邪念獣
邪念獣のいる場所は、俺たちが今いる大広間と同じくらいの広さがある。部屋の隅に誘導すればリナさんを安全に奇跡の鎧のある部屋に行かせることは可能だろう。あとは俺が持ちこたえられるかだ。
「行くよ」
「うん」
リナさんの心配げな返事を聞いてから、俺は素早く扉を抜けて奇跡の鎧がある小部屋と対角線に位置する隅に走った。
「おい、邪念獣!」
邪念獣が動きを止めて振り向いた。
「くっ」
おそらく二メートルはあるであろう熊のような邪念獣が、実際よりも大きく見える。さらに、二十メートル以上離れているのに逃げ場のない窮屈さも感じる。
その巨体が一歩二歩と踏み出し、すぐに四足歩行となって突進してきた。感じたとおりに二十メートルという距離はあっという間にゼロになり、その勢いのままに恐ろしい力を纏った腕が振り払われた。
倒れながら横に逃げるその後ろで壁が大きく損壊し、そのことに驚く時間も与えてくれずに邪念獣は腕を振り回す。そのたびに壁や床が壊れていった。
「こんな奴とどうやって闘えばいいんだ」
もはや俺の頭には闘うという思考はない。避けることもできずに逃げ回る。法術法技どころか剣術さえも使えずに、リナさんが部屋に辿り着いたのかさえわからなかった。
(死ぬっ!)
俺の背後に死への扉が開かれ、俺がくぐるのを待っているようだ。完全に恐怖に負けたこのざまは闘士として失格だと、あとで激しく後悔するだろう。
そんな中、今のような出来事が以前もあったという既視感を覚え、邪念獣が攻撃を振るうたびにチクチクと頭の奥底を刺激する。
「ラグナっ!」
焦りと不安のこもったアムサリアの声を聞いたとき、その既視感の断片が頭に情景を映した。
「こんなときになんでアムサリアの記憶がっ」
一瞬で頭を駆け巡る記憶がまるで走馬灯のようだと思ったとき、邪念獣の振り回す爪の先が胸当てをかすめた。
「うおっ」
その爪に帯びた陰力の渦に巻き込まれ、きりもみ状態で転がった俺の心には、ひと欠片の闘志も存在していなかった。
「ぐるぅぅぅぅぐあぁぁぁぁ!」
邪念獣の振り上げたその手には、これまで以上の陰力が帯びている。
「リナ、早く!」
アムサリアの声が聞こえ、目の前の邪念獣が電撃に包まれた。
「プラズハ…………ルード」
「え?」
無意識に出た言葉にアムサリアが反応したのだけはわかった。
「ぐおぉぉぉぉぉぉ」
電撃に拘束される邪念獣がさらなる既視感を生んで俺の頭を混乱させる。
「ラグナくん、いまのうちにこっちへ! みんなも今のうちに外へ!」
リナさんの声。そこでようやく俺は白日夢のような状態から目覚めた。
閉まっていた扉からは十数名の所員が一斉に飛び出して逃げていく。俺もリナさんが入った部屋に向かって駆け出し、足をもつれさせながら部屋に飛び込んだ。
高鳴る心臓はしばらくのあいだ激しく打ち続け、それに合わせて呼吸を繰り返していた。
「大丈夫?」
それ以外の言葉がないのだろう。リナさんは俺の背中に手を置いて、落ち着くのを待っていた。
いつの間にか部屋にやってきていたアムサリアに気がついたとき、俺の呼吸はようやく落ち着いてきた。同時にこの部屋で起きている現象が目に入った。
奇跡の鎧であろうボロボロの鎧が強力な輝力を発して煌々と輝いている。それは持ち主であるアムサリアに反応しているようだった。
「ラディア、久しぶりだな……と言うべきか? あの闘いの損傷が治っていないのはわたしがいなかったからなのか?」
無二の相棒と再会を果たしたアムサリアはゆっくりとした口調で話しかけた。
「ラディア? わたしだ、アムサリアだ」
奇跡の鎧からの返答はないらしい。
「今度は本物なのか?」
座ったまま問う俺に、彼女は首を横に振った。
「わからない。この鎧はラディアだと思う。でも心が感じられない」
「それって死んでるってことか?」
恐怖による極限状態からようやく覚め始めた俺は、アムサリアを気遣うことなく最悪の可能性を口にしてしまう。
「ラディアの中に妙な感覚の元があるのは間違いない。それも今は激しく躍動している。それに少しずつだが損傷が修復されている。これはラディアが生きているってことじゃないのか?」
俺はどうにか立ち上がり、彼女の言ったことを確認しようと鎧に近づいた。輝力の光を放つ鎧は、たしかに装甲の微細な傷が少しずつ修復されている。
「こんな反応は今までなかったわ。わずかな輝力の放出と極々少量の陰力の内包。エイザーグの陰力の高まりに合わせて反応を強めたことはあったけど、これほど顕著なのは初めてよ」
「エイザーグの陰力って?」
「博物館に展示してある偽物じゃない回収された本物のエイザーグの肉体よ。エイザーグの肉体は強力な邪念が込められていて、それらはひとつになろうという性質があるの。そして、この奇跡の鎧に向かう性質も」
「それって」
外にいるあの邪念獣が奇跡の鎧のあるこの部屋を執拗に狙っているのと関係があるのか?
「でも、奇跡の鎧はそれを拒むように輝力を放つの。たいした力ではないのだけどね。普段は結界で囲んでそれを抑制しているんだけど、三日ほど前から反応が強くなった。情けないことに、おじさまがいないから適切な対処ができなくて。それでこんなことに……」
「三日ほど前……」
それはアムサリアが俺の前に現れた頃だ。





