予兆
日常から離れた出来事が数日続いていたけど、だんだんとそのことにも慣れてきた。どうしたものかと悶々としていたが、やることが決まったことで気持ちも軽くなる。
丘を上がり家の近くに来るとパンが焼けるいい香りが漂ってきた。母さんが趣味でパンを焼いているのだ。元宮廷法術士はパン作りでもその腕前は一流だ。昨日はそのパンを食べられないことにアムサリアは大いに悔しがっていた。
「ただいまー」
「おかえり」
奥の台所から母さんの声が返ってきた。
中に入って台所に行くと焼きあがったパンがテーブルの上にいくつか置いてある。
「ひとつ貰うよ」
小腹が空いた俺は返事を待たずにカゴからひとつ黒糖のパンを取り出してひとかじり。
「あとでご近所に持っていくの手伝ってね」
「はーい」
パンをほお張りながら返事を返して台所を見回すと、魚の入ったタルが置いてあった。
「父さんはどこ?」
「父さんは居間でお客様とお話し中よ。あなたが散歩に出ているあいだに、自警団時代の部下の人が訪ねてきたの」
「自警団時代の? ふーん」
このことが、俺とアムサリアの大きな問題になろうとは思いもしなかった。
台所でパンを食べながら待つこと十分。扉が開き父さんと出てきたのは自警団の副団長だった。
「ラグナ、具合はどうだ?」
数日前の実践研修のことを心配して声をかけてきた副団長に俺は「すこぶる元気です」と笑顔で返した。
副団長を見送った父さんが眉間にしわを寄せて戻ってくると、難しい顔をしながら俺に言った。
「ラグナ、クラン。ちょっと聞いてくれ」
そう言って話された内容は驚くべきモノだった。
「陰獣が出たっていうの?」
二十年前、エイザーグと共に消えたはずの陰獣が現れたというのだ。
数件の被害が出ているが、現状での死者はいない。警備兵を雇っている富豪も狙われ、守護獣がいるにもかかわらず仕留めることはできなかったらしい。
「もし、アムがホントにそこにいるなら、この事件は黒なのかもな」
父さんはソファーの背もたれに頭をあずけた。
「アムはなんて言ってる?」
そう言えばアムサリアはどう思ったのだろうか? さっきから全然しゃべってない。
「なぁアムサリア、今の話を聞いて……」
俺の後ろにいる彼女に声をかけようとしたところ、険しい形相の彼女が立っていた。怒りなのか恐怖なのか判断しかねるその表情に言葉が詰まる。
「陰獣の出現……わたしがいる意味……エイザーグと関係しているということなのか」
彼女は自分に問いかけるように声を漏らし、俺の声は聞こえていない。
もし、本当に破壊魔獣なんて奴が復活したらこの国はまた大変なことになる。先の闘いで十大勇闘士も五人が命を落としたうえに、残った五人は現役を退いて日が長い。新たな勇闘士と呼ばれる者は三人だけ。魔獣を討った聖闘女も御覧のありさまだ。
「アムサリア? なぁ、今の話聞いてたろ? どう思う?」
その質問に答えてなのかわからないが、キッっと俺の目を見据えて彼女は言った。
「ラディアに会うより先に成さねばならないことができたようだ! その事件のあった町に行こう!」
「って言ってるよ。父さん?」
「ん?」
最悪の答えが返ってきた。
「いや、それはいくらなんでも危険すぎるだろう? もしかしたらあの破壊魔獣と関連があるかもしれないのに、その現場に行くってどう考えてもやばすぎる!」
全力で拒否するがアムサリアの意志は揺るがない。聖闘女の使命感からかエイザーグの存在を放っておくことはできないという意志がビンビン伝わってくる。だからと言って俺も揺るがす気はない。
「関連があるかもしれないからこそ行くんだ。きっとエイザーグに関する情報がある」
「話を聞いてたろ? 富豪の守護獣を翻弄したって。その他にも警備兵も配されていたのに手に負えないってどんだけの強さだよ」
「大丈夫だ。陰獣程度ならどうとでもなる」
「いや、それって聖闘女や十大勇闘士の場合だろ」
