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最初の記憶はあまりにも曖昧で、形を持たない、暖かなスライムのようなものに包まれていた印象だった。
その居心地の良い場所で、突如として四肢に、特に頭部に大きな圧迫感を感じたとき、私はそこで初めて「目を覚ました」のだと思う。
強烈な圧力に次いで、不意に胸が苦しくなり、私は酸素を求めて喘ぎ、必死に足を踏ん張ってそこから飛び出した。
そして、その先で、今まで感じたことのない光に照らされたような気がした。
「◾️◾️◾️◾️◾️◾️…!」
「……◾️◾️◾️◾️◾️」
いつからか何時も遠くから聴こえていた二重音声が、初めてクリアに鼓膜を揺らし、脳を刺激する。
光が徐々に強くなり、酸のように目に突き刺さる。
先程までとは正反対の寒さが肌を縮ませ、形容しがたい生臭さが鼻腔の奥にこびり付いた。
あまりに不躾に私を襲ったそれらの雑多で多様な情報が、私に初めての頭痛をもたらす。
何の覚悟もない状況で、即座にそれに耐えきれずに思わず涙を流した私を誰が責められようか。
「…オギャァッ!オギャアッ!オギャァ…ッ!」
泣いた。
思いっきり、泣いた。
そんな私を慈しむようにポンポンと背中をさすられ、それが合図であったかのように私を先程までとは違う種類の温かな何かが包む。
その中で、暫く振りの安寧を得た私は再び深い眠りに落ちた。
次に「目が覚めた」のは、おそらくあの悪夢のような衝撃から約1年が経過した頃なのだと後から知った。
というより、全く時間的な概念が欠落してしまっており、本当に何も覚えていないのだ。実感も全くない。
ただ、ある日突然、それまで白昼夢の中にいるかのように捉えていた像が定まり、寝転ぶ私の目の前で揺れている鈴を眺めていたとき、「はて、これは何だったか?」と疑問を抱いた。
その瞬間、急激に身体中に血が巡り、脳が熱くなり、意識が明確になったことを覚えている。
「もくせぃのすじゅ、か?…めつらしぃぁ(木製の鈴、か?…珍しいな)」
死ぬほど滑舌は悪かったが、幸いにも、そのとき部屋にいたのは私だけだった。
意識がはっきりしてから、まず私がしたことは落ち着いて考えることだった。
見慣れているようで、あまり記憶には残っていない天井を見つめながら、私は長い長い時の流れの先に漂っていた記憶を整理する。
私は死んだ。おそらく。
おそらくというのは、死の自覚がないからだ。
自分で言うのも何だが、あれはベタな事故だった。理由は分からずだが、突然歩道に突っ込んできた車にはねられ、宙を舞った瞬間までの記憶はある。
ただ、そこまでだ。
プッツリと途切れたテープのように、そこからは真っ黒な世界が続き、いつの頃からか温かい優しい場所で微睡んでいたような気がする。
その辺りの記憶も極めて曖昧だ。特に興味も湧かない。
部屋の天井は、コンクリートの肌がそのまま露出していた。
ただ、電球などは見当たらず、今は時間帯的に昼頃なのか、1つだけある窓から差し込む日差しのみが灯りである。
その窓には木製の簾のようなものがかかっており、窓ガラスはない。
寝返りを打ち、部屋の周囲を見渡す。
私用の部屋なのかどうかは知らないが、四畳ほどの部屋には私のベット以外は小さな木の棚があるのみだ。
ガランとした部屋は少し散らかっていて、赤ん坊用であろう布がいくつか床に落ちている。
「うまえかわた、とうぅことあおあろうな……(生まれ変わった、ということなのだろうな……)」
呟きの滑舌が悪すぎて、自分でも何言っているのか正直分からない。
が、呟かずにはいられなかった。
輪廻転生という概念は勿論知っているが、まさか自分が体験することになるとは、人生分からないものだ。
なぜか、そこまで驚きはない。割と普通に受け止めてしまっている。
視界も微妙に安定していないし、像も時折ピントがズレたようにブレるが、とりあえず自分の手のひらが赤ん坊のそれであることは容易に認識できる。
ここはどこだろうか?
転生した事実を確認してから次に浮かんだ疑問は、自分の出生地に関するものだった。
コンクリートの質感や電気がないことを考えると、少なくとも先進国ではないだろう。
どこかの新興国でも未だ貧困地域にあたる農村部か、もしくは日本からはかなり離れてアフリカあたりかもしれない。
しかし、肌の色から何となく白色もしくは黄色の人種であるとは思われる。鏡があればいいのだが、この家にあるだろうか?
あーだこーだと推測を重ねていると、背中越しに部屋に誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。
「◾️◾️、◾️◾️◾️◾️◾️?」
どうやら母親のようだ。
今まで遠くで何度も聞いてきたような気がする声である。
私は曖昧な記憶を確実なものにしようと、母の方へ寝返りを打ち、顔をそちらへ向けた。
「うおん……(うそん……)」
「目が覚めた」時から瞬時に頭に浮かんだ考えーーー落ち着いたら前世での母親に会いに行くというプランは、もう実行不可能なのだと私は直感した。
次いで、先程までは不思議と感じていなかった悲しみの感情がポツンと心の水面を打ち、赤ん坊だからだろうか、それは急激にコントロールの効かない渦となって私を飲み込んだ。
当然、それは涙という形で外に出、ドバドバと私の柔らかな頬を伝う。
自分の姿を視界に収めた途端、泣き声すら上げずに号泣するという赤ん坊あるまじき泣き方をした我が子に、母はかなり動揺したのだろう。
「◾️◾️!?◾️◾️◾️ッ?◾️◾️◾️!」
彼女は焦ったように私の寝るベッドへ駆け寄り、ひょいと私を抱き上げ、頬の涙を拭いながらも心配そうに私の小さな身体をペタペタと撫でて確認している。
私はそんな母の頭の「上」へ手を伸ばし、在るモノを掴んだ。
「あっあり、おんののや(やっぱり、ホンモノだ)」
そこには在るはずのない耳……犬の耳、所謂ケモミミであった。