(11)
「あっ!」
天井。天井に引き上げられ、蜘蛛に運ばれた、ということか。
「バグ取りしてよ。バグ取り。プログラマはバグ取り出来るんだろ?」
課長が、自分の頭を指さしながらそう言った。
「!」
「見殺しにしたお前も噛みつかれろ」
俺はレールを使って、佐東が必死に伸ばしてくる手を払った。
課長がさっきから『バグ取りバグ取り』と言っているのは、違う意味があったんだ。
課長が頭を指さして言っているのをみて、やっとわかった。頭の蜘蛛をやっつけてくれ、そういう意味か。
課長、決定的に違うことがあるんです……
「蜘蛛は昆虫じゃない。鋏角亜門と言って違う種類なんです。だからやっつけて、って俺に頼むのはお角違いです」
「何言ってんだ裏切者……」
狭すぎてレールを振り回すスペースがない。後ろに下げて、課長をけん制し、前に突き出して、佐東にぶつける。どれも決定打にはならない。
前、後ろ、前、後ろ、状況を確認する。
徐々に追い詰められていく。どうにかして脱出する方法はないだろうか。俺は課長の方に、サーバー室の入り口があるのを確認する。
佐東が、口から真っ赤な体液を吐き出す。
「逃げようとしてるな…… だが、逃げれないぞ。見殺しにするような薄情な奴を、俺が逃がす訳ないだろう」
俺は佐東の方にレールを突いた。
突いて、突いて、着ているスーツが破けても、何度も突いた。
まるで課長を無視しているように。
「ぐっ…… おっ……」
ミシュミシュミシュ……
後ろから、蜘蛛が動く音が聞こえた。
佐東の方に突いたレールを引き戻す勢いで、課長の顔面を狙う。
「ワっ……」
課長が仰向きに倒れると同時に、蜘蛛が天井に逃げ去る。
今だっ!
俺は課長の脇をすり抜け、課長の顔面の上を飛び越え……
「えっ?」
走ろうとしたその時に、課長のものか、佐東のものか分からないが、床にべっとりと付いた体液で足を滑らせてしまった。
「あっ、あっ……」
足を、足を取られてしまう。
俺は手を突いて床に倒れ、課長の頭のあたりに足が残ってしまった。
課長の手が、俺の足を取ろうと伸びてくる。慌てて足を引いて、課長の頭を踏みつぶすよう蹴りつける。
「待て薄情もの」
佐東が二匹の蜘蛛に吊り下げられて、床から浮いてこっちに移動してくる。
レールを放して立ち上がり、扉に走った。
蜘蛛に吊られる佐東よりも早く扉にたどり着く。
「あれ、開かない」
そうだ、カード。
体を叩きながらIDカードを探り当てる。
そして、扉のカードリーダーに、当てる。
「ピーピピピピ」
「え、エラー?」
そうだ、サーバー室の注意事項。俺は、俺のカードは一番外で操作してないから、ここから出られない。
扉から離れて、課長を殴ったサーバーラックのレールが捨ててある場所へと走った。
蜘蛛を全部潰すか、課長か佐東のカードを奪い取るしか出れない。俺はさっき課長が倒れたあたりで、レールを拾い上げた。
佐東が地面に立って蜘蛛を頭に乗せ、こっちに歩いてくる。
もう一匹の蜘蛛はどこに行った…… 俺は天井を見たがいなかった。おそらく課長を引き上げに行ったんだろう。
「どうしたよ…… 逃げねぇのかよ薄情者」
これだけ激しく体を動かしたのに、部屋は寒かった。サーバールームだから寒いのか、この蜘蛛たちのせいで寒いのかは分からなかった。
俺はレールを佐東に向けて構えた。
もともとのポテンシャルが違うのか、蜘蛛との相性なのか、佐東の方が動きがいい。
佐東と戦うより、課長を潰してカードを奪う方が簡単だろう。しかし、課長からカードを奪う間に佐東にやられてもまずい。佐東を足止めしておいて、課長からカードを奪わなければならない。
ガシャ、ガシャっ、と俺は佐東の足を狙ってレールを叩きつけた。
足が痛ければ、そう簡単に追いつけまい。
「狙いがわるいな。もう観念しろ。噛まれちまえば仲間だ」
「イヤだ。俺はここを抜け出して助かるんだ」
ガシャ、ガシャ、ガシャ、と右足、左足と、交互に狙う。単調な攻撃。
「無駄だよ」
佐東が少しうつむいて、頭上の蜘蛛がこっちから丸見えになった時、俺はレールを振り上げた。
ガンッ、と天井の何かが壊れる音がした。
天井の何かのせいで、レールを振り下ろせなかった。
「こいつ…… 狙ってやがったな」
と言って、頭を指さした。そして佐東の体液で周りまで真っ赤な唇がニヤリ、と笑った。
「ビィー、ビィー、ビィー……」
