陸の噂 ~景織花と鸑門~
鸑門は映画を見ていた。主人公は小学低学年の少女、風鈴寺景織花であった。
――あ、死んだな
真昼の保健室。割れたガラス窓、倒れた保健の先生。荒れた室内。刀を持った女子生徒。轟く金切り声。鸑門は景織花に切られたことを確信した。死ぬと解った瞬間、全身の筋肉が電池の切れた機械のように動きを止めた。最期にそっと目を閉じ、今までの人生を省みた。だがぱっと見思い浮かぶものはなかった。ガラス珠の少女【囗清水晶】を除いて…
鸑門は晶と出会い、泊里という初めての女友達ができた。と言っても、泊里は晶が好きで付いてきているが。それでも友達が増えることは嬉しいことに変わりはない。けれど楽しい事の後に最悪なことが起こった己の人生に、鸑門はどう言葉にすればいいか見つからなかった。
唯一つ。
もっと生きたかった…それだけが鸑門が今言える確かな言葉であった。
「ここは――」
だが鸑門が次に目を開けた時には、真っ暗な世界が広がっていた。前も後ろも右も左も、上も下も黒で染まり、今己が落ちているか飛んでいるか、地面に接しているかも感じない。ただ黒の中に鸑門はいた。
鸑門はまず体を弄った。至る所、特に景織花に切られたとされる部位を重点的に調べた。だが鸑門の服は、まだ登校二日目の綺麗な制服姿であった。もしやと思いボタンを外し己の体を看た。だが目新しい傷は微塵もなかった。つまり鸑門は景織花の刀に切られていなかったのだ。「うそだろ」と鸑門はもう一度体を弄りながら、先ほどまでに感じた刀を切られる感触を思い出す。あの感覚はもしかしたら、自分が勝手に描いた妄想なのだろうか。いや、あんなこと今までにあったことがない。つまりあれは現実だ。…じゃあ――
鸑門の思考はあらゆる可能性を考えついては、すぐに行き詰まった。結局結論を見いだせないまま、鸑門の目は黒の世界に移った。
―ここはどこだ?
鸑門の答えは『黒』以外になかった。それ以外に見える違和感はない。結局ここが死後の世界かどうかを、考えることもないまま途方に暮れる鸑門であった。
今何時頃だろうか。結構な時間を過ごした気がする。だが景色は今も変わらず黒一色であった。鸑門はとりあえず立ち上がった。立ち上がったといっても、足の裏が地面と接しているかは定かではない。だがとりあえず動こう。動いてから絶望すればいい。鸑門は考えることを一旦止めて、歩を進めることにした。
何歩歩いただろう。今見えるのは相変わらず黒一色と自分の色だけだ。制服の白黒の柄の服、肌の色に赤の唇。後は青の上履きくらいだ。今さら止まったところで意味がない。とりあえず答えが見つかるまで歩き続けよう。幸いまだ疲れていないのだから。
鸑門はそう言い聞かせながら虚ろな目を前に向けて歩を進めた。すると、足元にいつの間にか三つの珠が現れた。半径十センチくらいのその珠は無色透明に眩く光り、最初からそこにいたように鸑門の前で輝き続けていた。何故どうして今まで気づかなかったのだろうか。鸑門は考えたが、結局分らなかった。
「水晶玉…?」
零れる言葉は黒の世界に一瞬にして同化し、消えていく。だが鸑門は臆することをやめ、三つの物体について推考することに舵を切った。問題はこの珠が危険かどうかだ。これだけは見ているだけでは判らなかった。結局上から見ても下から見ても同じ、透明な光る水晶である。
だが光るという点に疑問が生じた。何に反射して光っている? そう思った瞬間、水晶が震え始めた。一体何の拍子で? 動くものを見るとつい触れたくなってしまう、鸑門の父親譲りの悪い性分が出てしまった。
―ピタッ
「何だよ、あんたよくやるじゃん(笑)」
「はあ…はあはあ…」
「何でこんなことするの? …風鈴寺さん」
鸑門の目に映し出された光景は、よくある虐めの現場であった。虐めているのが景織花ともう一人の女子、そして虐められているのは鸑門にぶつかってきた女子の顔と似ていた。筆箱をばら撒かれて泣くその女子とばら撒いた景織花。そしてその光景を後ろから嘲笑の目で眺めている女子数名。
