偽りの英雄 聖闘女アムサリア

～英雄と宿敵の章～

異変

　ラグナくんはまだ部屋でぐっすり寝ている。その彼は昨夜、幼馴染である私のもとにやってきた。

　驚くべきことに彼が連れてきたのは、二十年前に国を救った奇跡の英雄である聖闘女アムサリアの霊。とはいっても正確には霊ではなく、生命の根源とされる魂と別れた彼女の心。

　そのことが関係しているのか、昨夜は突如、破壊魔獣エイザーグの分離体である邪念獣(じゃねんじゅう)に襲われるというトラブルに見舞われた。その邪念獣との闘いで傷ついたラグナくんの治療のためにベッドの横の椅子で眠っていた私は、背筋に寒気を感じて目が覚めた。

　秋の間近なこの季節は日照のある昼間は暑くても、夜は少々涼しい日が増えている。カーディガンだけでは足りないのでもう一枚上着を羽織ることにした。

　時計に目を移すと午前八時を過ぎている。いつもは六時には起きるけど、遅くまでラグナくんの治療をしていた疲れからか、けっこうな寝坊だ。

　昨夜のことを思い返しつつ温かいスープを作ろうと台所に立ったとき、再び強い悪寒が背筋を走った。だけど、これは季節の変わり目で起こるモノじゃない。何か負の力の波動を受けたときに感じる不快な感覚で、ベッドで眠る青年が命を落としかけながら闘った邪悪な獣から感じたのと同じ類いだ。

　それを不穏に思った私は、部屋を出て博物館の一階ホールにやってきた。すると、何やら外が騒がしく、ドンドンと入館口の扉を激しく叩く音がする。ガラス越しに大勢の人が集まっていた。

　これはただ事ではないと駆け寄って扉を開けると、大勢の街の人が館内になだれ込んできた。

「どうしたんですか？　いったい何があったんですか？」

「リナちゃん」

　パニック状態の人々の中から私を呼ぶ声がした。博物館前の広場で法術と思われる爆発音も聞こえてくる。

「これはいったいなんの騒ぎですか？」

「陰獣(いんじゅう)が出たのよ」

「え！」

　この嫌な感じの正体は陰獣によるものだった。

「自警団が闘ってるの。憩いの公園でも見慣れない黄緑色の獣が闘っていたわ」

　黄緑色の獣とはグラチェのことだ。

「わかりました。怪我人がいたら治療してあげてください。私は街の人の避難誘導をしてきます」

「わかったわ、気をつけてね」

　私は急いで自分の部屋に戻り、タンスにしまってあるクレイバーメイドの錫杖(しゃくじょう)、【カイン・ダンズ・トレングス】を掴み取って外へ飛び出した。

　博物館前の噴水広場では自警団員五人が陰獣と闘っており、その近くに三人が倒れていた。

　錫杖を地面に突き立て法術を錬成、発現する。

「カイン・ダンズ・トレングス」

　錫杖と同じ法文(ほうもん)を唱えると、広範囲に法術陣が広がっていく。この法術は大地の精霊の力によって法術陣の中にいる任意の者の回復と強化、少しばかりの陰力弱体の効果を同時に発現するものだ。陣の広さは直径約三十メートル。この中にいれば少しは有利に闘えるはず。

「クレイバーさんを見た人はいますか？」

　その問いに近くの自警団員が答えた。

「最初はいたんだ。でも五、六匹倒したところで、『この陰獣の出現は私の研究に因るものだ』とか言って、どこかに行っちまった」

「こんな大変なときにどこへ……」

「博物館を解放しました。みなさん、博物館に避難してください」

　逃げ惑う街の人たちを誘導し、何人か治療したあと、公園へと続く並木道を駆け抜けた。

　本来なら訪れる人を和ませる憩いの公園は、芝が焼かれ、地面は耕され、草木もなぎ倒された荒れ地となって美しい景観は見る影もない。そんな場所でグラチェが走り回りながら闘っている。そして、氷塊(ひょうかい)の雨が公園に降り注いだ。

「アムサリア！」

「リナ、こいつは博物館を目指して進んでいる。食い止めないとラグナが」

「そんな！　博物館には街の人たちが避難してきてるの！」

「ならば、なおさらこいつを食い止めなければ」

　アムサリアが闘う陰獣は、昨夜研究所に現れた邪念獣には及ばない。でも、私に比べればその差がわからないくらいの強さを感じる相手だ。

「なんであいつは博物館を目指しているの……」

　恐怖の思考から出た言葉にアムサリアが答えた。

「博物館や研究所、もしくはそれに関係する者に対して強い悪意を持つ者の願いを受けて、あの魔獣は陰獣と化したんだ。離れていれば危険はないが、邪魔するモノには容赦ない。奴は強い。リナは人々を避難させてくれ」

「悪意を持つ者の願いを？」

　彼女の言葉の意味を考えようとしたとき、正面に立つ私に陰獣が襲いかかってきた。

「ファイム・ジャベリン」

　アムサリアの法術が炎の槍を発現させて陰獣を突き刺した。強力な炎の槍が陰獣を燃やしたかに見えたが、なぜか炎は一瞬でかき消えてしまう。

「なに、今の？」

　わずかながらに怯んだところに私も法術を錬成する。

「ランド・ナクルオン」

　突き立てた錫杖から陰獣に向かって波動が走る。そして、陰獣の前方の一メートル四方の土が勢いよく撃ち出された。しかし、衝突した瞬間に土の塊はバラバラに砕け、周辺に土の雨を降らして消えた。

「まったく効いてないの？」

　その力量差はあるにせよ、ダメージどころか衝撃による怯みも与えることはできなかった。私の未熟な発現力も法具の力で実戦で使える程度の威力を持っているはず。なのに法術で岩石に近い強度に高まった土の塊は、陰獣に接触したと同時に砕け散った。

「どういうこと？」

「リナ、あいつは四大精霊法術に対して強い抵抗力を持っているんだ」

「それっておじさまが言ってた母体の能力によって強さが……」

「そうだ、この国周辺でそんな能力を持っているのは魔獣ディスペルム」

　魔獣ディスペルムは王都の北西部にある山の主(ぬし)で、この近辺の小型魔獣種では最強の部類と言われている。小型とは言っても人間の大人ほどの身長で、その筋量は数倍。上半身と両の腕が異常に発達しており、掴んでからの噛みつきは脅威的だ。