夢想の結末
人の死とは何か? それはすべての人の記憶から消えたときだ。そんなことを学校で習ったことがあった。だけど、今この瞬間は生命活動を止めたときなんだろうと実感している。それは目の前にそういった死が迫っているから。
最近、山に住む野獣が人里に下りてきていると目撃証言があり、近郊の町の町長より放逐の任務が自警団に命じられる。
その自警団は以前父さんが務めていたため、俺は実践訓練として参加させてもらうことになった。
「君は俺の後ろを付いてくれば危険なことはない」
そんなふうに俺の緊張をほぐしてくれたのは、父さんの後輩でこの自警団の第二部隊長。確かな実力を持つ彼だが、山で遭遇した野獣に襲われ重傷を負ってしまった。
決して彼が弱いわけじゃない。油断があったわけじゃない。
眼前を通過した尖爪から飛び散る血液。俺の顔に付着したその血液は今しがた目の前で切り裂かれた彼のモノだ。
上限など知らずに高まる鼓動。乱れる呼吸がそれを加速させるのか、鼓動が呼吸を乱すのか。ありがたくないその現象が俺の『生』の証だ。
その『生』をおびやかす赤黒い体の獣を俺は知らない。一見して熊と思しきこの獣は、イーステンド王国に生息しない魔獣なのか。
「ラ、ラグナくん。にげ……ろ」
抜剣した剣先が揺れるのは相手の動きに素早く対応する自然なモノではなく、恐怖による筋肉の強張りだ。
ベテラン闘士の彼を一撃で沈めた魔獣を前に、平常心でいられるはずもない。
倒れる彼を置いて逃げるわけにはいかないという思いなど、このときは欠片も頭になかった。なぜなら、俺は言葉にできない妙な感覚と頭痛にさいなまれていたから。
「なんでこんなときにっ!」
原因は魔獣の眼光が発する威圧からなのか? その理由はわからないが、魔獣の威圧に負けまいと必死で睨み返す。
ひりつく緊張感の中でひときわ強い殺気が放たれたことで、さらに強い頭痛に襲われ、同時に鎧を纏った女性の幻覚が一瞬見えた。
「ラグナっ!」
駆け付けた父さんの呼ぶ声が空気を震わせて耳に届いたのだが、俺の意識はその幻覚に奪われ、他人事のように抜けていった。
その幻覚の女性が誰なのかと思う間もなく、俺は彼女と体が重なる。そして、その者の動きを無意識に追いかけて、恐ろしい魔獣に踏み込んだ。
襲いかかる魔獣の噛みつきを避けながら、流れるような三連斬撃が足と胴を薙ぎ、首を切り裂く。振り向き構えなおす目の前で魔獣は力なく地面に崩れ、それを確認した俺の意識は夜を迎えつつある森よりも、暗く深い闇に落ちていく。
「おい、ラグナ」
薄れゆく意識の中で父さんに呼ばれていたのだが、その声はどんどん遠くなっていく。なのに闇に落ちるほど意識は鮮明になっていった。
そして、その先で俺が見たのは、途轍もない負の力を持つ魔獣と闘う少女だった。
俺は彼女と重なって、その魔獣との闘いを体験することになる。
***
激しい咆哮が彼女の魂を砕かんばかりに放たれた。それは、無防備で受ければ絶命しかねない怨念の咆哮。
その力を発現するのは、頭部には魔獣の王を彷彿させる三本の凶角を備え、殺意に満ちた赤黒い体躯の魔獣。先ほど俺を襲った個体が小熊に思えるほどの強大な力。この魔獣がなんなのか、俺はすぐに理解した。それは、二十年前にこの国を襲った破壊魔獣エイザーグだ。
体長と同じくらいの尾の長さを合わせれば、五メートルに達する全長と全高二メートルほどの中型の魔獣。強靭な牙と爪を武器とし、これまでに存在しえないほど強大な負のエナジーである陰力を放ち、その強さは他の野獣や魔獣を寄せ付けない。心の弱い者は魔獣の陰力に当てられただけで命の危機に瀕してしまうほどだった。
対するは、まだ二十歳にも満たない少女。凛々しく精悍な顔つきながらも、どこか幼さのある彼女のことも俺は知っている。肖像画などで見たことがあるからだ。
彼女は聖闘女アムサリア=クルーシルク。エイザーグからこの国を救った奇跡の英雄。その表情は強い意志を持ち、恐ろしき魔獣の殺意のこもった咆哮を敢然と受け止める。
聖闘女が纏う白く輝く鎧は彼女の正の心力である輝力を蓄え増幅。物理的攻撃を減衰して邪悪な力を打ち消す。魔獣の放った咆哮も光の飛沫となって虚空へと消し去った。
その苦しさや痛みさえ伝わってくるこの状況に俺は衝撃を受ける。
ここは聖シルン教団の大聖法教会の奥にある大聖堂。大天使が人々に授けた神具、蒼天至光が祀られている聖なる場所だ。
(これは、破壊魔獣と聖闘女の最終決戦か?)
