不穏
非常口を通り一階の展示場に下りてホールに出たところで、リナさんは受付の女性に声をかけた。
「私はこのあと仕事があるから、閉店作業が終わったらそのまま上がってくれていいわ」
「はい、わかりました。お疲れ様です」
手を振って応え、今度はホール奥にある事務室に顔を出した。
「お疲れ様」
「リナさん、お疲れ様です。おっ、ラグナくん」
「こんばんは、おひさしぶりです」
「今夜はうちのお姫様を独占か。羨ましいなぁ」
「そんなんじゃないわよ。私たちは三人でお勉強なの。遅くなるから終わったら帰っていいからね」
リナさんがひらひらと手を振り閉めた扉の向こうから「三人?」と、不思議そうにつぶやく声が聞こえた。
俺たちを連れたリナさんはその奥の私室の扉の鍵を開けた。
「さぁ入って」
リナさんの私室は四メートル四方の広さで、デスクの横の壁には取っ手のない扉がある。彼女が設置されたプレートに手を置くと、光が灯りピッと音が鳴った。すると、扉が横にスライドして通路が現れた。
「研究所への入り口はいくつかあるけど、私やおじさまの部屋からも行けるの」
「すげー、今のが科学ってやつなの?」
「そうね、これもおじさまが作ったのよ」
通路はかなり広めに作られていて、幅も高さも三メートルくらいある。自動で閉まる扉に驚く俺を見てリナさんはくすりと笑った。
天井に設置された明かりは博物館と同じで火ではない発行体だ。これが普及したら便利になるなぁなどと考えていると、階段に差しかかったところでアムサリアが低い声色で言った。
「やっぱり、こっちから力の波動が伝わってくる。その感覚もさっきより強い」
そう言われて意識すると俺も妙な感じがするような……。それにともない緊張感も高まってくる。
「奇跡の鎧が複製品だってよく気がついたわね。見た目だけじゃなくて等級も同等だっておじさまは言ってたのに」
「鎧の出来栄えとしては申し分ない。ただ、根本的に奇跡の鎧とは別物なんだ」
このアムサリアの返答を、「出来栄えじゃなくて、根本的に違うんだってさ」と、俺は伝言した。
「アムサリアが言ったの?」
「そう、アムサリアが言ってる」
階段を下りつつチラリと振り向いて俺の後ろを見た。
「ホントにいるのね。ラグナくんと重なってるのってやっぱりアムサリアってことなのかなぁ」
「アムサリアがわかるの?!」
彼女の発言に驚いて俺は詰め寄った。
「違うの、わかるっていう訳じゃないんだけど、あなたを見てると重なっている感じがするのよね。それがどういうことなのかまではわからないけど、アムサリアがいるって言うならそれに関係するのかな?」
重なっている……どういうことなのかわからない。その思考の途中で階段は終わり、研究所への扉に着いた。
リナさんがこの通路に入ったときと同様に壁のプレートに手をかざそうとしたときだ。
「待つんだ!」
アムサリアの叫びに驚きながら俺はリナさんの手を掴んだ。
「待って!」
「どうしたの?!」
体を揺らして驚くリナさんに、「ごめん。アムサリアが待てっていうから」と謝罪してからアムサリアを見ると、彼女は難しい顔をしていた。
「どうしたんだ、いきなり叫んで」
「感じないか? 扉の向こうから伝ってくる波動を」
リナさんとの会話に夢中でそういったことは完全におろそかになっていた。アムサリアに言われて意識を向けると、確かに扉の向こうから不穏な波動を感じる。
「リナさん、俺が先に入ります」
リナさんは警戒しつつプレートに手をかざすと、開いた扉の先には凄惨な光景があった。
「これはっ!」
「どういうこと?」
天井からいくつもの強い光で照らされている研究所の広間には、所員が数名血を流して倒れている。近くの所員に駆け寄って抱き起すも、すでに命はなかった。
