01-5
隣の部屋から時折、声が聞こえる。
不機嫌そうな勇気の声と、怯えと甘えが混ざったクリストファーの涙声。
ふたりは今、どんな会話をしているのだろう。
気になるが盗聴の趣味は無いので、盗み聞く事はしない。
窓の外にフと、雨の気配を感じた。ベッドから起き上がり、窓を開ける。
除湿していた部屋の中に、大量の湿気と熱い空気が流れ込んで来た。
ただでさえ湿度の高い夏の夜に降り注ぐ、無数の水滴。
光を反射させながら滴る雫は、どれもこれも、とても綺麗だ。
腕を、窓の外へ差し出す。
水滴はビーズのように肌の上で跳ね、夕貴の掌で固形化した。
これが、他の人には扱えないドロップの正体である。
雨は自在に形を変える。夕貴の思うようなハート形になったり、星型になったり、綺麗なパールになったり。サイズも無数に操れる。
夕貴が思いさえすれば、色も形も反映させられるのだ。
この能力は、そう。
あの日。
勇気が夕貴の意識の中に姿を現したあの日から、突然、使えるようになった。
『お前には見えなかった、だろう?』
得意げに笑う男の子が、意識の中に存在する。
『あの人が、あんな風に体から離れたから、それを見たから、俺は真似出来ると気づいたんだ』
――なに? なんのこと……?
『ほら、あそこさ。この場の主役』
少年が指差す先にあるのは、事故現場だった。
雨でスリップした車が、中学の制服を着たお兄さんを轢き殺した。そんな現場。
勇気にはその時、降り注ぐ雨がお兄さんの身体を射抜く凶器に見えていたと言う。
だが夕貴にはそれが細長い、綺麗なビーズにしか見えなかった。
雨は、道路に横たわっているその身体に降り注ぎ、お兄さんから血をどんどん流し出す。
母親に連れられて行ったコンビニの、扉の中から見たその景色。
『あの酷く折れ曲がった身体からね、半透明のお兄さんが、スウッて抜け出たんだよ』
心の中で、誰かが勝手に呟いている。
『雨の矢は、とても鋭そうで綺麗だな……』と。
勇気は、夕貴の脳内に流れる男性ホルモンの〈分身〉
きっと同時に生命として母親の胎内に現れ、この世に生まれて来た。
自分達が自覚するずうっと以前から、最初の最初から、共に在った相手。
『俺はこうやって自分の意識を得る事が出来た。きっとお前も出来るよ』
――なに?
『お前が今、望んでいる事だ。傘の外に手を伸ばしてみな。ほら、水が固まるよ……雨のビーズだ。レインドロップって言うんだって』
――そっか。こうやればこの綺麗な雨を、自分の物に出来るんだ。じゃあもう、お店でビーズ買って欲しいって、お母さんに言わなくて済むな。
『人は、たくさんの能力をセーブしてるんだって。そんなのつまんないから、お前も好きに能力使えよ。俺が出来たんだから、お前も出来る出来る』
――ねぇ。私の心で勝手に話しているあなたは誰なの。
『俺は勇気。お前の分身。お前の中に実在するもうひとりの〈お前〉だ』
脳、から現れただけあって、勇気は夕貴より少しだけ物知りだった。
脳と宇宙のネットワーク構造はよく似ていると教えてもらった事がある。画像も見せてもらった。
だから勇気の知識は、宇宙から来たものなのかも知れない。
夕貴が日常で習い覚える事とは、違う次元の事が多々あった。
幼い頃は彼の言う事がほとんど分からなかった。
けれど成長と共に、夕貴も自分なりに状況を把握するようになっていた。
自分の中に存在している、もうひとつの人格。勇気。
名前は両親が「男なら勇気、女なら夕貴」と決めていたので、それを使っている。
彼は時々、実体を持って目の前に現れた。
なぜそう出来るのか本人にもシステムはよく分からないようだが、イメージだと思う、と言っている。
人の精神は時間や物理現象に対し、影響を及ぼす事が出来るんだよ、と。
正直、夕貴にはよく分からない。
でも実際、彼には出来ているような気がするから、そんな事もあるのだろう。
あの時、事故で亡くなったお兄さんが〈その身体から抜け出る瞬間〉
その映像がスローモーションで、勇気の意識に焼き付いてしまったらしいのだ。
それを真似してみた、と彼は言った。
透明な雨の矢が降り注ぐ中、音も無く浮き上がるように出て来た半透明の、人間の魂。
それの、真似。
だから勇気が出現するのは決まって、雨の日だった。
それが彼の出現を縛る、唯一の条件。
小学校の高学年頃になると、勇気はよく現れるようになっていて、友達にも知られる存在となっていた。
『夕貴ちゃんの友達さぁ、あの子。いつも雨の日にしか来ないよね』
『そうだね』
『晴れた日も来ればいいのに。そしたら一緒に遊べるのにね』
友達の言葉に『うん』と返事をする事は、出来なかった。
なぜならその頃の勇気は、夕貴と同じように雨を使い楽しんでいたから。
彼は、雨を凶器と認識していた。
だから、やる事はただひとつ。
気に入らない相手を傷つける。
それだけ。
雨は、水は、透明な矢のように、刃物のように、相手の身体を傷つける。
きっと彼がその気になりさえすれば、弾丸のように身体を貫通させる事も出来るのだろう。
夕貴は、そんな勇気が怖かった。
彼は、夕貴が日頃、ムカついている相手を狙うのだ。
夕貴に対してイヤミを言う男子を何人、意地悪をする女子を何人、傷つけたか分からない。
担任にちょっとした事を誤解され、クラス全員で怒られた時もそうだった。彼の運転する車のタイヤを傷つけ、単独事故を誘発させた。
最初の頃は、母親にだって悪意を向けた事がある。
帰宅が少し遅れ、強く怒られた事があった。
その数日後の雨の日、母親が帰宅した時、腕に絆創膏を貼っていたのだ。
『いつ、どうやって切ったか分からないのよ。お母さんもドジよねぇ』
そう言って笑っていたけれど、夕貴には分かった。
勇気の仕業だと。
勇気は、夕貴には親切だし、普通に接してくれる。
悪意を向けられた事など、一度も無い。
だけど、怖い。
彼は、自分の分身。
自分の小さな感情の揺れが、彼を攻撃に走らせる。
悪いのは、自分。
自分が人を恨むから、勇気が遊びで攻撃する。夕貴のドロップ遊びと同じ感覚で。
勇気が、今以上の凶行に走らないとは限らない。
夕貴には、出来るだろうか。自分の感情と勇気の行動をコントロールするような事が。
――一生? ずうっと……?
自分を理性でコントロールし続ける事が、出来るだろうか。
恨んじゃいけない。憎んじゃないけない。
そんなの、出来るだろうか。
出来るわけがないと思う。
――こわい……自信、無いよ。