02-3
雨に打たれ、ゆっくりと歩きながら、右腕を前方に出して指を広げる。
彼の意に沿うかのように無数の水滴が、前方へと流れた。
まるでオーロラの帯みたいだ、と夕貴は思った。
ゆらゆらと、なんて幻想的に動くのだろう。
雨の一粒一粒が街灯の光をキラキラと反射させ、煌めいている。
眺めていると、心が吸い込まれそうになった。
水のカーテンは揺らめきながら、車へ向かう。
先端が到着すると同時に、車のガラスが真っ白に染まった。
どうやら、無数の亀裂が入ったようだ。
そして舞い上がる、白い煙。
いや、あれは破片。
車内のあいつらはきっと全身にそれを受け、血まみれになっているのだろう。
異変を目撃した人々の悲鳴が湧き上がる。
「〈目〉を奪う時、身体の他の部分を傷付ける事になるのは、許せよ。不可抗力だ」
――あぁ、そうか。視力がなくなればあいつらはもう、私を見つけられない。
あの破片に紛れ込ませた雨粒が、彼らを直撃しただろう。
弾丸のように眼球へ飛び込む水滴が、脳を傷付けないとは限らない。
もちろん全身の、どこだって。
雨音に紛れて聞こえる、人々の悲鳴。
夕貴はそれを、遠い意識でぼんやりと聞いた。
「――よし。スマホもカメラも、データごと壊した。これで手掛かりは完全消滅だ。最初は車のボディを打ち抜き引火させ、火ダルマにさせるつもりだったんだけど。でもそんな事したら他も危険とか言って、お前が絶対、許さないよな。俺は派手な事も好きなのに」
勇気が小さく笑う。
夕貴は笑えなかった。
きっとこれまでだって彼は、夕貴のために手を汚して来たのだ。
激しさのレベルは違えど、こんな風に。
――ごめんなさい……ごめんなさい……勇気。
夕貴が人を恨むから、憎むから、怯えるから。
だから勇気が手を汚してゆく。
「はぁ? そこは『ありがとう』じゃないのかよ?」
――違わない。ごめんなさい、だよ。
こんなんじゃ、人を恨む事も憎む事も出来ない。
自分の感情に対して、大きなブレーキをかけ続けなければならない。
それだけじゃなく、自分が危険な目に遭わないよう気をつけて生活しなければ、これから先も同じような事になるのだろう。
――無理だよ私、そこまでシッカリなんて生きられないよぉ!
危険に首を突っ込まないのはともかく、感情は思い通りになんて出来やしない。
自分は、聖人じゃない。
ただの女の子。
「さ、帰るか……母親怒ってんだろうな」
勇気が自宅に向かって歩き始めた。
夕貴は歩いているつもりがないのに、〈中〉から動く景色を見ている。
自分で歩いているのと変わらない。体感の全てがいつもと同じなのに。
自分で歩いていないのが、分かる。
こんなにも、ハッキリと。
――そうか。勇気もきっと、ずっと長い間、こんな感じだったんだろうな。
それはとても不思議な感覚だった。
今、身体を動かしているのは勇気の方。
車の中にいた、途中から。
あの時から動かし始めたのは、彼なのだ。
〈自分〉と言う着ぐるみの中に入っているようだった。
中の自分は動かしていないのに、着ぐるみの方が勝手に動く。
――身体と精神って、不思議だな。何重構造になってるんだろ。
自宅の玄関を開けてすぐ、トイレに飛び込んだ。
キッチンから出て来るであろう母親の目から逃れるにはそれしか無い、と勇気が解説してくれる。
『服ズタズタにされて、全身びしょ濡れだし。怒られるならまだいいけど、詮索されたらメンドクセぇ』
確かに、こんな格好を見られたら心配させてしまう。
部屋へダッシュするより、トイレへ逃げ込む方が緊迫感も納得してもらえるな。
「わ! ちょっと夕貴、あなた濡れて帰って来たの? 廊下濡れてるじゃないの、後で拭いておきなさいよ。お風呂も入れてるから、ごはんの前に入りなさいね」
扉の外から聞こえる言葉に「はぁい」と返事をし、気配をうかがう。
「さ、そろそろお魚……」と、声が小さくなった。きっとキッチンへ戻って行ったのだ。
タイミングを逃さずトイレから脱出し、部屋へと逃げ込む。
閉めた扉に背中を預け、その場にしゃがみ込んだ。
それは勇気ではなく、夕貴の行動だった。
脱力した、のだ。
身体の震えが止まらない。
さっきまで、一瞬前までは平気だったのに……今はガクガクと震えている。
――おい。いつまでもそうしてると床が濡れるし、さっさと着替えて風呂入った方がいいんじゃないのか。
冷静な声が、自分の中から聞こえる。
確かに、勇気の言う通りだ。着替えて、廊下を拭いて、それからお風呂へ行こう。
入浴後。
部屋に戻り扉を開けると、机の前のイスに、男の子が座っていた。
夕貴はドキッとして、息を飲む。
「未だに慣れないのか」
勇気は苦笑いを浮かべた。
どこから仕入れたのか彼は、袖の少し長い、チョコレート色のシャツを着ていた。ボトムスは黒のスウェットで、リラックス感満載である。
夕貴だってラクチンなコットンのルームウェアを着ている。
気楽さは、お互い様だ。自宅なのだし。
「風呂入って落ち着いた?」
「う、うん……少し」
嘘だ。
本当はショックも恐怖もデカデカと、ガンとして、夕貴の中にある。
風呂の中でだって、涙は止まらなかった。
今はそれを、無理矢理塞き止めている状態。
――う。お母さんの顔を見たら、泣いちゃうかも……そんなの絶対ダメだけど。
でも油断したらヤバい。今夜だって、眠れるかどうか。
――ひとりで、暗い部屋の中で、怖い気持ちを味わうのはイヤだなぁ。
就寝時が、とても怖い……。
「ふぅん、そか。じゃ」
「え?」
彼はスッと、立ち上がった。そして、穏やかな声で言うのだ。
「おいで」と。
「え? ……え?」
意味が、全く分からない。
「おいでって、なに?」
「俺から行ってもいいけど、近づかれると怖いんじゃないかな、と思って」
「はぁ?」
「いいから、おいで」




