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『あの子に薬を届けて欲しいのよ』
それが女将さんから頼まれた御使いの内容だった。
朝の内に薬屋で風邪薬を買っておいたそうで、夜に帰ってから飲まそうと思っていたが、当然早く飲んだ方が治りが早くなるため、私を見て届けてもらうことを思いついたらしい。
今日の工房での作業も終えていたし、午後は居住区に戻る予定だったので、女将さんの家に行くのはスケジュール的にも全く問題ない。
私は二つ返事で了承し、女将さんから薬を受け取ると、祖父とカナンさんに挨拶をしておふくろ亭を後にした。
来た道を辿って通用門へ行き、お昼休憩中でレオさんはいなかったため、別の顔見知りの兵士に声をかけて問題なく通してもらう。
女将さんの家は私の自宅がそこまで離れてはおらず、前に何かのタイミングでお邪魔したこともあったので、特に迷うことなく辿り着くことができた。
時刻はお昼の13時半を過ぎたところ。
この分だと、少しリリーの様子を見、必要なら少し家事や看護をして家を出ても当初のスケジュールにそこまで支障は出なさそうである。
私は自宅とほとんど変わらぬデザインの家の玄関扉をトントンと叩き、リリーの名前を呼んだ。
「リリーさん、ライナスです。お薬を届けに来ました。女将さんから預かりました」
しばらく家の中から物音はしなかったが、少ししてもう一度ノックしようとした時、中から微かに人の動く気配がする。
そのまま少し待っていると、ゆっくりと力なく扉が開き、横の壁に寄りかかるようにしてこちらを見るリリーの姿があった。
いつもは後ろで1つに結われている色素の薄い桃色の髪は下ろされており、背中の半ばあたりまで伸びている。
やはり高熱は下がっていないのか、汗ばんだ頬や額にその髪が数本乱れて張り付いており、顔色は非常に悪そうだ。
普段は明るく輝いている二重の猫目も、今日はだるそうに少し涙で濡れている。
成長期が少しずつきているのか、徐々に女性らしい身体つきになってきている彼女だが、不覚にも普段とは違う弱ったパジャマ姿に少し心が揺れるのを感じてしまった。
「……ぁ、ライくん」
「リリーさん、しんどいところごめんさない。薬持ってきました。ほら、早く中に戻りましょう」
扉を閉めて中に入ると、リリーが辛そうにもたれ掛かってくる。
一瞬女の子特有の甘い香りに頭がぐらっときたが、今はそれどころではない。
自力で歩けないのなら相当だ。
「だ、大丈夫ですかっ。早くベッドに戻りましょう。あちらですよね?」
自分の肩にしなだれかかったリリーの俯いた頭がゆっくりと頷くの確認し、慎重に歩みを進める。
言ってもこちらの身体は5歳児だ。
身長差は圧倒的にリリーが上だし、体重も同様である。
私は無意識に気法を発動し、身体全体に薄く纏わせる。
午前中に酷使した右肩から下に鈍い痛みが走るが、私もこの状況に焦りがあるからか、我慢できない痛みではない。
そのようにしてどうにかリリーをベッドに運び、キッチンへ走り、水をコップに注いで薬と共に部屋へと戻る。
苦しそうに浅く息をするリリーを心苦しく思いながら起こし、上体を少し起こさせて薬を飲ませた。
リリーは薬を飲んだ後、力なく倒れてすぐに目を閉じた。
私はベッドの横に置いてあった桶を持ってキッチンへ向かい、そこに入っていた水を捨てて新しい水を汲み入れる。
氷があれば一番良いのだが、この世界には簡単に氷を作り出す技術は存在しない。
部屋に戻ってタオルを濡らして絞り、彼女の額や首元の汗を拭って一度洗い、そしてもう一度絞ったものを額に乗せた。
そのようにして少しの間リリーを看た後、これ以上ここにいても迷惑かと思い立ち上がる。
「ぃかないで……」
