(4)
「違う、助けてくれ……」
俺は男が言っている意味が分かった。
男は噛みつかれている。
噛みついているのは、さっきまで天井から吊り下げられていた男だ。
「助けてくれ、この男をやっつけてくれ……」
顔色が見る見る青く、いや毒々しい色に変わっていく。
「助けて……」
俺は首筋に何かが這い上がってくるような寒気を感じながら、噛みついている男の頭を押し戻そうとした。
「ミシュミシュミシュ……」
頭の上に乗っている蜘蛛が、俺に噛みつこうと動き出す。
男を引き剥がす前に、俺は手をひっこめてしまう。
「無理だ……」
「苦しい…… 助けてくれ……」
もう、吊り下げられていた男か、先頭を歩いていた男か、判断できないほど肌の色が変わってしまった。
こいつも助からない。
「離せよ!」
俺は手前にいる男を引きはがした。
バタッと、男が床に倒れる音がした。
俺は連結器のところにある、ドアを閉め、取っ手をぎゅっと抑えた。
倒れた男が立ち上がって連結器のドアから俺を見る。
「助けてくれ、死にたくない!」
男が渾身の力でドアを開けようとする。
俺も全力で抵抗する。
「助けてくれ!」
「もう無理だ、お前、噛まれてる」
「まだ生きているじゃないか! 人殺し!」
連結器のドアのガラスに顔を近づけてくる男の顔を見ていた。
「一瞬開けて、閉じればいいだろ?」
「ダメだ、もうお前は噛まれているんだろ?」
「助けてやれよ!」
後方の座席から立ち上がって男がやってくる。ヒゲをはやした、ワイルドな感じの男だった。
「ほら、どけっ」
ヒゲ男の力で俺は軽くどかされてしまった。
俺が車両の床にしりもちをついている間に、一瞬ドアを開け、男を引っ張り込み、再び閉めた。
「ひっ……」
俺の目の前にさっきまで先頭をを歩いていた男が倒れている。
肌は青いというより、毒が回ったような青色をしていた。俺には、とてもじゃないが、これを人間だと思うことが出来なかった。
「俺を見捨てたな……」
赤の他人だし、とは言えなかった。
「なぜもっと早く助けてくれなかった…… はぁ、はぁ……」
俺は急いで立ち上がって、男との距離を取った。
男はさっき天井から落ちてきた男のように、床の上で『乙』の字を描いていた。
「おい、答えろ…… (バシャ)」
男は口から、体液をぶちまけた。
俺はまた全身の鳥肌が震えた。
男の動きが止まった。
「……」
死んだ。噛まれて毒が回ったように、死んでしまった。
俺は男を触って確かめようともしなかった。死因が毒だったとして、触れて影響がないか分からないからだ。
「もしかして、最初に男に触れた時から……」
もうすでに触れた時から毒に冒されていたのかも。
その時、ドンドン、ドンドン、と音がした。連結器のところのドアから、吊り下げられていた男がこっちにやって来ようとして、ドアを叩いていた。
「すみません、なんか紐とかロープとかありませんか?」
扉を押さえているヒゲの男が座席の方に呼びかける。
低く鈍い音がして、扉が震える。
「じゃあ、代わりに扉抑えてくれ。誰か」
近くに座っていた男が、ヒゲの男の代わりに扉を押さえる。
ビリビリ、とヒゲの男は自分のシャツを歯で裂き、簡単によって縄状にした。
「押さえててくれよ」
と言って、扉の取っ手をしばった。
しばってしまうと、扉はかなり振動するが、開くまではいかないようだった。反対側にいる、頭に蜘蛛の乗せた男の腕力が弱いのだろうか。
前の車両は全滅だとして、俺たちはいつになったら救われるのだろう。
「さて…… これからどうするかな」
ヒゲの男がそう言った。
「どういう意味です?」
俺はヒゲの男にそう言った。
