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Twin drop  作者: あおい
02
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02-4


 困惑しながら勇気に近づくと、彼はスッと両腕を差し出して。

 夕貴は、抱きしめられた。


「怖かった、な」


 そう、囁きかけられる。


「よく頑張った、な」


 まだ乾ききっていない髪を、撫でられた。


「もう大丈夫だから」


 その言葉で、涙腺が緩む。



 勇気の腕の中で、泣いた。

 緊張して混乱して、恐怖に強張っていた心と身体が、ぬくもりと柔らかさを取り戻す。



 まるで身体の中に、コンクリートブロックが積み上げられているみたい、だった。

 夕貴を責め立てるような重く、冷たく、痛い――恐怖と罪悪感の入り混じったエネルギーの塊。


 勇気が「大丈夫」と言ってくれただけで、それが砕け散った。

 四散爆発して、夕貴の中から消えたのだ。


「いつだって俺が居る。俺は自分を、世界で一番大切だと思ってる。お前は俺なんだよ、夕貴」


 いつも自分自身を一番大切に思い、大好きだと宣言出来る。

 そんな勇気の気持ちを夕貴はまだ、理解出来ない。


 けれどひとつだけ、夕貴が知り得た事は。

 自分は勇気からこんなにも、世界で一番大切だと思われている。と言う事。


 夕貴は勇気の事を、それほどまで思っているだろうか?

 分からない。


 自分に対する思いがそのまま、相手への思いだと言うのなら……失礼なほど、勇気を大切に考えていないと思う。


 そんなの、仕方ない。


 夕貴は自分に、自信なんてない。

 成績は普通だし、運動は苦手だし、セロリは未だに食べられないし、臆病だし、ズルい事も考えるし、自分に甘いし、いいところを見つけられない。


 小心者で平凡な人間なのだ。

 ……なのに。


 ――受け取っていいの? 勇気の気持ちを。


 自分は返せないのに。何も返せないのに。


「俺はな、世界で一番大切な自分には、幸せしか必要ないって思ってるんだよ」


 ――幸せ……?


「俺はどこまでもどこまでも、自分の事を肯定し続けるよ。他人から『お前に価値なんか無い』と言われたって、夕貴がどこまでも自分を卑下したって、関係無い」


 勇気の言う〈幸せ〉がどんな状態の事なのかは分からないが、自分は〈幸せになる〉なんて考えた事もなかった。


 初めてそれに、気がついた。


 何となく日々、生きて。

 無数の他人と比べ続け、勝った負けたと傷付いて。


 自分が幸せになれるなんて事、チラリとでも思った事はなかった。


 幸せは〈選ばれた人〉だけがなれるのだ、と思い込んでいた。

 どこの何から〈選ばれる〉のか夕貴自身にも分からないが、ずうっとそう思っていた。


 小さい頃に読んでいたお伽話のせいかも知れない。


 選ばれるのは、特別な人だけ。

 主人公だけ。


 そんな思い込み。


「勇気、幸せになりたいの?」


「なるよ」と即答が返って来る。


「いくらお前が足を引っ張ってくれたって、俺はなる。幸せになる。でなきゃ、何しに生まれて来たって言うんだよ」


 それは分からないけれど。


「お父さんとお母さんが、子供欲しいと思ったから、かな」


「じゃあ親は、子供にどんな風に生きて欲しいと願って産むんだろうな? 結婚したからとりあえず、って。夫婦としてのファッションアイテムみたいなものだったりして」


 そう言われると、寂しいかも。


「俺は自分が幸せになるため、こうやってお前を癒すよ。でもだからって、夕貴の思い通りにはさせないから」


「え、何? 突然」


「お前のために手は汚してない。納得しろと言ったって無理だろうと思うけど、とりあえず言っておく」


 気付かれてたのか。気付かれないはずはなかったのだけど。

 でもそれなら、夕貴が心の隅で勇気に対して思っている事にも気づいているのだろう。



 迷惑だと感じたり、邪魔だと思ったり。



「そうだな」


 その言葉に、身体がビクリと震えた。


「あ、反応した。素直だな、お前。いいさ、俺の事も自分の事も、どんな風にでも思えよ。俺はそんな事関係無く、お前の気持ちも受け入れて肯定するから」


「どう言う意味? 無理に私の気持ちなんて受け入れてくれなくても」


「色々な事は自由に感じていいんだよ、別に。お前は聖人にならなくていい。汚くてもズルくても、そんなの、俺の思いには関係無い。俺は他人に牙を剥く自分が好きだし、悲鳴を聞いて優越感に浸ってる自分も好きだ。それに、こうやってお前を抱いてる穏やかな時も……好きだから」


 無茶苦茶である。

 全方位に向けられる全ての〈自分〉を、彼は好きなのだ。

 自分の存在の、ひとつ残らずを、全肯定している。


 そんな人、初めて見た。


 ――な、なんか凄い……私が思っていた勇気像と違う、この人。


 もっとこう……都合のいいところだけを主張するのだと思っていた。

 だって、多分それが普通の人間だろうし。


 ――ちょっと待って。勇気って〈普通の人間〉ってカテゴリでいいの?