「よし殴れ」
「! これ以上は…」
「だったら私が殴ろうか? あんたを」
(…ごめん)
―パチン
「イタッ 。…何で悲しいことするの?」
(言う通りにしないと、今度は私が虐められる)
「もっとこう殴れよブス!」
―バチンッ
「うっ!」
今度は景織花が殴られた。そこに鸑門はいない。これは水晶玉を通して、鸑門の頭に直接入ってきているようだ。そして映画のスクリーンのように大きな映像となって、頭に流れてくる。観客席は鸑門一人だ。入ってくる映像は景織花の思い出なのだろうか。痛くて悲しい小学生時代の虐めの現場。
というより景織花って白い肌だったんだ。鸑門はまずそこに目が行った。今の景織花とは大違いだ。そして景織花の心の声によれば、前まで自分が虐められていたが今は違う。つまり主導者が標的を誰かが変えたということだ。そして景織花は虐められていないということは、自分が率先して虐めグループに協力することで、虐められないようにしているということなのだろう。
なんて悲しいのだろう。虐めが終わるはずがない。虐めから逃げられなかった少女の図。虐めの映像を見た鸑門の心が鎖で強く締め付られるようだ。そして景織花の涙が流れた瞬間、
「! …ここは」
気が付くと珠に触れている己の手を見ていた。その後何度も触れた珠を触っても、うんともすんとも言わなかった。つまりこの珠の効力がなくなったということだろう。次にもう一つの珠に触れてみた。
鸑門が二つ目の珠に触れる丁度その頃、保健室では晶が手を伸ばしたまま茫然と突っ立っていた。まるで目の前の光景が本物か、偽物かを頭で必死に交錯しているような視線を向けて。晶の視線の先には、鸑門と筋肉娘が石になっていた。丁度刀が鸑門の右肩から下を切っているか切っていないかのギリギリのラインで、二人の人間の体が灰色のごつごつした存在に変わっていたのだ。晶は恐る恐るその石に近づこうとした。
「これは…どういう…」
「これ以上動かないで!」
頭が回らなくなっている晶の後ろから突然声がした。その言葉通り晶の体は、途端に動かなくなった。晶が振り向くともできなくないまま固まっていると、更に同じ方向から声がした。今まで聞いたことのないキーの高い声で。
「今、私の目で石にしているから。私が目を開け続けている間だけだから、もし私の視界に入ったらあなたまで石になってしまいます」
「…誰? どうして晶が見えるの?」
晶は普通の人には見えないはずだ。だが晶の背後から驚くことなく声は続いた。
「髀皚雅。見るものを石にする力を持ってます。別にあなたが見えることに不思議はあるんですか? あなたは…何?」
あの割れた眼鏡を掛け、ずっとベッドで眠っていた少女であった。晶は正直に雅に己の真実を伝えることにした。
「囗清水晶。ガラス珠から生まれた…光が当たる所やパパの持ち物を持っている人にだけ見える」
「そうなんですか…そのパパってあの人?」
「うん」
雅の指差す石になった鸑門を一瞥して、晶は迷いなく頷いた。雅は鸑門と景織花を眺めていると、「ハッ」と何かに気が付き、目を石に向けたまま胸ポケットから一つのボタンを取り出した。
「これですね。確か昨日あの人が落したボタン」
「…返してくれる?」
「このいざこざが終わったら、でいいですか?」
「分かった」
晶と雅の会話が一区切りついた頃、雅はふと思いついたように話を再開した。
「私たちってなんだか変ですね」
「…変?」
「だってガラス球から生まれたなんて普通はあり得ないし、石にしちゃう私の目だってありえないから、普通は」
「これからどうなるの? この二人」
「私にもわかりません。危ないって思って石にはしたけど、いつか私の目が疲れて一瞬でも瞬きをすれば、あなたのパパさんはそのままあの人に切られて死にます。私はもうこれ以上のことができません。ごめんなさい」
「晶もわからない…どうすればいい?」
