00-2
クリストファー・エメット。
明るい色の髪と、穏やかに澄んだ水色の瞳を持つ、留学生。
地中海だかエーゲ海だかの小さな島国の出身だと自己紹介していた、と思う。
夕貴は正直、地理や歴史は詳しくないのでよく覚えていないのだけれど。とりあえずあの辺だった、はず。
イタリアやスペインなどの大国ではなかった。だったらさすがに夕貴も覚えられる。
だが彼の国は、聞いた事もないような横文字だったのだ。
歴史上でもヨーロッパ周辺は色々な国が出来たり消えたりして、本当にややこしい。ずっと変わらない祖国・日本で暮らす日本人の自分には、ちょっと理解しがたい情勢である。
と言うか、地理も世界史も苦手だ。夕貴は日本地図どころか、お出かけ先の地図すらよく読み間違えるタイプだった。
異国からやって来た彼・クリストファーはいつも、無邪気で愛くるしい笑顔を浮かべる人だ。
クラスメート達からは「僕ちゃん」だの「クリ坊」だのと呼ばれ、みんなにとても可愛がられていた。
しかも、ナチュラルに甘え上手。
留学生としての彼は日本語も上手く、日常会話は困らない。時折不思議なイントネーションを発するが、それすらも愛嬌となって愛らしく、彼を彩る。
クラスでも目立つ存在のヤンチャな男子生徒達は、クリストファーの頭をナデナデしながら、よく呟いていた。
『あー。癒されるぅ』
『はー。なごむわ』
『オレのトゲトゲした心が浄化されてくうぅぅぅ~』
『綺麗になるぅ~。傷だらけのハートが綺麗になっちゃうぅ~』
『毒抜ける……これマジか。うん。マジ抜ける』と。
誰に聞かせるでもなく、彼らの口からその言葉が零れ落ちていた。
幼い子が、お気に入りのぬいぐるみを抱きしめている時のような、柔和な表情を浮かべて。
当のクリストファーは初期こそ困惑気味に笑っていたけれど、途中からはもうそれが当然であるかのように、彼らの背中を撫でたりしていた。
それこそ天使か女神のような、穏やかな微笑みを浮かべて。
――うちの学校テスト終わったけど、今日は金曜日。平日だよね。なんで?
もしかして彼の通う学校も、テスト最終日だったりしたのだろうか。試験期日が重なる事は、不思議でも何でもないけれど。
「お前に会いに来たんだろ、どうせ」
勇気が呟く。
「わ、私もそんな気がする」
いや。わざわざここへ来る用事など無さそうだとは思うのだけれど。
「あいつ、お前の事大好きだもんな」
彼は進学校へ進める成績だったのに、夕貴と同じ高校に行くんだとか言いだし、周囲を困らせた事もあった。
みんなからの説得でやっと、渋々ながら、自分に合ったレベルの高校へと進んでくれたクリストファー。
可愛く美しい彼に懐かれて悪い気はしなかったし、頼りなげでふわふわしている性格も心配だった。
だから、気にならない、と言うのは嘘だけど。
けれど実際、別の学校で過ごしていると、彼の事を思い出す時間は激減し――最近では忘れかけてさえいた。薄情と言えばそうなのかも知れない。でも。
「あの子、ゆうちゃんの事だって大好きじゃん」
「そりゃ俺はお前の分身なんだし、あいつにとっては同価値。お前を好きな分だけ、俺の事も好きに決まってる。俺とお前の関係を見抜いたのは、あいつの方だし」
自分が好かれている、と言う事をこんなにも肯定出来る勇気が、本当に羨ましいし理解出来ない。
「こんなに注目されちゃって、きっと神経すり減らしてる……助けてあげてよ」
夕貴が背中を押すと、勇気は面倒くさそうに「はいはい」と言いいながら、みんなの前に出て行った。
クリストファーは斜め向かいにある小さな設計会社の、ガレージ横に居た。
背の高い植え込みの端から、上半身を半分だけ出し、こちらを見ている。
――怪しすぎる、あんなの。注目するなって言う方が無理だよぉ、子供みたい。気配消すセンス無いなぁ。
「おいクリス。お前何やってんだよ、んな所で」
勇気が話しかけると、強張っていたクリストファーの表情が豹変する。
今にも泣き出しそうだったその顔が、潤んだ瞳のまま、嬉しそうに笑った。
「ユウくんっ」と叫んで駆け寄り、勇気に抱きつく。
安心したように頬を染めて。
迷子の子供が見知らぬ街で、頼れる知り合いを見つけたかのようだ。
「お前、相っ変わらずだなぁ。人に注目されるの苦手なクセに、よその校門前に出没するとか」
「だって僕、ユキちゃんとユウくんに会いに来たんだ」
クリストファーは両腕で、勇気の胴体をガッチリとホールドしてしまっている。
「いいから、とりあえず離せ」
「え、ヤだ。怖かったからもう少しだけ、このままでお願い」
「ぶん殴るぞ」
「じゃあユキちゃんになら抱きついていい?」
「ぶっコロされたいのか!」
クリストファーは小さく「ひっ」と息を吸い、勇気から素早く離れた。まるで小動物だ。ハムスターとか、そっち系。
「とにかく、いいから行くぞ」と言って、勇気がクリストファーの腕を引っ張って行く。
「え、あのユキちゃん……」と不安げな瞳で勇気を見つめるクリストファー。
「あいつはこれから友達と出かけるんだよ。だから話は俺が聞いてやる」
クリストファーが「え~っ」と不満そうな声を漏らす。
「どっちでも一緒だろうが。あいつのプライベート邪魔すんな」
「分かったよぉ……でもあの、話聞いて怒らないでね?」
「内容次第だ」
「やっぱり僕、ユキちゃんと話すぅ! ユキちゃん、ユキちゃ~んッ!」
「あんたの名前呼びながら、引きづられて行ったわよ。あ、角曲がった」
「おもしろ~い。相変わらずだねぇ、クリスくん。今の学校でいじめられてなきゃいいけど」
「高校生になってもアレかぁ。見た目だけは完璧なのになぁ、もったいない。親元離れて独り暮らししてるんだから、本当、心配だわぁ」
夕貴も、心配なのは同意である。
――だけど、クリスは。
「てか大体さ、クリスってナニしに日本に来たの? 留学の目的とかって、夕貴、知ってる?」
「ん~……聞いたところによると、父方のお祖父様がとても日本贔屓で、とか何とか言ってたような気がする。子供や孫達も全員、日本に留学させられたんだって。だから日本語や日本文化は、小さい頃から周辺に溢れていたんだよ、って」
「ふぅん。まぁよそのお家の事は口出しすべきじゃないんだろうけど、留学させるのは分かってたんだから、もう少しシッカリさせられなかったのかなぁ。確かいいトコの子なんだよね?」
そうは言うが、人には持って生まれた性質と言うものがある。勇気と自分の差にガッカリしながら日々生きていると、つくづくそれを思い知らされる。
勇気――間違いなく彼は、自分の分身。
人間の脳には両性のホルモンが流れている、なんて事を知ったのも大きくなってからだ。
勇気に出会ったあの頃はまだ幼稚園くらいで、もちろんそんなホルモンの事など知っているわけもない。
だがあの日、自分達は出会った。
流星のように、矢のように、雨が強く降り注ぐ、とても悲惨なあの場所で。