「前の車両があの調子だとすれば、鉄道会社の連中は頼りにならない、ってことだ。そうだろう?」
俺たちの会話を聞こうと、聞き耳を立ていた連中が、赤い蓋を開けて車両の外に出て行くのが見えた。
「あっ…… バカっ」
ヒゲの男が慌てて開けた扉へ駆け寄る。
「何人出てった?」
「四、五人じゃない?」
近くに座っていた男はスマフォを見ながらそう言った。
「外から開けろって言われても開けるなよ」
「そういうけど、もう閉められないぜ」
「ミシュミシュミシュ……」
さっきまで聞こえていた先頭車両方向ではなく、外からその音が聞こえた。
もうこの音はゲームの音ではなく、さっきいた超大型の蜘蛛が発している音、それ以外に思えなくなっていた。音が外から聞こえてくるという事は、車両から外へ出ては危険だ、ということだ。
「うわぁっ、うわぁぁぁぁあ」
「逃げろ、こっちだ」
扉から出てしまった何人かが、外で騒いている声だ。
「車両にっ、車両にもどろう!」
ヒゲの男は解放してしまった扉をグッと押さえていた。
「助けてくれ!」
「もうだめだ。お前らを入れようとすれば、その間に蜘蛛が入り込んでしまう」
「助けてくれ!」
扉を強く手で押さえながら、ヒゲの男は続ける。
「規律を守らないと、全員がやられてしまう。しかたないんだ」
「何がしかたないんだよ、人殺し、助けてくれ!」
「ダメだって言ってるだろう」
車内にいる周囲の人間が、反応した。
「助けてやれよ。助かる人を助けないのは、人殺しと同罪だぞ。殺人幇助だ」
「じゃあ、さっきそこで噛まれて倒れているやつを見殺しにしたこいつが最初だ」
と、俺の方にスマフォの光を向ける。
「えっ、俺が?」
「そこに青くなって倒れているやつ。そいつを助けずに見殺したのお前だろ」
次々に俺に向かって光が当てられる。
眩しくて、周りが見えない。
「お前か」
「お前の指示か」
俺が指示したって? そんなわけないじゃないか。なんでそんなデタラメ……
しかし、俺は顎がガクガクするだけで言葉にできなかった。
ガラっ、と扉が開く音がする。
ヒゲの男が押さえている扉ではない方が開いたようだった。
「ほら、早く登れ!」
声を聞いてか、俺に向かっていた光がその扉に照らされる。
車外から引き上げられる乗客。
いや、まて、肌が…… もうその人は……
「ミシュミシュミシュ……」
赤く光る複数の目。
俺は慌てて、反対側の扉を開放する。
「水沢さん、ここは危ない、逃げよう!」
蜘蛛が中に入ってしまったら、閉塞された空間にいるのは危険だ。俺は水沢さんの手を引いてから先に扉を降りた。
「ほら、こっち」
水沢さんが車内の床に腰をおろしてから、ゆっくり降りてくるのを抱きとめた。
降りたら、元の駅の方向に走る。
車掌が先頭車両方向へ行ってトラブルに巻き込まれているなら、この車両の先頭方向でなにかがあったに違いない。俺はそう判断していた。だから、出発した方の駅に戻っていくのがいいはず、なのだ。
非常用の光がところどころ点いていて、道は完全な暗闇ではなかった。
走りながら、時折、身を屈めて車両の下を通って蜘蛛がこちら側に近づいていないかを確認しながら、車両の脇を進む。
俺もあまり運動をしている方ではないが、水沢さんはもう息を切らせている。
「ねぇ、もっとゆっくり走って……」
「けど水沢さん、蜘蛛に、あの蜘蛛に追いつかれちゃうよ」
「走れない……」
どうしよう。追いつかれたら…… なにか武器、力いっぱい叩ける棒でいい。そんなモノがないだろうか。俺は周囲を探した。
しかし、整理されている地下鉄の中で、そんなものは見つかるはずもなかった。
走れないならせめて早歩きで、と思い俺は水沢さんを引っ張るようにして早歩きした。