた。

はあ、とため息をついて杏菜がボクをコタツから引っ張り出した。

「おわっ、ビックリした。」

「これ、見て。」

杏菜が一枚の紙をボクの顔前に突き付けた。

「今度市民会館で大きめの合同企業説明会があるから行って。」

「でもその日は先輩と用事が・・・」

「行くの。分かった?」

杏菜の眉間には大きくシワが刻まれている。

「分かりました。」

ボクは渋々頷いた。

「私、どうしてこんなに怒ってるんだろう。」

杏菜はボクも見ずにボソッと呟いた。

その一言がなぜかすごく怖かった。

窓の外では乾いた雪がゆっくりと落ちていた。




案の定ボクは三月になると急に慌てだしてキビキビと就職活動を始めた。

履歴書の書き方さえ分からないボクに杏菜は丁寧に教えてくれた。

就職活動中、なぜか杏菜はいつも上機嫌だった。

「何か良いことでもあった?」

「別にないよ。」

自分でもよく分からないの、と杏菜はいつも答えた。

早めに就職活動を終えた杏菜はボクに

「就職活動が終わるまでは色々とお預けね。」

と言ってしばらく会わない日々が続いた。

杏菜の一か月後に就職活動を終えたボクが杏菜に連絡すると会おうという話なった。

「ちょうど言わなきゃいけないこともあるの。」

「了解。なんだろうね。じゃあ、場所はいつもの・・・」

と、ボクは久しぶりに会える嬉しさと、就職活動を終えた解放感で特に何も考えていなかった。

ボクは何も考えていなかった。





―――なんとなくってことですか。

 そうですね。今でもイマイチ分かっていないんです。ただ、別れようかなって頭に浮かんで、それを認めた時、心が軽くなったんです。

―――うーん、彼氏さんは納得されましたか。

 いえ、困惑してました。私もうまく言葉に出来ればよかったんですけどね。特にここが生理的に無理だとか、他に好きな人が出来たわけでもないんです。

―――別れようと決心したのはいつですか。

就職活動が始まる頃ですね。

ああ、思えばあの時私は、「このままこの人といたら置いて枯れる」って思ったんです。

―――置いていかれるというのは、誰にですか。

 誰というか、周りの人にもそうですし、代わり映えのない大学生活が終わろうとしている中で、このままだと自分自身に置いてかれるって思ったんです。彼といるときの私じゃない私。彼の知らない私。彼と出会わなかった私。

―――なかなか難しいことを言われますね。

すみません。要するに彼と一緒にいても前に進めないって思ったんだと思います。

―――彼は今頃何をしてると思いますか。

なかなかな質問ですね。

―――すみません。

彼は、あの人は、たぶんまだ過去の中にいるんじゃないでしょうか。まるで大学生活が、この時間が永遠かのように。ご老人の様に「あの頃は・・・」みたいな。

―――なるほど。今でも彼を思い出しますか。

いえ、今日こうやってインタビューされるまでは一度も。

そう言って女性は八重歯を見せながら笑顔を見せた。

―――お忙しいところありがとうございました。

いえいえ、では。

女性はその場を去った。



目覚まし時計がけたたましく鳴っている。

ボクはそれを叩くように止めた。

今日もあまり眠れなかった気がする。

ボクは軽い朝食をとると身支度をしてアパートを出た。


今日は卒業論文の経過報告をしに大学へ行かなければならない。

就職活動を終えた大学四年生が唯一大学生らしいことをする。それが卒業論文を書くことだ。

卒業論文の経過報告はゼミごとに行われる。

ボクの所属しているゼミは六人で、数少ない友人の一人である後藤がいる。

二週間に一度のペースであるこの集まりにボクは後藤と話すために行っているようなものだと最近思った。

大学に着くといつもの教室に向かう。

いつもの席に後藤がいた。

「よう。」

ボクは思わず頬が緩む。

「よう。どうしたんだよ。ニヤニヤして。」

「いやさ、最近話し相手がいなくて。人と話すだけで楽しいんだよ。」

「俺くらいしか話し相手がいないのはさすがにマズいな。」

ああ、と後藤は何かを思い出したようにこちらを見た。

「今ので思い出したんだけどさ、俺、アパートを引き払って実家に帰ることになった。」

「えっ。」

「次お前に会うのは卒業式だな。俺の実家こっからスゲー遠いから。」

ボクは思わずたじろぐ。

「いやだって卒業論文の経過報告、あるんじゃん。」

「いやそれがな、教授に家賃がもったいないから、アパートを引き払いたいって相談したら卒論の報告会、今日で終わりらしい。これからは個人で大学に行って教授と相談しながらやるんだってよ。」

「ああ、そうか。」。

教授が教室に入ってきた。

「みんな、おはよう。今日はこの経過報告について言っておきたいことが・・・」

ああ、そっか。



いつからかこの生活が当たり前になった。

入学した時のことを忘れたわけじゃない。

いつかは終わりが来ることも、この時が永遠ではないことも、出会った人ともいつかは別れることも、そして、過去を追い越して前に進まなければいけないことも。

分かっていたはずだった。

恐れた。

逃げた。

新しく何かを始めること、新しい出会い、新しい自分。

ボクは楽をしていたんだと思う。

「どうせもう卒業するから・・・」って。

大学生活で貯めた思い出と人を、貯金を切り崩すように使って。

今、ゼロになったんだ。

ボクは大きく息を吐くと静かに目を閉じた。




僕はその日、街に出た。

大学も無いのに外出するのは久しぶりのことだった。

街の広葉樹は仄かに色づき、いつの間にか風が冷たくなっている。

平日の昼間に出かけられるのも学生時代ならではだろう。

僕の大学生活は、最後の青春時代はもうすぐ、終わる。

色々な人に出会った。

色々なことがあった。

速度は違うけど、どれも僕を追い越し、通り過ぎて行った。

だからこそ、アルバイト、同好会、教室、スポーツ、

何でもいい。

新しいことを、しよう。

そうしてまた、人に出逢っては別れよう。

手にしては失おう。

僕の心の中であの時は、あの人は、あの日のままで、永遠に生き続ける。

「あの、そこのお兄さん、ちょっといいですか。」

「あ、はい。」

そこにはテレビでよく見るキャスターがいた。

「わたくし、『神さまの言う通り』という番組のキャスターをしています、鈴谷と申します。実は今、待ちゆく若者に、『青春』というテーマでインタビューをしていまして。」

「はあ。」

「なんというか、凛々しい感じで歩いていたので、もしよろしかったらインタビューさせて頂きませんか。」

「いいですよ。」

「ありがとうございます。早速ですが、青春時代に自分を変えた出来事とかありますか。」

マイクが向けられる。

「そうですね、僕はついこの前まで・・・」





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