そうだと思ったのは神具の祀られた大聖堂でエイザーグとアムサリアが闘ったと伝えられているからだ。
アムサリアは何度となく牙や爪を受け、床や壁に打ち付けられ、陰力のこもった攻撃を受けるのだが、その心はわずかにも怯まない。その理由は彼女を支える者がいるからだろう。
少し息を弾ませながら半身に構える彼女は、肩の装甲が視界に入ったらしく視線を移し、心配げに声をかけた。
「大丈夫かラディア」
魔獣と彼女しかいないこの場で、ラディアと呼ばれる者が答える。
「気にすることはない。アムを護ることが私の存在意義だ」
彼女をアムと呼んで抑揚の少ない言葉で返したのは、彼女が身に着けた鎧だ。
「ぐぅらぁぁぁぁぁぁ!」
腹の底に響く魔獣の叫びが、懸念で乱れたアムサリアの意識を引き戻したのを感じた。そんな叫びと殺意の視線を受けつつも、彼女は優しく魔獣に語りかけた。
「安心しろ、おまえのその苦しみは今日終わる」
全身に打撲と出血、左腕は亀裂骨折と流血。体力の消耗も大きく息が切れている。まだ心力は充実しているようだけど、そんなバカげたことを語れる余裕など感じられない。
その彼女に対して奇跡の鎧は進言した。
「私が本気を出さなければ君が勝利する可能性は五割を切りそうな厳しい戦況だぞ。必勝には程遠い。私は一旦退くことをお勧めする」
もし観戦者がいたのなら、奇跡の鎧が言うことを肯定するだろう。
奇跡の鎧は彼女の負傷した左腕を癒しながら、皮肉交じりの言葉を投げかける。だが、その言葉に対する彼女の返答は、およそこの戦況に似つかわしくない、でたらめな強がりだと思わざるを得ないモノだった。
「確かに今の戦況は厳しい。だが、わたしが覚悟を持って本気を出せば勝率はさらに五割増しになる。つまりおまえの本気と合わせれば、この闘いは必勝だ!」
アムサリアが掲げた剣が何かに共鳴するようにリーンと小さな音を奏でた。
「フォース・コンバージ」
聞いたことのない法文だった。
「なんだその法文は?!」
それは奇跡の鎧も同じだったようで、彼女に疑問の言葉を返す
その法術によって何か効果が発現したようには感じられなかったのだが、続けて唱えた法術の力に大きな変化があった。
「ヒリング・ケアリオーラ」
癒しの法術がこの戦闘中にエイザーグの牙によって負傷した左腕を治癒してゆく。
治療法術は高度であり、多大な体力、精神力、心力を消耗する上に、その速度は遅々たるモノだ。なのに、アムサリアの治療法術の効果は、大仰な儀式による神聖法術並みの効果を発揮した。
破損した手甲はそのままだが、彼女は剣を支える程度しか握れなかった左腕を治療させ、その腕で邪聖剣クリア・ハートを握り込んでエイザーグに向けて構えた。
「ここからがわたしの全身全霊の闘いだ」
ここまでの闘いも出しおしむことのない全力戦闘だったことは間違いないはずだ。それは彼女の強さがイーステンド王国の十大勇闘士に名を連ねた父さんに勝るとも劣らないと思えるから。何より、この破壊魔獣エイザーグを前にして、全力を出さずして生きていられる者など考えられない。伝え聞いていた魔獣の力は俺の想像を超えていた。
「行くぞ! ラディア」
彼女はこれまでにない莫大な輝力をその心から生み出した。
「るぅぅあぁぁぁぁぁぁ」
彼女が溢れる輝力の残光を引きながら聖闘女の名に恥じない力と速さでエイザーグを攻撃する。
