04-2
「兄は、深い悲しみと怒りに〈心の全て〉を支配されてしまったと言っても過言ではないと思うわ。わたしね、未だに苦しみから解放されていない兄の事を、このまま放って逝く事は出来ないなぁって思っているのよ」
それは、そうかも知れない。
大切な人が未だ苦しんでいるのを知っているのに、自分が現世から離れてしまうなんて。
心配で心配で、逝くに逝けないと思う。
「それで、俺達に出来る事があるんですか」
「兄ね……地下に居るのよ」
――えっ! ここの?
「昔からずうっと訴え続けているのだけれど、まだ出て来てくれないの」
「俺らに引っ張り出して欲しい、と?」
「無理かしら。わたし以外の〈声〉にも反応しない、かも知れない。でも、少しくらいなら反応してくれる、かも知れないわ……分からないわね」
そう呟き、彼女は「ふふっ」と笑った。
「兄は多分、正気じゃないの」
――そんな人の所へゆうちゃんを行かせるって言うの?
ちょっと心配になる。そして正直に言えば、反対だ。夕貴だって行きたくはない。
「そうですね。何が刺激になり、どう反応するかは分からない。〈声〉を変えてみるのも一手かも知れませんね。俺は行くけどクリス、お前どうする?」
勇気の言葉に「えっ」と反応したのは夕貴とクリストファー、同時であった。
「ユウくん、行くの?」
「何しにここまで来たと思ってるんだよ」
――ちょ……お祖母さんの願いを叶えるためじゃなかったでしょ!
「お前が泣くから来たんだろー。大好きなばーちゃんの気持ちを聞いて、このまま何もせずに帰ったら、お前、それこそ〈この瞬間〉に捕らわれ続けるんだぞ。五年経とうと五十年経とうと、今聞いた話に対して何の行動もしなかった事を、後悔しないとでも思ってるのか?」
「それは……そうかも、だけど……でも……えっ? えっ?」
クリストファーが三人の顔を見回す。その表情は混乱していた。
「ばーちゃんが危篤って聞いて、取り乱して、号泣したろ。その時、お前、何を考えてた? ただ単に会いたかっただけなのか? お前にとってこの人は、大切な人なんだろ?」
勇気の言葉を聞いてケイトは「クリストファー」と、少し苦笑いを浮かべた。
「そう。そんなにも悲しんでくれたの……ありがとうね」
クリストファーは瞬時にして、表情を崩した。その瞳から大粒の涙が溢れ落ちる。
「後悔なんて絶対にヤだ。僕も行く、ユウくん!」
泣きながら両手で拳を握りしめている。子供が虚勢を張っているようにしか見えない。
――う。大丈夫かな、クリス。
だが勇気もケイトも反対する様子はない。ならばきっと、大丈夫なのだろうけれど。
――でもその兄って人。お祖母さんにさえ無反応だったのに、他人や孫に反応するのかな。
勝算があるのかどうかさえ、夕貴には分からない。だが彼らが「行く」と言うのだから、反対する理由は見当たらなかった。
――私も行くんだよ、ね……。地下かぁ。
暗いイメージが広がる。古城の地下なんて化け物が出そうだが……ゲームのやり過ぎだろうか。我ながらイメージが貧困である。
――お祖母さんのお兄さんが居るのだから、引き篭もりのご老人がひとり居るだけだよ、ね。
昔から、とケイトは言っていた。年季が入った引き篭もりである。
――現代人特有の現象じゃなかったのか。
「なら、行くぞ」と言って、勇気が立ち上がる。それに続いてクリストファー、そして夕貴も立った。
なのに。
「あ。お前はいい」と、夕貴は勇気に断られたのである。
「えっ。どうして」
勇気が数秒、間を置いてから呟く。
「お前のフォローまでしてられない」
「はぁ?」
「地下だぞ。転んで足が痛い、とか言われたってさ」
心がザクリ、と痛んだ。確かに、転ばないと言う保証は無い。
薄暗そうな地下室で、いや、そこに降りるまでの階段で、転ばないとは限らない。
転ばないとは、限らない。
――わわわ私ってそこまでドンクサかったっけ? 最近、どこかで転んだっけ? 確かに運動神経無い方だけどさぁ!
そう言われた事が恥ずかしくて、体温が上がってしまう程度に軽く焦っていると、クリストファーが耳打ちして来た。
「心配してくれてるんだよ」と。
涙で瞳を潤ませたクリストファーに、フォローされた。それはそれで自分が情けなく思えたけれど。
でも、勇気に心配されていると言うのは、分かる。
そして、自身が泣くほど精一杯なのに、クリストファーはこうやって夕貴を気遣ってくれているのだ。
夕貴が傷付く必要なんて、どこにあると言うのだろう。
――自分の捉え方次第なんだなぁ。よくゆうちゃんが言ってるけど、こう言う事か。
小さく息を吐き、夕貴はクリストファーの顔を見つめた。
「クリスが転んだら、ちゃんと手当してあげるからね」
「う、うん……」
クリストファーが苦笑いを浮かべる。
「私のフォロー、ヘタだった?」
「そ、そんな事ないよ。ありがと、ユキちゃん。僕の事を見守ってくれるって言ってもらえたのも、嬉しかったよ」
「見守る事しか出来ないし」と言うと、彼は「ううん」と言って首を横に振った。
「誰かに見守ってもらえるのって、すごく安心出来るから」
その気持ちは、夕貴にも分かる。
そしてきっと、クリストファーはこんな事で嘘なんか言わない。
「よし。じゃ行くぞ」
勇気に腕を引っ張られながら、クリストファーは部屋を出て行った。
リビングに残されたのは夕貴とケイトの、ふたりきり。
――き、緊張しちゃうな。
何を話せばいいのだろう、と夕貴が悩み始めた時。
「あのねユキちゃん。あなたに見てもらいたい物があるの。写真、なんだけど」
リビングに移動し、壁に設置されたカウンターの上にある写真立てをケイトは指した。
近づいて見る。
銀色に煤けた、古い古い写真立ての中に子供達が居た。
女の子ふたりに、男の子がひとり。
色褪せてしまっているが、なかなか愛らしい三人組である。
――これ、もしかして。
ケイトと兄と、彼女だろうか。
「ねぇ、ほら。可愛いでしょう?」
穏やかな声でそう言いながらケイトは、写真の中の一部を指差した。