広間の奥に続く壊れた扉の向こうには、重苦しい陰力を持つ何者かがいる。ときおり何かを強く叩く音が聞こえてくる。俺は背負っていた剣の布包みを解き、腰に下げて臨戦態勢に入った。
研究所の広間は入口から見て幅が三十メートル、奥行き四十メートルほどの広い空間で、テーブルや機材がいくつも置かれている。昼間のように照らされていながらも、この不穏さによって照度が二割ほど弱く感じてしまう。
壁には扉があり、そこは大小様々な部屋となっているようだ。エイザーグの研究室、法具の開発室、新法術の開発室、他にも科学に関する研究室があるらしいことが、扉のプレートに書かれた名前である程度見当がついた。
話には聞いてはいたけど、地上の博物館くらいの広さはあるようだ。
ガラス張りの部屋や頑丈そうな個室、いくつかの部屋は結界石の埋め込んだ柱で包まれているのだが、扉やガラスは破られてひどく荒らされていた。
「いったい誰がこんなことを」
仲間の死を目の当たりにして、震える声のリナさんにかける言葉がない。どうすればいいかと俺が焦っていると、リナさんは隣りに続く壊れた扉に向かった。
「待ってリナさん。その向こうには恐ろしい何かがいる」
俺の警戒心も最大の警報を鳴らしている。
「奥には重要な研究素材や奇跡の鎧があるの。それにまだ所員が生き残っているかもしれない」
足を止めないリナさんを俺はあわてて追った。
「リナさん、戻ろう。この先にいる奴は俺たちの手には負えない」
小声で伝えながら掴んだリナさんの体は震えていた。だけど、戻るつもりはないらしく、破壊されて開け放たれている扉の横までやってきた。
「だめ、あの鎧を失うわけにはいかない」
そっと扉の先を覗くリナさんに続いて俺とアムサリアも覗きこむと、隣の広間にも数人の所員が倒れていた。その奥には部屋の扉を破壊しようと暴れている赤黒い体毛の獣がいる。
「あいつ、覚えがある」
アムサリアが現れる前日、地元自警団の野生獣の鎮圧・討伐作戦のときに遭遇した獣に似ている。ただし、発する陰力と体の大きさは段違いだ。
「陰獣?」
「いや、あれは邪念獣だ」
アムサリアがリナさんの疑問に答えた。
「あれは邪念獣だってさ」
俺を通してアムサリアの言葉を伝えると、リナさんはぶるりと体を震わせた。
「邪念獣って、エイザーグの分離体のはずじゃ?」
エイザーグが討たれた今、陰獣はとうぜんとして邪念獣が存在するはずがない。反対に考えると邪念獣が存在するということは、やはりエイザーグが……。
この事態に何をどうすればいいのかわからない。ただひとつ予想できるのは、その邪念獣がここに保管されている奇跡の鎧を狙っているということだ。
「あの部屋は他の部屋よりも強い輝術結界が張られてるけど、あの調子じゃ長く持たないかもしれないわ」
それは他の部屋のありさまを見れば俺でもわかる。このまま逃げ出したいのはやまやまなのだけど、奇跡の鎧はリナさんとクレイバーさんの大切な研究対象だ。何よりアムサリアの無二の相棒が狙われているとなれば、置いていくわけにもいかない。とはいえ、真っ向から立ち向かっても太刀打ちできないことは明らかだ。
そんな俺の葛藤を見抜いてか、リナさんはこう提案した。
「あの部屋には緊急用の法具があるの。それを使えばきっとあの邪念獣を抑えることができるわ。そのあいだに奇跡の鎧を持って、まだ生きてる所員と一緒にここを出ましょう」
「つまり、そのためには邪念獣をどうにかしてあの部屋に入らないといけないってことだよね?」
リナさんは困り顔でうなずいた。
「ラグナが奴の気を引いているあいだにリナが部屋に向かう。これしかない」
「そうだな……」
「アムサリアはなんて?」
俺が奴の気を引いて、そのあいだに君があの部屋へ」
覚悟を決めた俺は剣を抜き、柄を強く握りしめた。





