スパゲティ
寒の戻りか、桜も満開だというのに寒い日の朝だった。
私はスパゲッティ・ナポリタンが食べたくなった。それで、鍋に湯を沸かすことにした。水に塩、塩壺の中に塊になっていた千切った親指ほどの大きさの塩を溶かすために、白けた菜箸で混ぜた。鍋の中には小さな泡が立ち、みるみる数を増した。白けた菜箸の作り出した渦を、泡達は、桜がわっと花開くように、赤ん坊が泣きわめくように、銀色の鍋を沸き立ち、ぐるぐると生まれては生まれ、生まれては生まれ。
あなたは、私をまるで、一日の疲れを癒やすための風呂の、ふんだんな湯と、いい匂いのする石けんと、肌あたりの良いスポンジやブラシを使って、丹念に汚れを落として、充分に寛ぎ、柔らかく上気した肌を揉みあげて、満足げに溜め息をついてから、無造作に足で踏み濡らすマットみたいに扱った。
私はあなたに当然のように踏みにじられ、あなたの身体から滴り落ちるものでじめじめと湿って、しわくちゃで脱衣所の隅にうち捨てられ続けてきた。
私は、仕舞い損ねたコートを引っ張り出して羽織ると、家を出た。
私は、今日やっと、あなたを殺すことを決めた。
爛れた春の霞んだ空気に桜が溺れている。
スパゲティ・ナポリタンはとてもおいしかった。誰が作っても、誰と食べても味は変わらない。あなたがいてもいなくても変わらない。
寒い曇り空の下、私は歩く。私に嘘をついたあなたを殺すために。
「あなたといると、世界が輝いて見えた」「世界で一番、あなたのことが大切だ」「生まれてきてくれてありがとう」
お母さん。
数々の美しい言葉は、嘘だからこそ、美しかったというわけではない。私が、これらの言葉を美しいと思いたかっただけなのだ。
もうすぐあなたのもとに辿り着く。私はきっとあなたに最期の質問をするだろう。そして、あなたを殺してしまってから、私はあなたが残した返事を、研ぎ澄まし、己の心臓に突き立てる。あなたが、私の心を殺し続けた嘘よりも深く。