「この湧きだす力はなんだ。本当に今まで全力じゃなかったのか?」
今日まで彼女と共に闘ってきた奇跡の鎧がこれほど驚くのは、その力が常軌を逸している証拠だ。この猛攻にエイザーグはたじろぎ、たまらず距離を取った。
「逃がさない。セイング・ファイム・ゲイザー!」
溢れる莫大な輝力を鎧がさらに増幅し、三つの法文で構成された上級法術をアムサリアが錬成。その法術を邪聖剣が強化発現した。
床に描かれた法術陣から聖属性を与えた大火力の炎が噴き上がってエイザーグを焼き焦がす。たまらず天井に向かって飛びあがった魔獣は翼を広げて空中に逃れるが、アムサリアは新たな法文を叫ぶと共に腕を振り降ろした。
「セイング・レイン・ブラスト」
大聖堂の天井に描かれた法術陣から無数の光の雨が降り注ぐ。その法術は魔獣の翼を穿ち、体を削って地へと叩き落とした。
(すげぇ……)
聖なる炎の残り火が、さらに魔獣の体を焼き焦がす。
その後も超絶の法術法技が続き、狂気の叫びをまき散らす魔獣を追い込んでいく。
「アダマン・シルド」
彼女が差し向けた手の先に大きな光の波紋が広がった。エイザーグの猛烈な突進を止めたのは、青白く輝く巨大な法術の盾だ。
「これは神聖法術の絶対断絶障壁!」
奇跡の鎧が驚くのも無理はない。それは、優秀な数人の法術士が大仰な儀式によって発現させる超上位法術。教会などの拠点を防衛することに使われる神聖法術だからだ。
大聖堂という神聖な場所であるからこそなのだろうが、彼女は単独で神聖法術を瞬時に発現させた。物語に登場する天使の御業とはこういう感じだろうか。
尽きることなく瞬時に湧きあがる莫大な輝力を糧として、ひとりでは発現不可能と思える神聖法術を操る聖闘女の底が知れない。伝説が過小だと思えるほどの彼女の法術法技がエイザーグの片足を切り飛ばし、噴き上がる大地のエナジーが力を削り、突き伸びた岩の槍エイザーグを拘束する。
(奇跡の英雄の力は伊達じゃない)
しかし、術者であるアムサリアもまた、胸を押さえて片膝を突いた。その姿に俺の胸は強く締め付けられ、心は不安にかられた。
ここまでの圧倒的な闘いが嘘のように彼女は苦しんでいる。異常なまでの法術の威力と限度を超えた連続使用の反動なのだろうか? まるで命を削っているかのようだ。
彼女はゆっくり立ち上がると力ない足取りで、岩の槍に拘束された魔獣へ近づいていく。
「危険だ、離れろ!」
叫ぶ奇跡の鎧の言葉を聞かず、彼女は魔獣へ手を伸ばした。
「ごわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
過去の記憶を見ている俺でさえ心と魂を削られるような怨念の咆哮。それを至近距離で受けた鎧は弱々しくも光を吹き散らして抵抗するが、いくつもの亀裂が走り損傷していた左腕の手甲が割れ崩れた。しかし、力を振り絞った断末魔とも思える魔獣の咆哮は、彼女にはあまり効いた感じがない。彼女は岩の槍に貫かれた魔獣にそっと左手を添えた。
「これでもおまえの破壊の意志を奪えないのか。ここらがわたしの限界だ……」
そう言いながらも彼女の中から輝力が溢れ出る。
「もうやめろ、これ以上は本当に命にかかわる!」
岩の槍に突き上げられ自由を失いながらも魔獣は暴れもがき、残った前脚で何度も彼女を打ちつけた。懸命に彼女を護る鎧からは仄かに光が散っている。
