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物狂い  作者: ヤマシモユタカ
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 既に秋は過ぎ、窓の外は冬枯れの態をなしている。流れる川は葉を落とした木の梢の間あいだからはっきりと見え、奥山でもない稽古場の借景には訪れる鹿もないまま、敷かれていた紅葉が土色に崩れている。秋が終わったことを景色までもが突き付けてくるが、私はまだ受け入れられない。


彼女が来ない。

稽古場に、約束の時間の少し前に、あの5m程ずつ離れている木々の三本目の紅い葉々を萌黄の日傘で押し分け、その時に少しだけ窓の中の私を見て、再び傘で顔を隠す、あの女は今日も来ない。

連絡先も不通で、電話もラインもメールも手紙も書いたが、訪れるのは冬の松風ばかりで、今日も外の眺めは針葉の震える様が寒々しい。


既に約束の時間は過ぎている。夜は早く暮れていき東の空は月の世界を広げだしている。逆にしまわれていくあかね色の風呂敷を西に見て、1時間と半分は過ぎたことを悟る。時計を見る気にもならない。もう稽古の時間は終わっているのだ。

そして、今日が一緒に決めていた最後の稽古日だった。


何度も見た。秒針と長針が12時の文字に回るところまで見た。刻々と時を刻まれるのは、もうたくさんだ! 誰が時など定めたのか。元は為政者が、支配権の確立のために暦などというものを押しつけてきたのではないのか。国民主権となって「君が代」の意味すら「国民の時代」となりつつある今、何を空白の王位に義理立てしているのか。否、王をかしずくのをやめて、皆が王の目線をもった結果、万民が国民という王の中に入れてもらうべく、様々な規約を設けてしまったのだ。職に就いていなければ、爪はじき、人が歩く道すら定められ、今日も街角で路頭に迷う人がいる。皆が見ているテレビを見、皆が知っているニュースを知り、皆が知っている人を知らねばならない。そんなことはもうたくさんだ。そう思って能楽師になったのだ。世間から離れた舞台の中に身を置けば、そんな吹けば飛ぶような上っ面の知識を常に得る努力をしなくていい。学んだことは終生役立つ知識に自分の努力を割ける。しかもその道は果てしなく長く、能の確立者の秘伝書「花伝」にすら「人に限りあり、能に限りなし」と書かせるほどのものだ。これほど歩き甲斐のある道はあるだろうか。常緑の松すら、いつかは枯れる。だが、能は人間が人間である限り続く。人間そのものを飾らず、大衆文化のように綺麗ごとを描かずに、秀麗な言葉を紡ぐのが能なのだ。それは短絡に捉えると意味の分からない内容であったり、受け入れがたい結末であったりするが、元は裕福な為政者の層に向けて作ったものが今を生き続けているのだ。その捉え方は時代によって様々だが、古典などというものは、その時代/\の人間に様々な面から解釈してもらえるだけの、幅のある内容のものだけが残ってきている。文化とは木々の葉に同じだ。人間社会の幹から出る枝葉に過ぎない。だが、根からくる養分と水だけでは大きくなれない。生命力が出てこないのだ。葉々のおかげで木も勢いを増し、生い茂っている様こそ、その木の豊かさを顕す。だが、葉は枯れる。枯れて落ちる葉もある。だが枝がしっかりしていれば、厳しい冬の雪を払って葉はまた生い茂る。

そこまで思って、ふと現実に戻る。目の前の松の葉は相も変わらず、緑だ。萌え立つような新緑の勢いはないが、どっしりとした老木の、枝葉は揺らごうと芯の揺れない強さをもっている。

なぜ、ほかの木の葉は落ちてしまったのだろう。なぜ、この松のように冬の訪れに抗ってくれなかったのだろう。常緑の松の枝が、揺らぎ、揺れる。相も変わらず、緑のままで―――。


緑が見える。


松が枝の揺れる隙間に、松とは違う「緑」が見える。

川向うにポツンと佇む小さな「緑」。目を凝らすまでもなく、すぐにわかった。

夏の葉の萌え立つような緑色の、あの綺麗な傘。

顔は見えない。見える距離ではない。でもわかるのだ。

彼女は見ていた。

私を見ていた。

目が合った。

捉えてくれたのだ。

私を捉えてくれたのだ。


気づけば、家を出ていた。雪駄をいつ履いたかも覚えていない。門を出で、松の力強い枝を潜り、心弱い蟋蟀こほろぎの鳴く石橋いしばしへ向かう。橋の中程に細い柳の如く佇む傘が見える。

すっかり秋も日も暮れていた。向こう岸の西洋調の街燈の灯がいつぞやの如く彼女を闇に浮かび上がらせる。萌黄の和傘の光影が彼女の明後日へと向いた顔に冬の緑を差している。


「待たせましたか」

私の掛けた声に、今、初めて気づいたかのようにこちらを向いた彼女は一瞬だけ、顔を綻ばせそうになったのがわかった。しかし、思い直すかのように口を一文字にする。


「それはもう」

怒を含めて言い放ってくる彼女の顔は無表情だ。女性の怒っている顔だ。しかし、喜色の混じる声に私は幾ばくかの安堵を覚える。


「いつから?」

確信に近い妄想を、事実に変えるべく私は尋ねる。


「あなたとの約束の間はずっと・・・・。なかなか面白い見物みものでした」

私が見ていたのは、いつも彼女の現れる木陰の幹の葉が落ちていく様と、時計の長針と秒針と短針だった。しかし、彼女はずっと私の前に居て、私だけを見ていたらしい。

「日の暮れるのが早いこの時期は、日の優しさだけが唯一の温もりで・・・。それでも気づいてくれないから、心地よい好意を振り切って傘を差したんですよ」

暦が冬を告げても、冬の訪れは風と草木が決める。秋が終わって木の葉が落ちたから、彼女を見つけることができた。

「みんな、そう。誰にでも優しくする人は駄目。すぐに傍から離れていく。自分の居たい時にしかいない」

女の声が橋を渡した岸と岸の間を、振り子の様に跳ねて行き交う。私の脳にだけ木霊の様に響いて、私に囁きかけてくる。

「あなたはどう? 私のそばに居たい?」

彼女の表情は笑っている。彼女の声音が冗談と告げている。でも、目は「あのとき」と同じく、真剣だった。今ならわかる。瞳に映っているのは、間違いなく私だった。醜く歪んだ、私の「人に知られたくない姿」だ。


「傍に居たい」

女の顔がゆたりと笑う。狂気を隠すことなく、それ故に美しい女の微笑み。


「だから、貴女とは死ねない」


吊り上がった口の端が固まる。彼女の瞳の中の私が揺れている。果てしない道の真ん中に一人、誰かに抱きしめてもらいたいと泣き顔になっている私だ。


「俺は道を進みたい。辛くても前に行きたい」


女は声を出さず、顔の表情は固まったまま崩れない。だが、私は彼女を見ている。瞳に彼女を映している。同じく大きな道の片隅で捨てられて、歩くのをやめてしまった女の姿だ。


「君を連れて進みたい」

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