02-2
「雨、結構強いよね」
「……あ?」
――え? 今、私……?
「あんなに短い時間だったけど、あんた達、まぁまぁ濡れてるじゃん?」
「はぁ? 突然ナンだよお前。怖くてアタマおかしくなったのか?」
「服も髪も、濡れちゃって気の毒……ククク」
「そんなのテメーも同じだろうが!」
左の男が怒鳴った。
夕貴は、その勢いで殴られると思い、身構えた。
身構えようと、した。
のに。
身体が、自分の思うように動かない。
いや。
それどころか勝手に動いている。
「アメリカだったかなぁ、猫をさ、レンジに入れて乾燥させようとしたら死んだからって、メーカーが訴えられたの知ってるぅ? あんたらバカそうだから、知らないかもな。すっげー有名な話なんだけど」
その瞬間、頬に激しい痛みを感じ、身体が跳ねた。
平手打ちされたようだ。
夕貴の身体は、カメラの準備をしていた男に強くぶつかった。
その衝撃で何か、それなりに重そうな物が落ちる音が聞こえた。多分カメラだと思われる。
「痛てェなコラ! ナニやってんだてめぇ!」
「うるっせぇ! 黙ってとっとと拾え! てかクソガキ、ナニがネコだ! 都市伝説に決まってんだろそんなモン!」
「訴訟が本当かどうかじゃなくてさ、レンジで生き物は死ぬかどうか、って事を今は言いたいわけ」
「お前も最後にはぶっコロしてやるわ! 肉塊にしてやるからな!」
服をカッターで引き裂かれ、破られる。
インナーのキャミソールがさらされ、肌寒い。
「ナニ笑ってんだよクソガキ!」
「なぁ、レンジの原理知ってる? マイクロ波が酸素や水素の分子を振動させ、摩擦で熱を生み出すんだってさ。マイクロ波ってのは、日常の空間に存在してるらしいよ。今ここで実験してみよっか」
夕貴の口が、半笑いの小さな声を零す。
「布留辺由良由良、なんてどうかな?」
すると男の身体から一瞬にして湯気が立ち上り、蒸気で車内のガラスが曇った。
悲鳴が絶叫に変わるまで、ほんの数秒。
男の肌は泡立ち、ただれ、剥け、筋肉の繊維が露わとなる。
――うわっ!
「水分が多いと、そうなっちゃうねぇ。ククク、はははは!」
「貴様の仕業か!」
右の男が掴みかかって来た。
「こっちはお前らよりもまだ、濡れてんだぞ。ほぉら、水分のお裾分けだぁ」
くるんと頭を振ると、髪から雫が飛び散る。
それは髪から離れた瞬間、かなりの高温に達してしまうらしく。
水滴を浴び、奴らは「熱ちぃ!」と悲鳴をあげた。
運転席の男も含め、全員が身をすくめる。
「おら! 退けよズル剥け肉塊!」
筋肉も神経もむき出しの男を蹴り、その身体を乗り越え、奥のドアを開けた。
車はまだ走行していたが、熱湯被害を受けた男の運転はもうお座なりで、スピードはほとんど死んでいる。
武道の経験は皆無だが、受け身っぽく身体を丸め、アスファルトの上に転がり落ちる。
道路の水と、空から降って来る雨とで、全身あっと言う間にずぶ濡れとなった。
車は数十メートル走ってから、止まった。
自力で止まったのではない。停留所に停車していたバスへ背後から突っ込み、止まったのだ。
それを、百メートルほど離れたこの場所から見つめる。
立ち上がり、雨に打たれながら。
――ねぇ。
「あん?」
――早く帰ろう、よ。
「帰れると思ってんのか、お前」
――……だって。
「まさか、もう無事に逃げ切れたんだから、とか言わないよな? あの場所をウロウロしてたガキがどこの小学校だか、見当付かないとでも思ってるのか? 登下校時に張り込まれれば、すぐに発見されるだろ。お前、変装してこの先ずっと過ごすつもり?」
言い返せない。
――でも、だったらどうするの。
「トドメ刺すに決まってるだろ」
――こっ殺すのっ?
「は? イヤなのダメなの? 自分が殺されるのとどっち選ぶの? 今度捕まったら、屈辱どころじゃ済まないんだぞ、分かってるのか? 車はあんなにしたし、ひとりは生皮剥いだし。こっちだってそれ以上の目に遭わされるに決まってるだろ。まさかとは思うけど、報復されるわけないとか、思ってる?」
――そ、それは、その……。
逃げ切れた、と思っていた。
その後の事など、考えもしなかった。
自分はなんて浅はかでバカ、なのだろう。
「こんな関わり方して、暴行だけで済むはずないだろ。最悪殺されて、録画データはネットで永遠に流されるんだ。データ保存したロリペド共が気分次第で、お前が死体になってく最悪映像見る事になるんだよ。奴らの妄想の中で考えうる限りの悲惨な目に、イメージの中のお前は遭わされ続ける。何度も何度も、世界中の、無数の人間にな。その中には知り合いが居るかも知れない。親戚や、これまでのクラスメートだって目にしないとは限らない……この先何十年も、俺らが死んでも、半永久的に、晒し者にされるんだ」
それは二度と取り返しの付かない、闇へのルートだ。
どんなにどんなにどんなにどんなに後悔してたって、自分ではどうしようもない。
無間地獄の、真っ暗闇。
「身元がバレたら、家族だって脅迫される。無事で居られるわけがない」
その言葉に身体も心もビクッ! と震えた。
「娘の無残な最期を餌に財産を身包み剥がされ、臓器も奪われ、人としての尊厳も踏みにじられて、リンチを受けながら死ぬ羽目になるかも知れないのに」
――……もう、いい。分かったよ。私が悪かったよ、ごめんなさい……。
勇気の事で悩んでいた自分が、バカみたいだ。
こんなにも恐ろしい深淵が日常の中に紛れ込んでいるなんて、思いもしなかった。
想像を絶する世界が、この世にはあるのだな。
勇気が居てくれたから、あの車から逃げ出す事が出来たのだ。
もし自分が、ただの普通の女の子だったら?
勇気が一緒に居てくれなかったら?
勇気の言うような地獄に落ちていたかのも知れない。
「でもまー、お前がそんなにも」
――え……。
「イヤなのなら、あいつら生命だけはカンベンしてやるか」
――ど、どうするの……。
「そんなもん、決まってるだろ」
勇気はそれ以上言わず、騒ぎになっている現場へと向かった。
遠くからサイレンの音が聞こえ始めている。