その攻撃をアムサリアは避けることもしない。それを見ている俺に奇跡の鎧の強い想いが流れ込んできた。
「なぜ私は彼女と並び立って闘うことができないのか? この忌まわしい魔獣を私の手で斬り倒せれば、アムが心と体を痛めることなどないのに。護ることだけでは本当の意味で彼女を護る闘いなどできやしない」
その想いがわずかに鎧の護りを強くする。
トクン
大聖堂の壇上に浮かび、ささやかに光る蒼天至光が微かに明滅し、鼓動のような音を発した気がした。
「アム!」
大聖堂の後方の大扉から現れた者が彼女の名を叫ぶ。それは、若かりし頃の父さんと母さんだ。この大聖堂へ続く回廊で闘っていたふたりは満身創痍で歩くのもつらそうな状態だった。
「今……行く」
消耗し切った見るも無残なアムサリアの姿に、父さんは足を引きずりながら懸命に駆け寄ろうとする。
何度目かの魔獣の攻撃に彼女はとうとう膝を折った。しかし、決して心は折られず、怒りなど微塵も感じさせない目で魔獣を見上げた。
「エイザーグ……すまなかった。今まで苦しかっただろう。その念を受け止めて晴らさせてやりたかったのだが。せめて、すべての邪念と陰力を祓って終わりにしてやりたい」
どうにか立ち上がった彼女は、力なく剣を上げると、またしてもクリア・ハートがリーンと音を発した。
「アム、まさか……」
この言葉を聞いただけで、なぜか俺は察した。アムサリアの超常的な戦闘能力と、それにともなう衰弱の原因に奇跡の鎧が気付いたのだと。
「君は邪聖剣に流れ込んでくる大量の陰力を自らの魂で浄化しているんだな。その莫大な輝力を使って強力な法術や神聖法術をっ!」
彼女の苦しみの理由は浄化によっておこる魂への負荷と、浄化しきれない陰力が心へ浸食することによるものだった。奇跡の鎧の心が大きく乱れが俺にも伝わり胸を締め付けた。
「タウザン、クラン。別れのときが来たようだ。エイザーグの消えた平和な世界で幸せな家庭を築いてくれ」
「バカ野郎、何を言ってやがる」
「やめて、アム!」
取り返しのつかないことが起こる。過去の記憶を覗き見ている俺がそのことを知っているのは、この現場にいた両親に聞いていたからだ。幼かった俺はこの話を聞いたときに激しく泣いたらしい。
「ラディア、今までわたしを護ってくれてありがとう。それ以外に言葉が思いつかない。おまえのおかげで闘ってこられたのにな」
「やめろアム、そんなことを言うな。私が助ける。お前を助ける!」
「さらばだ」
手甲の損壊した左腕を鎧の胸に置いて彼女は法文を唱えた。
「ゴー・ダンド・ヴィル」
神聖法術と思われる法文を口にするとアムとエイザーグの上に何層にも分かれた球形の立体法術陣が現れた。立体法術陣の外と内がそれぞれ逆回転し始めた瞬間、彼女を中心にすべてを消し去るほどのまばゆい光があたりを照らした。
この心を引き裂くほどの悲しみの感情は奇跡の鎧のものだろう。これまで力を合わせて闘ってきたアムサリアの存在が薄くなっていく。そんな彼女に伸ばして掴む腕もなく、空間に響く声も出ない。護ることだけしかできない奇跡の鎧の無念さと、想いのすべてを込めて彼女の名を叫んだ。
「(アムーーーーーー!)」
それは、湧きあがる激情の波に飲まれ、悲しみと無力感の闇に落ちながら叫ばれた。