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そもそも、なぜこの世界に転生してから、「旅をしたい」と思うようになったのか。
それは、3歳の誕生日に、父が私にくれたとある本が原因である。
その頃の私は、転生したことを素直に受け止め、これからの新たな人生をどのように設計するかを常に模索する毎日であった。
とは言え、当時の私はたった3歳の幼児。
5歳となった現在との差は僅かなものかもしれないが、当時の私の行動範囲は極端に狭かった。
この街には前世における幼稚園や保育園のようなものは存在せず、基本的に乳幼児は自宅で育てられる。
もちろん外に出て遊ぶことはあるのだが、この街には砂場などがあるような公園も存在しない。
ただ、広場のような場所や、空き地のような場所は存在するし、実際に近所の子供たちは皆そのような場所に集まり遊ぶのだが、私は一度母に促されてそこに顔を出したっきり、一切そのようなコミュニティに参加する意欲を失ってしまった。
当然であろう。
どうして40前のおっさんが、幼稚園児や小学生程度の子供にまぎれて楽しく遊べようか。
残念ながら、私にとってそれは苦行でしかなかった。
幸いなことは、母や父はそんな私の様子を見て、「好きなことをしたらいいよ」と集団への参加を強制しなかった点だ。
あの時ほど、いじめや何らかの理由で不登校や引きこもりに陥った子供に対する親の接し方の重要性を実感した日はない。
私は将来、自分の子供にそのように接することができるだろうか?
その日、私は実質自分よりも年下の両親を、心から尊敬し、受け入れることができたように思う。
話を戻そう。
そのような理由で、母と父以外に接触する人間の異様に少なかった私にとって、その本は衝撃的であった。
それはこの世界の冒険記であった。
当時の私はまだ完璧に自分が話す言語の文字を習得していなかったため、かなりの部分を母や父に読み聞かせてもらったのだが、そこに描かれていたものは、全私を熱狂させた。
七色に光る湖や、マグマ渦巻く海峡、古の巨人が住まう国に、文字通り星の降る谷ーーーー。
前世であれば、どこかの神話か、ファンタジー小説かと一笑される物事が、この世界には現実に存在しているのだ。
久しく感じていない、いや、「生まれて」初めてかも知らない。
私は心が躍るということが、どれほど世界を色鮮やかにするのかを知った。
私は、それを見ることができる。
そんな世界に、生まれ落ちた。
緊張とは全く違う、ただ想像するだけでバクバクと心臓が高鳴る感覚。
その世界には危険もあろう。
前世の地球のように整備された身分証明システムも、国家という概念も、何もかもが異なり、整備されていない可能性が高い。
それでも、私はこの胸の高鳴りを止めようとは一切思わなかった。
それをして死ぬなら、本望だと初めて心から思ったのだ。
「好きなことをしたらいいよ」と私に優しく伝えてくれた両親も、やはり非常に大人しく、それでいて知的好奇心の強い変わった我が子に心配していたのかもしれない。
父が誕生日プレゼントにその本を選んだのも、その一環だったのでは、と今なら思う。
とにかく、それ以降、「旅をする」為に必要な知識をせがんで聞かない私に対し、両親は喜んで力を貸してくれた。
その内の一つが、(おそらく当時はあまり親子仲の良くなかった)母の父、つまり祖父の工房であり、その他に私が日々のスケジュールとして通ういくつかの場所なのである。
そんな少しだけ前の思い出、でも今でも胸の中に熱く灯り燃え盛っている思い出を振り返りつつ、自分の刻印の出来栄えをナイフを眺めつつ確認する。
うむ、悪くないな。
そんな風に少し休憩をしていると、奥の部屋よりカナンさんが顔を出し、私の方を見て微笑んだ。
「ライナス君、もうすぐお昼だけど、もう大丈夫?」
「はい、作業はひと段落しました」
「へー、そっか。お、ついにナイフに刻印したんだね。どれどれ……。……え」
祖父の愛弟子であるカナンさんにチェックしてもらえるなら、最も有り難いことである。
祖父はそんな親切なことは一切してくれないし、してもフンと鼻を鳴らすだけで、意見を求めれば「才能なし」の一言のみだ。
しかし、そのカナンさんは私のナイフの三つの刻印をまじまじと見ると、急に苦笑いを深めて固まってしまった。
急激に不安になってくる。
もしかして、何か致命的な間違いがあっただろうか……?
