01-4
数秒、言葉の意味が理解出来なかった。
お嫁さんに来て。
言葉は耳に届いた。何度も頭の中でリフレインしている。
お嫁さんに来て。
お嫁さんに……来て。
――『お嫁さんに来て』? お、お嫁さん……?
思わず勇気の方を振り返る。
彼は困惑の表情を浮かべ、眉間に指を当てていた。
夕貴は再び、クリストファーの方に向き直る。
「それ、もしかしてプロポーズ……なの?」
すると彼は「うん!」と頷き、肯定した。
「な、なんで?」
「運命だよ、こんなの!」
またクリストファーに抱きつかれ、勇気に剥がされる。
――ちょ、ちょっと待って……思考の整理が出来ない……。
夕貴は混乱した。
クリストファーが言っているのは、こうだ。
ユウくんと一緒に、お嫁さんに来て!
――そりゃ私達の事情を知らない他の人じゃ、とても結婚相手になんか出来な……あれっ?
もしかして自分は、もしかして。
クリストファーのように、勇気の事を全面肯定してくれる人か。
あるいは。
永遠に存在を隠し通せる相手としか、結婚出来ないのではないだろうか。
「ゆ……うちゃんからの返事、は?」
震える声でそう聞くと、彼は首を横に振った。
「だってお前の人生だから、俺に答える権利は無い」
「ちょっと! こんな時ばっかりズルくないっ?」
「バカ、お前もさっき言っただろう」
「何をよっ」
「俺はパスポートが作れない。あくまでこの世に実在してるのは夕貴であって、俺じゃない」
「同一人物のクセにっ」
「同一人物でも、だっ! 戸籍はお前の分しか存在しないし、母親が生んだのはお前だけだ! 俺がこの家で息子みたいにして暮らしているのは、クリスのアドバイスがあったからだ。みんなに〈そう思い込ませている〉だけだ。そうだろうっ?」
それは、確かにそうなのだ。
以前の勇気は、今ほど周囲に認知されていなかったし、出現条件も決まっていた。
それを次々に剥がしたのがクリストファーである。
『同じように学校へ通えばいいよ』と。
『兄弟みたいに、家族として暮らせばいいよ』と。
『ユウくんになら、それが出来るよね。きみの気持ち次第で環境を整えられるもんね』と。
それもそうだ、と勇気が思ったのかどうか。詳しくは知らない。
けれど彼はいつの間にか現在の環境の中に溶け込み、居場所を確保してしまった。
雨の日にしか現れなかった彼が、実在の人物のように日々、暮らしている。
夕貴の傍で。一番近い場所で。
「とにかく、俺の事は気にするな。クリスをひとりの男として見てやれ」
「そんなの無理に決まってるじゃんっ」
勇気の事を考えるな、と言われたって。
「いいか、あいつが言ってるのは『きみの飼ってるニャンコも一緒に幸せになろうね』だ! もし夕貴が他の男が好きで、そいつに俺を説明出来ないって言うなら俺は、いつでもお前の〈中〉に戻ったっていいんだから」
「違うよユウくん! 僕はユウくんも好きだよっ! だってユキちゃんと同一人物なんだもん、愛してるよっ」
「ややこしくなるから、お前は黙ってろ!」
「ややこしいからって、一番大切な部分を抜いて考えてもらっちゃ困るよ! ユキちゃんだってそうだよね、後々困るのはユキちゃんだもんねっ」
「それは、そうなのかも、だけど」
「ほらぁ~!」
「ほらぁ、じゃねぇよ! とにかく俺は、シンプルに考えさせたいだけなんだ! お前だってひとりの男として見てもらった方がいいだろうが!」
「それは勿論だけどさぁ」
「だから、いいな? 夕貴が冷静に考えて答えを出し、結果断った時は、キッパリと諦めろよ。お前をひとりの男として考え、判断し、女として出した結論なんだから」
「絶望突き付けるの止めてよっ。プロポーズを断られる事の恐怖を、ユウくんは分かってなさ過ぎるっ。ぼっ僕……僕が今日、どれだけの勇気を振り絞ったと思ってるんだよ……ひっく! ひっく!」
クリストファーが大きな瞳から綺麗な涙をポロポロと零し、泣き始めた。
「お前なぁ、プロポーズの返事が怖くてその場で泣くとか、バカじゃないのか!」
「怖いものは怖いもんっ! ゆ……ユウくんには分からないんだ……絶対的な味方がいつも、いつも一緒に居るから……強くだってなれるんだ……だけど僕は、僕には、ずっと、寂しさと悲しさしかなくて、そんなのばかりが傍から離れず、ずうっと、そんな人生……ひっく……だったんだから、ね! 日本に来て、きみ達のお母さんのごはんが、僕にとってどれだけ幸せだったか……きみには、分からないんだ……! きっと、ずっと、永遠に!」
クリストファーが鞄を持ち、部屋から飛び出そうとした。のを、勇気が捕まえる。
クリストファーの左腕を、ガッツリと掴んで。
「そんなに寂しいなら、今は帰るな!」
「だってここにだって、僕の居場所は無いんだし!」
「そんな事言ってないだろ! とにかく今夜は……泊まれ。ここじゃないぞ、俺の部屋だぞ!」
「だけど」と呟き、チラリとこちらを見るクリストファー。
夕貴はドキッとした。そして。
「い、いいんじゃないかな。ゆうちゃんと寝るのも」と苦笑いを返す。
「ほんと? ユキちゃん、いいの? ユウくんはユキちゃんなんだよ?」
「い、いいよ……テストも終わったばかりだし、ちょっとくらい」
明日は週末で、学校は休みだ。クリストファーに何の予定も無いなら、泊まってもいいだろう。彼が自分で決めればいい。
クリストファーはその場にヘタり込んだ。そして泣きながら言うのだ。
「ユキちゃん、ありがとう~!」と。大粒の涙を零して。