「自信を持て。この数日ラグナの強さを見せてもらったが、タウザンの息子というだけあって筋がいい。剣さばきの粗さと重心の移動を修正すればもう一段は上の闘いができるようになることは保証する」
「今そんなふうに褒められたって喜べるか」
「あーわかった、わかった」
聞こえないはずの俺たちのやり取りを聞いて父さんが割って入ってきた。
「つまりアムサリアは現場に行きたい。ラグナはそんな危険な場所に行きたくないというわけだな」
「そりゃそうだ。俺がもうすぐ王都の騎士団の入団試験を受けることを知ってるだろ? 大怪我でもしたらとても試験どころじゃなくなっちゃうよ」
そう、俺の将来を決める最も大切な試験が間近に迫っている。母さんが所属していた王都で父さんのような闘士になるというのが俺の夢だ。苦手な法術の勉強だってサボらずやってきたのはその日のためなのに、それを不意にするなんてとんでもない。
「俺もラグナをそんな危険なところに行かせたいとは思わないんだけどな。ただこのままこの件を放っておく訳にもいかないし。お前だけに見えるアムが絡んでいるっていうなら、お前も絡んでいるとも言えなくもないよな」
そのことを言われるとどうにも腑に落ちてしまって反論できない。どういう理由でアムサリアが俺にしか見えないのかわからないけど、何か理由があってこうなっているなら、その理由が知りたい気持ちはある。
「あいつには考えさせてくれって返したけど、俺は行くつもりでいるんだ。クランと相談してから返事をしようと思っているんだけど、お前はどうするかなぁ」
アムサリア同様に父さんと母さんはエイザーグとの闘いにかかわった者としての使命感があるのだろう。
「私もラグナが行くことには素直に賛成できないわ。アムはエイザーグのことが気になるんだろうけど、母親としてラグナを危険な場所に行かせることはしたくないの」
横目で彼女を見ると、何か言いたげだったが言葉を飲み込んだように見えた。
「この件は私たちに任せて、ラグナはクレイバーのところに行ってみたらどうかしら?」
「そうそう、実はさっきアムサリアとその話をしていてふたりに伝えに来たんだ。クレイバーおじさんだったら何か良い手を考えてくれるんじゃないかってさ」
「そうだな、奴ならなんかやってくれそうな気がするな」
父さんも膝を叩いて賛成した。
これでふたりの了承を得られたということになる。あとはアムサリアが納得してくれればいいのだが……。
「アムサリア?」
控えめに名前を呼んで顔を覗き込んでみる。
彼女は目を閉じて眉間にシワを寄せながら少しのあいだ沈黙していた。
出会ってから数日、なかなか思うように進展しない状況で、ときおり見せる彼女のこういった表情を見るのは心苦しく感じる。俺が行けば何か進展するのだろうが、なにせ事情が事情なので簡単には決められない。
国家を揺るがす一大事になるかもしれない事件に俺が首を突っ込んでどうなる。だけどアムサリアが現れた理由がその事件と関係するなら、それを遠ざけて良いはずもない。
やはりここは俺が折れたほうが良いのかと、考えがまとまらないままぐるぐると思考を巡らせていると、「よし、わかった」と目を見開き彼女は言った。
「わたしたちはまずクレイバーのところに行って相談しよう。事件のことはクランとタウザンに任せることにする。そして、わたしが事件を解決するために必要だとしたら、ふたりに合流して手を貸すというのはどうだ?」
一度自分は一歩引いて相手の意見を取り入れたうえで、条件付きで自分の意見を通すというなかなか上手い交渉だ。
この提案を伝えると、ふたりは話し合って条件を付け足した。
「もしこの事件にかかわる事態になったらクレイバーを同行させること」
おじさんなら間違いなく同行してくれるだろう。その条件を俺も彼女も了承した。
「決まったな。じゃぁ俺はあいつを追いかけて話を伝えてくる。馬車が来るまでには追い付けるだろうから」
父さんは足早に出て行き、母さんはパンを焼きに台所に戻った。