鯛焼き
物すさましい、とは晩秋の為の言葉である。凄まじいというのは、今は程度の甚だしさを表すが、それがいつからかは知らない。能に出てくるのは「荒ましい」だ。
同じような言葉で違うのは「物凄い」である。これは超然たる大自然の中の侘び寂びである。閑寂の中に何かが潜んでいる、それが「物凄い」なのだ。
対して、「物すさましい」は歓楽の後の哀情である。居た者が居なくなって残される者の心象である。
では、と思考の海から浮かび上がって外の世界に意識を戻す。今、私がいるのは、稽古場から川をさかのぼって歩いてそれなりに遠いところにある茶店の縁側で、隣にいるのは彼女だ。
さて、その目の前に広がる光景を言葉で表すなら、間違いなく「物すさましい」だろう。秋風吹き荒み、水辺の蘆がなびいて揺れる。草木黄落して既に葉の残り少なく、鳥伴って帰る空の日影は優しい。光跳ねる川の流れは止まらず、季節は冬を迎えようとしている。
しかし、隣の女は間違いなく「物凄い」である。
縁側に腰掛けて鯛焼きを頬張る女の口は小さく、口元を汚す一つまみのさくら餡がかえって彩りを添えている。この店の、薄い皮に見事に描かれた鯛の鱗は一つ一つが油の所為か光沢を放つ様で、その眼は港で釣り糸を引っ張るクロダイの、生き死にを賭けたギョロ目と同じような力を蓄え、尾に至ってはその生命力を見せつけるような反り方を以て勢いを見せつけている。それを漁師町の猫のように難なく咥える女の、ぱたぱたと何気なく振る足の色足袋は淡い萌黄で、浅黄の裏地の前裾がはだけて垣間見える足首より上の柔肌を、薄桃色の襦袢が撫でる様から、私は幾度も目を離そうと試みる。揃えたはずの草履は主の足袋が当たる度に行儀を悪くし、前の道を通る見知らぬ人に好奇の視線を送られるのも流石に気に食わない。
ついに意を決して女に顔を向けた。
「どうしました」
こちらが声を発する前に、女が先手を取る。問いかけてくる彼女と目が合った途端、あの目の奥の何かに心臓を鷲掴みにされる。
言葉に詰まって何も言い返せない。
なだらかな蛾眉山、鯛焼きの油に光る唇、日の光に慣れていない白肌、風が梳る柳の髪。
そして、目。
天然の化粧に包まれながら、それら上辺では覆い隠せない超然として細い何かに、私は畏怖を感じる。あの時、私は彼女に何を言ったのだろう。私は彼女に何を言われたのだろう。
「・・・・何が潜んでいるのか、と思いまして」
「潜む? あの川辺の茂みですか」
見当違いの返事を返して、女は即座にとてとて、と茂みに向かう。
慌てて追おうとするが、忘れ物をしたことに気付く。懐から財布を出して、鯛焼き代を支払い、振り返って目に映り込むのは艶めかしい女の姿だ。
川辺の水の輝きが女性の凹凸を際立たせている所為なのか、彼女の少し見える踝を露芝が濡らしている所為なのか、彼女の烏羽玉の黒い目が私を捉えている所為なのか、わからない。わからないが、私は夢中で彼女の下へ向かう。
彼女の側に居たい。今、居なければならない。
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
「それは・・・・駆け寄らなければいけない気がして」
「あら、殿方が追っかけてくれるのなら、逃げた方がいいのかしら」
相も変わらずころころ笑う女は、どうして可愛らしいものか。
女の笑い声は、男と体を重ねた時の漏れる声を工夫したものらしい。男が女の笑顔に惑わされるのも無理はないというものだ。
ふと、彼女の持っているものに目が行く。
「鯛焼き、皮だけ残したんですか」
彼女の持っているのは鯛焼きの皮の片側だけである。一匹の鯛が餡も裏もなく、張りぼてにされている。
「食べている内に嫌いになりまして」
「嫌い? 食べてる途中でですか」
「ええ。だって、まるで生きているようなんですもの」
そう言って私の目の前にかざされた皮は、未だ綺麗な鯛のまま、その役割を終えている。
「始めは勿体ないと思ったんです。そう思って、片皮だけ食べて、ふとこの鯛と目があって・・・・」
「鯛焼きの目、ですか」
「ええ。目が合って、なんていうんでしょう・・・まるで自分が映っているような気がして」
「鯛焼きの目に、ですか」
「ええ。」
女は滑るように言葉を続ける。
その声は既に私に向けてでなく、どこか遠い、ここからではとても見えない、山奥の川水の湧き出るところへ言葉を向けているような、そんな様子だった。
私ではない、それがたまらなく嫌だった。
「なにを生きている振りしてるんだって思うと―――」
「気に入りませんね」
気づけば、否定してしまっていた。
女に好かれるのは、実に単純だ。相手の言葉への助言も、打開策も、状況を改善するほうへのアドバイスは、無駄だ。信じてやればいい。女の言うことを全て信じて受け入れて、同意する、それだけでいい。
もっともそれが出来ないのが大半の男なのだが。
「――― なぜそんなことを言うんです」
女のほうは、驚いている。目の奥が揺らぎ、涙さえ浮かべそうな様子だ。
だが、その口は、きゅっと引き結ばれている。果物ナイフや刺身包丁を両手で持って問い詰めるような、そんな冷ややかな声を突き付けてくる。
「さあ、なぜでしょう・・・・しかし、今の話を聞いていてそう思ったんです」
「それでは、私が嫌いなのですか」
「どうして、そうなるんです」
「私の言葉を気に入らないと言ったじゃないですか。あなたならわかってくれると思ったのに」
何を言われているかわからない。女は気まぐれで勝手だ。
ただ対処法はある。謝れば済むのだ。怒る女に論議は意味をなさない。今この場で謝罪し、自分の気持ちが女と同化していることを形だけでも取り繕う。それだけで丸く収まる。
しかし、生物として、男はそれが出来ないようになっているのだ。そんなことをし続ければ、いずれその男女は破綻する。男は突然、「疲れた」と言って女に別れを告げる。そんなことになりたくないから、本音を曲げられないのだ。
そして、女が男を理解する日は来ない。
「私が嫌いなんでしょう! なぜ、はっきりそう言えないんです」
「いや、そんなことは。むしろ・・・・いや ―――いや、だからこそ、貴女の口からそんな言葉が出てくるのが気に入らない」
「どうして? なぜです」
本当にそうだ。どうして、たかが鯛焼きの皮をかばって、こんな気まずい雰囲気にしてしまったのか、わからない。
わからないが、今この人を受け入れてはいけない。受け入れられない。
会ってから片時の暇も惜しんで見続けている彼女の瞳に映るものが、あの時は私であって私でないようで、その姿がとてもおぞましかったのだ。