(5)
車両の最後尾を過ぎた。蜘蛛は追ってこない。
俺と水沢さんは、早歩きをしながら地下鉄の線路を一つ前の駅までもどろうとしていた。
季節と逆行しているかのように、寒い。
ふと、気づくと、正面方向の床が光を反射している。
微かな光をこちら側に反射している。前方の床が濡れているのだ。
それは数歩で気が付いた。
パシャ、っと足が水に濡れた。
真っ暗で、これを進んでいいか判断がつかなかった。このまま水かさが増えていくのなら、もしかして……
「待って」
水沢さんが俺の腕を引いた。
「もう、靴に水が入る深さになってる」
「……」
俺も靴にみずが入るくらいになったらどうしよう、と思っていた。
立ち止まって、スマフォの明かりを点ける。
先の天井と、水位の差がヤバい。
「これ、二メートルぐらいは水が溜まってる……」
スマフォの明かりに、俺の息が白く映る。
もしかして、気温はそんなに寒いのか。
こっちはクールビズで半袖だというのに。
「向こうの駅って、ここより高いのかな?」
「泳いで渡ろう、と思ってる?」
「えっ、でも戻れないよね」
「携帯も何も全部濡れて使い物にならなくなっちゃう。この寒さでこの水の中に入ったら、泳ぎつく前に死んじゃうかも」
「けど、ここを戻っても死んじゃうって。水に濡れて壊れてしまうかもしれないけど、死んじゃったらそんなもの持ってたって何の役にも立たないんだよ。生き延びるのが先決じゃない?」
「……違う道を探す」
彼女は踵を返す。
「水沢さん、待ってよ」
「確か、さっきまで反対側の路線と一緒だった。そっちは水が溜まっていないかもしれない」
確かに少し戻ったら反対車線が平行に走っているところがあった。あっち側から駅に戻れば、もしかしたらこの水溜まりを回避できるかもしれない。しかし、蜘蛛のバケモノがこっちに近づいていたら…… どうする?
俺はスマフォの明かりを消した。
「きゅ、急に消さないでよ。何か言ってよ」
「ごめん」
「……こっちこそごめん」
「いや、確かにこの寒さのなか、水の中に入ったら蜘蛛にやられる前に死んじゃいそうなのは確かだよ。向こう岸に着いた時には全く何も持っていない状態だしね」
「駅についてもまだ何かある、と思ってる?」
「どこまでが正常なのか、確かめないと…… こんな一部だけにこの蜘蛛のバケモノが異常発生した、とは考えられないじゃん」
「ネガティブな意見はやめてよ。私は駅に戻ったら救われる。そう信じているから駅に戻ろうとしてるのよ」
「……」
「ねぇ、なんかしゃべって」
「噛みつかれた人間に、噛みつかれたら、やっぱり死ぬのかな?」
「だって、蜘蛛を頭にのせた連中と同じ肌の色になっていたじゃない。同じように死んでしまうんじゃない?」
「ゾンビ、みたいに動いて、蜘蛛の仲間になって加勢しているってことなのかな」
「知らないわよ。蜘蛛も仲間を増やしたいなら、そうなのかもしれない」
「蜘蛛が仲間を増やす?」
水沢さんは拳に力をいれて、否定する。
「だから知らないけど、っていったじゃない。本気にしないでよ」
「……そうなのかも。蜘蛛はなにか仲間を増やそうとしているのかもしれない」
「だったらどうなのよ」
「急いで知らせないと」
「誰に?」
俺はスマフォを見た。地下鉄の中とは言え、電波は届くようだ。警察に電話すればいいのか? 俺は悩んだ。
警察の番号をいれて、送信する。
『……』
「えっ?」
俺のスマフォは発信しない。どういうことだ…… こんな簡単な番号で通話できない? なにか俺は思い出した。
この電話、というか電話アプリは、緊急電話にかけられない。もちろん特定の警察や特定の消防署に直接かけることは可能だ、だが、この三桁の番号ではつながらないのだ。
「どうしよう……」
彼女が不思議そうにこっちを見た。
「どこに電話かけてるの?」
「警察だよ」
「110よ。私がかけるわ」
まさか場所不明の状態で警察に電話する用件ができるとは思わなかった。
彼女が警察に電話している。
「だから、蜘蛛よ。大きな蜘蛛」
漏れ出てくる警察側の声。
『何かの見間違いでは? とにかく、こんな状況なので、いつ向かえるかわかりませんが、その地下鉄でしたら連絡を受けていますから、只今急行中です。慌てず落ち着いて待っていてください』
「ねぇ、知らずに来たら蜘蛛に……」
ツー、ツーという音が聞こえてくる。
「取り合ってもくれない」
「とりあえず、地下鉄の方から、警察や消防に連絡がいってるってことがわかれば安心だよ」
「でも、ここに来てくれるとは一言も」
「……」
こっちはこっちで解決していくしかないだろう。警察や消防だって、あの蜘蛛をどうすれば殺せるとか、死体のような青い肌の人間を『殺していいのか』『病院に運ぶべきなのか』判断つくのだろうか。人が現れた時、冷静に判断できなければ奴らと同じ目にあってします。警察や消防でもだ。
「とにかく、駅を目指そう」
俺たちはようやく反対車線が見えてくる位置まで帰ってきた。
反対側の車線へ移動すると、俺と水沢さんは再び戻る方向にその線路を歩き始めた。
「ほら、すこし上っているこっちには水たまりはないんじゃない」
「電車を通す穴が、途中で上下に分かれているということか。こっちはここで少し上にあがり、駅近くで下がって同じ高さになるんだね」
「知らないけど、そうなんじゃない」
勾配が終わって、少し水平になったあたりで、変な音がした。
シンシン、という音で、蜘蛛がやってくるときのあの音ではない。
「水沢さん。電車が来るかも」