「え、えっと…カナンさん、何かおかしなところがありますか?」
「え!?えっと、いや……すごい上手に彫れてるよ!ちょっと上手すぎてビックリしちゃったんだ!あははは」
嘘だ。
あれは5歳児には言えない何か、致命的な何かを発見した時の表情のはずだ。
「いえ、そんなことないはずです。カナンさん、私が祖父の孫だからって遠慮しないでください。ダメなところはダメと、私の心が折れるぐらいメタメタのボコボコになるぐらい指摘してくださってOKです。ほら、どこですか?どこが悪かったんですか?」
「い、いや、だから全然大丈夫だって!問題ないよっ!ほ、ほらっ、早く行かないとおふくろ亭はすごいこの時間混むから、僕は先に行って席を取っておくね!」
「ちょ、カナンさーー……あーぁ」
カナンさんは無理矢理にナイフを私に押し付けると、逃げるように走って出て行ってしまった。
ふむ、どこが悪かったのだろうか。
祖父から教えてもらった数少ない刻印の中で、最も簡単な気法刻印である「硬」を2つと、気を行き渡らせるための「循環」を1つ間に入れ込んだだけなのだが……。
特に斬新な発想という訳では全くないし、刻印の効率が良い型のため、実際に祖父の駆動鎧の各所にも彫られているものと同じなのに。
うんうんと頭を捻らせていると、不意に後ろから「フン」という祖父特有の鼻鳴らしが聞こえた。
「あ、じぃちゃん、これなんだけどーーー」
「才能なし」
祖父は冷たく私を一瞥し、ズンズンと工房の外へと歩いていく。
……こ、このクソじじぃ。
私はその背中にナイフを投げつけたい衝動をどうにか抑えて作業台へナイフを置くと、トボトボと肩を落として祖父の後を追って歩いた。
「ライナスくーん、ここだよ、ここ!」
祖父は孫に全く歩くペースを合わせない大人気なさを発揮して、一瞬で見えなくなってしまった。
いつも昼食をとる工房街にある食堂「おふくろ亭」までの道のりは知っているので、開き直ってゆっくり歩く。
何分遅れたか分からないが、ようやく店に着くと、ガヤガヤと賑わう奥からこちらに手を振るカナンさんが見えた。
「すいません、お待たせしてしまって。席ありがとうございます」
「いいよいいよ。ちょうど頼んだものがくる頃だから。あ、ライナス君もいつものシチューでよかったよね?」
「はい」
私とカナンさんは隣り合って座り、向かいに体格の大きな祖父が一人で座る。
いつもの昼食時の座り方だ。
それにしても、
「今日はなんかお客さんが多いですね」
「あ、ライナス君は知らないか。3日前から、隣のザロン市軍とセメンサ市軍で合同演習をやってるんだけど、工房街にも技術交流ってことであちらの職人たちが大勢来てるんだよね。だからほら、最近はここも混み合ってるのさ」
なら、なぜウチの工房にその技術交流のための職人が来てないのかと言えば、
「ワシはそんなもん好かんから知らんぞ」
この通りの理由である。
しかし、それにしてもお店自体も今日は上手く回っていない気がする。
そういえば、先程からこの店の看板娘であるリリーの姿が見えない。
「はい、お待ちどうさま!ごめんねぇ、今日も中々忙しくっておくれちゃって」
「フン、構わん」
「女将さんも大変ですねぇ」
給仕服姿のふくよかな女性ーーーこのおふくろ亭の店主である「女将さん」が、3人分のシチューを器用に腕に乗せて運び、私たちのテーブルに置きながらいつもの明るい笑顔を見せた。
祖父は素っ気なく返事をして無言でバクバクと食べ始め、カナンさんが労わりの言葉をかける。
「ライちゃんも3日ぶりね。今日も可愛い!」
ちなみに、彼女も私を「ライちゃん」と呼ぶ。
「女将さん、リリーさんの姿が見えませんが…」
「あぁ、そうなのよー。ちょうどライちゃんが前に来た日の夜から高熱出してね、今も家で寝込んで出てこれないのよ。それにこの合同演習が重なっちゃったでしょ?昼も夜も忙しくオバさん死んじゃうわ」
「そうなんですか。それは心配ですね…」
看板娘のリリーは女将さんの一人娘であり、現在12歳だ。
この街では働いていても珍しくない年齢ではあるが、それでもやはり12歳はまだ子供である。
今日まで3日間寝込んでいるとなると、かなり酷い熱ということになるし、実際に女将さんもこの忙しさでは休むことも出来ずに心配だろう。
飲食業は回転が命だからな、などとリリーの心配とお店の心配を同時にしながらスプーンでシチューをすすっていると、去り際の女将さんが突然立ち止まり、ぐいと私に顔を寄せてきた。
「ライちゃん、どうかお願い。1つ御使いを頼まれてくれない?」