突然、何かの警告音が鳴り響いた。
続けて機械音声が再生される。
『消火設備が作動します。直ちに退避してください。消火設備が作動します。直ちに避難してください。繰り返します。消火設備が……』
俺はさっき壊した天井の何かを見た。
なにかが壊れている、というだけでよくわからない。壊れたのは…… 火災の感知器だったのだ。
ここはサーバールームの消火設備が作動したら速やかに退避しなければならない。二酸化炭素が充満して火災に対応する。中に残っている人間は二酸化炭素で中枢神経がやられて意識不明になり、死んでしまう。この設備のカウントダウンしているうちに外に出ないと。
「!」
佐東が俺の腕を掴んで、噛みつこうとしてきた。
俺はレールを横にして、佐東の口に押し付けて倒した。
「こいつのカード……」
俺は佐東のカードを奪おうと引っ張る。しかし、首から掛けられている紐が固く、どうしてもとれない。
ミシュミシュミシュ……
蜘蛛がスッと、俺の頭上に降りてくる。
俺は佐東のカードを諦めた。
「バグ取りしてよ、バグ取り」
俺は課長がいるレーンに回り込んだ。
足の先から頭のてっぺんまでじっくりと見る。課長は首からIDカードを下げていなかった。
「バグ取りしてよ……」
俺は言葉を遮って、質問してみた。
「課長…… IDカードは?」
課長の意識が反応したのか、ピクッと、右腕が動いた。俺はその先にポケットがあり、そこから紐が出ているのを見つけた。
「!」
あそこに入れている。あれを奪って……
『消火設備が作動します。直ちに避難してください……』
課長の右側、俺からみて左側に、消火設備が見えた。
あれを止めれば、この二酸化炭素の放出は止められるんじゃないか。いや、まて、人間が二酸化炭素中毒で死ぬように、この蜘蛛もこれで死ぬんじゃないのか? だとしたらやっぱりカードを奪って逃げよう。
俺は、床に手を突いた。
べとべとの体液が、手に絡みつく。
課長が、フラフラと近づいてきたのを確認して、俺は課長の目、課長の頭に向けて手に付いた体液を飛ばした。
「ワっ……」
課長の動きが止まった脇を走り抜けながら、ズボンのポケットのカードを奪う。
課長の背中を見た時、俺は勝利を確信した。
「やったっ!」
もう扉へ走るだけだった。
カードの紐がコイル状に螺旋を描いていて、それが伸びた。
あと少し…… ほんの十数センチ…… そこで、カードの紐は伸びきってしまった。
「なんで……」
俺はカードを両手で持って引っ張る。
課長が目をこすって、飛ばされた体液をぬぐっている。
「課長っ!」
こっち見つけて、襲ってくれば、届く。
「課長っ、こっちだ」
「バグ取りしてよ……」
あろうことか、課長は俺が元いた方に動き出してしまった。
伸びきった紐に引っ張られて俺も奥へ戻ってしまう。
「課長!」
俺は課長の腕を引っ張った。
掴み返されるところを、危うく避け、もう一度カードリーダーへカードを伸ばす。
『消火設備が作動します。消火設備が作動します』
「ピ、ピ、カチャリ」
開いたっ! カードを手放すと、スプリングがもとに戻るように課長の方へカードが戻っていく。
俺は扉を開けて、締めた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
錠が閉まっているにもかかわらず、扉を開けれないように俺はドアノブを握っていた。
消火設備が作動したようで、正面にいた課長が倒れ、乗っていた蜘蛛が必死に天井に上って移動していく。
しかし、どうも動きが鈍い。二酸化炭素が徐々に室内に溜まっていっているに違いない。
その時、ドアに振動があった。
「見殺すのか…… また見殺すのか……」
密閉性が高いのか、そのかすかな声が中から聞こえてきた。
「ピ、ピ、カチャリ」
カードをあてたのか、錠が開いた。
俺は必死に扉を抑えた。
扉の窓に蜘蛛を乗せた佐東の顔が上がってくる。
ガンッ、と頭を扉のガラスに打ちつけてくる。飛び散る体液で、ガラスが真っ赤になる。
何度か佐東が開けようと試みた後、カチャリ、と自動的に鍵がしまった。
「ピー、ピピピピ」
佐東がカードを操作するが、開かない。カードの仕組み上、開けたら一度外に出なければならなかったのに、出なかったからだ。
開くはずがない、と頭では分かっていた。
けれど俺は顔をそむけながら扉を押さえ続けた。