すると、私の左手を力無く掴むリリーによって、私の足は自然と止まった。
……そりゃ、この状況じゃ行けないでしょう。
『ここで行ける奴がいるなら鬼だよ、鬼』などと心の中で独り言ちりながら、空いているベットのスペースに腰を下ろす。
「リリーさん、どこが辛いですか?」
「…ぁたまが、…ぃたぃ……」
酷い熱の時にはよくある症状だと思うが、薬を飲んだにも関わらず、一向にリリーの顔色は良くなる気配を見せない。
熱も下がらず、先程乗せたタオルもすぐに温くなってしまっている。
そして、少しずつ、本当に微かにではあるが、徐々に顔色が悪く、手が冷たくなってきているように思われた。
「ちょっと、失礼しますよ」
私は左手をリリーの額に乗せ、深く呼吸をして精神を集中させると、午前と同じ要領で左掌に気を集める。
気というのは、基本的に人間の持つ身体エネルギーの総称だ。
風邪というのは前世の現代医学でも完璧な特効薬の見つかっていない未だ謎の多い病だが、基本的には体力の充実で回復できる。
私は少しでもリリーの頭痛が治るように、彼女の体力が回復するように念を込め、少しずつ気を掌から彼女へと送った。
「はぁ…はぁ…はぁ……ふぅ……ふぅ………」
少しずつ、彼女の呼吸が深く、安定したものになってくる。
一時的な対症療法に過ぎないが、少しでもリリーが楽になってくれるのなら、今日の晩御飯が両手どちらで食べても苦痛を伴うことになどなんて事はない。
ほんの少し穏やかになったリリーの表情に安堵していると、何か気を送り続けている左掌から違和感が伝わってきた。
なんだ?…何か、私の気の流れを阻害しているものがある?
額から一旦手を引いて、彼女の顔を観察する。
頭や額、首元など、特に目に見える異常は見当たらない。
不意に私にとある「もう一人の師匠」の顔が浮かび、私は念のためにもう一度深く呼吸を繰り返した。
魔法を使いたくて使いたくて、何度も何度も毎日練習してきたことがここで活きてくるなら、私の努力も捨てたものじゃないな。
本日は少しばかり気法を使い過ぎて身体が怠いが、そんなことも言ってられない。
目を閉じ、意識を私の「殻」に集中させた。
命あるもの、生物は皆、己の「殻」を持っている。
それを人は、魂と呼ぶことが多いが、「霊法」においては異なる表現をする。
霊殻
姿形は自分と全く同じ、もう一人の自分。
普段は常に肉体と同化しており、影のように肉体から影響を受けて形を変え得るもの。
仮に肉体に欠損ーーー例えば右手を失えば、己の霊殻も同様に右手を失う。
これは逆も然り。
つまり、霊殻が頭を失えば、肉体上でも頭を失うこととなり、その者は命を失うのである。
「気」とは全く異なる「霊威」というチカラは、己の殻から溢れ出るエネルギーと言っても同義である。
「気」と異なり、この「霊威」は「集める」というより「高める」イメージが強い。その工程を文字として表現することは中々に困難を伴うのだが、私は実は気法よりも霊法のほうが得意であった。
それは私が輪廻転生を経験しているからか、理由は定かではないが、初めて霊法を教わった際、なぜかすんなりと自分の霊殻を自覚できたのである。
こちらの師匠には「少しは見込みがあるね」と言われているため気法よりも前向きな気持ちで訓練を続けているが、ここまで既に気法で疲弊している状況で霊法を扱うのは久しぶりのため、いつもより集中して霊威を高める必要があった。
一定の基準まで霊威が高まったことを認識し、閉じた目の奥で脳と視覚を繋ぐ神経に特に霊威を乗せるイメージをしつつ目を開ける。
「霊視」と呼ばれる、霊法の基本術の一つである。
その状況でリリーを見たとき、私は衝撃なあまり声を失った。
一本の「小さな釘」が、リリーの右側頭部に深く刺さっていたのである。