晶と雅は途方に暮れた。自分がどんな力を使えば鸑門を救えるのか。雅は人間であり、いつ疲れ倒れてしまうか分からない。助ける方法は一体――
鸑門は珠に意識を吸い込まれるように、立ったまま眠りに就いた。
「どうしたんだい、景織花」
「ううん。なんでもない(ママには言えない。自分が虐められているなんて…数はあっちが上なのに勝てっこない)」
この映像は景織花が虐められている頃、学校から帰宅した後の母との会話のシーンのようだ。鸑門は食い入るようにスクリーンを観る。
「(もしママに打ち明ければ、ママは必ず学校にかけつける。そうすれば確かに虐めはなくなるかもしれないけど…それが原因で私に話しかけてくれる子がいなくなってしまう)」
景織花はこれ以上問題が大きくなれば、もっと自分が苦しめられることになると思っていた。しかも母に打ち明けてしまえば、母なら直接問題の根源となるものにぶつかって直そうとする性格なので、自分だけじゃなく母親までもが異常者として大人達から自分よりも酷い虐めを受けることになる。娘の一番の理解者だからこそ母を巻き込まないように、たった一人でありとあらゆる苦痛を引き受けたのだった。
「もし何かあったらあたしに言いな。我が子を守るのが親であるあたしの役目だからね!」
「…うん(ごめんなさい。ママには迷惑かけないから…全部私が我慢すればいいんだから…)」
スクリーンが幼い景織花の笑顔を最後に、煙のように消えていく。ふと鸑門が気付いた時には、珠に触れる己の手が現れた。一つ目と二つ目の珠を見た鸑門は、風鈴寺景織花のことが段々と分かってきた。虐めによって景織花自身が傷つけられ、いつしか自分が虐める側となって傷つけていた。強さを騙すために己を偽り続けてきた景織花。学校の世界の歪な世界で生きていくため、無理やり己を学校と同じように歪めて生きてきた景織花。
そして鸑門は最後の珠の前に立ち、手を置いた。
―いじめるのが楽しい! もっともっと強くなって、誰でもいいから痛めつけたい!
―もういいよ! 何のためにここまで強くなったの? ママのように仲間同士で笑いあうために、ママのような強さを求めたんじゃないの?
―私は……何でこうなっちゃたの?
―もういいよ…このままただ流されればいいんだ――
全て景織花一人の声だった。己が傷つけられなければ、一人じゃなければ…どうして自分が母の様になりたいのか、何のために強くなったのか、景織花の心はもう崩落寸前だった。景織花の心は崩落を防ぐため、数を無数に増やした。挙句にその増え続ける心によって自分の心を見失った…そして今の景織花に繋がったのだろう。いつしか鸑門の目の前にあった三つの珠は微粒子レベルに分解され、分散された微粒子が徐々に中心に集まり、それが人の形となって現れた。
「その姿…」
顔立ちや制服を見れば、それが現在の景織花だとすぐに分かった。だが全体像を見た瞬間、鸑門は言葉を失った。肩、背中、手足、掌、足先、心臓を二十本もの錆びついた鉄棒が景織花を貫いていた。鉄棒は地面から生えており、景織花の体は両手を広げ、体を竦めた状態で固定されていた。更に黒の地面から鸑門の股間部の高さまで浮いているので、一瞬飛んでいるかと思ったくらいだ。現実は棒によって固定化された人形。斜めから貫く棒や景織花の体を貫いた棒の先端部分が途中で折れていたりと、様々な棒が景織花をまるで芸術品のように飾り立てているように思えた。
もし映画を見ているのが自分一人だけだったら、大好きな映画を選んでいたら、私にとってこれほどうれしいことはないだろう。だが時として友人、家族、恋人と見た方がより深みが増す場合もある。鸑門の場合は、見たいとは思わない他人の過去話に、あそこまで感情移入できるのは相当凄いと思う。他人の気持ちを考え、寄り添い、そして共鳴してくれる人は地球の下まで探せば見つかるかもしれない。これだけ人がいるのだから、きっと――
何を言っていたのか分からなくなってきたので、ここで次回へ――