 これまでよりももっと、理解出来なくなってしまった……ような気がする。


 もしかして夕貴は、自分は、全方位に向けられている〈無数の勇気〉の、一欠片なのではないだろうか。


 夕貴自身だって、色々な自分が存在している。

 家族と居る時の自分。友達と居る時の自分。ひとりの時の自分。

 ごんはを食べてる時や、勉強している時や、外を歩いている時や、眠っている時だってある。


 水泳は楽しい、マラソンは嫌い、リコーダーは難しいけど好き、絵は好きだけどヘタクソ。

 全てが自分のバリエーションだ。


 だとしたら〈今、ここ〉に居る自分が、勇気の〈バリエーションのひとつ〉ではない、と言い切れないのではないだろうか。


 ――う。頭が。


 難しい事を考えるのは苦手なのに、どこにも証拠や証明が無い。

 唯一。答え合わせてしてくれそうな相手が、勇気だ。


 夕貴の前には、勇気が実在してくれているだけ。

 多分それが、全ての答え。


 嘘じゃない。幻でもない。

 彼は本物。


 人格なのかハートなのかマインドなのか、言葉や定義は分からない。


 彼は自分。

 彼は、夕貴の分身。


 間違いなく〈ここ〉に居て、抱きしめてくれている。

 これが、答え。


「不思議だろ? でも俺は、お前なんだぞ」


 確かに不思議だ。

 自分が自分に向かってこんな事を言っている、と言う事なのだし。


 夕貴は、少し思い違いをしていたのかも知れない。

 勇気と自分は、存在が半分半分である、と。


 いや、正直に言えば、夕貴が八割で勇気が二割くらいの〈存在〉だと思っていた。

 だって肉体を持っているのは夕貴の方なのだし。


 だけど、それは間違っていたのかも。


 肉体を持つ重要性など勇気は感じておらず、意味も持たないのだろう。

 人間の社会に捩じ伏せられて生きるより、勇気みたいに好き勝手やれる方が自由なのだし。


 人間、と言うカテゴリの鎖に繋がれているのは、夕貴の方。

 その分、行動範囲もモラルも思考も、狭くなる。


 そうだ。

 勇気の見ている世界の方がきっと、断然広くて大きいはず。


 それに比べ夕貴は、目の前の事しか理解出来ない。

 理解が出来ない、のだ。


 思考や理屈が納得出来ない事は、理解出来ない。

 科学を受け入れる事は出来ても、魔法は受け入れられない。

 多分、それと同じ事。


 そして自分がバリエーションのひとつに過ぎないのなら、〈本体〉である勇気が、夕貴のどんな思いも認めてくれる、と言う理屈が分かる。かも。


「なんか混乱して来ちゃった。あの……ね? 質問があるんだけど」


「ん?」


「私の脳って、なに?」


 疑問が口から零れ出た時、勇気は少しだけ身体を離して、こちらを見た。

 そして数秒の間の後、子供のように明るく笑って。


「さぁ? 何なんだろうね」


 そう言う勇気に再び、強く優しく抱きしめられる。


 勇気の身体は、なんて気持ちがいいのだろう。

 力も体温も、筋肉の弾力も、全てが最高に心地よい。

 閉じたまぶたの奥で、星が小さくスパークしてしまうほどである。


 夕貴は全身で、彼に密着している細胞全ての全力で、勇気の身体を感じ、味わった。

 彼は、お風呂上がりの自分と同じ香りがした。


 ああ。これが自分の分身なのか。

 抱かれているだけでこんなにも、安心出来る。


 母親に抱かれていた幼い頃の自分も、こんな風に幸せだったのだろうか。

 きっとそうなのだろうな。


 気持ちよすぎて、心が解放されてゆく。


 少し前の怖い出来事が、遥か昔に見た夢の中の出来事のように、遠く小さく感じられる。


 このまま。

 抱きしめられた夢見心地のまま……このまま。


 二度と現実に戻る事なく、永遠に眠ってしまえればいいのに。


 これは天国の心地よさなのだと思う。

 意識が幸福感に酔い、なんていい気分。

 酩酊状態とは、このような事だろうか。頭がふわふわとして、心が浮き足立つ。


 果てしない安らぎの中での、開放感。


 この瞬間が永遠に続けばいい――。



 そう思っていたのだけれど、やはり無理だった。

 この世に生まれてしまった以上、最後まで夕貴は、現実の中で振る舞い続けなければならないらしい。

 なぜなら〈現実〉が容赦なく、自分の名前を呼んだから。


「夕貴、ごはんよー!」と。


 その時、勇気が小さく息を吹いて笑ったのが、分かった。

 彼のリアクションに、夕貴は少しだけムッとする。


「ムクれるなって。俺は、いつでも夕貴のものだから。天国でも地獄でも、ずっと一緒だよ」


 耳元で囁いてくれた後、ゆっくりと身体が離される。


「ごはん、食べておいで」


 そう言って、部屋から送り出された。



 ――なんなんだ。


 本当に自分って、何なのだ。


 天国と現実の狭間は、結構シンドいぞコレ。

 それを彼は分かってくれているのだろうか。

 分かってくれている、だろうな。きっと。


 夕貴はさっきまでの自分とは違う、奇妙な気分で階段を降りた。



 それが小学六年生の、秋の終わりの、肌寒い夜の出来事である。

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