会者定離
あの霜月の夜から、しばらくも経たぬ稽古の日。稽古場に朗々とした女の声が響く。
夕べの嵐 朝の雲。いづれか思ひの端ならぬ――
舞台横の机を挟み、私と彼女は向合せになっている。但し、向こうは目をつむり、こちらは彼女の後ろ向こう、窓の外の景色に目をやっている。
淋しき夜半の鐘の音。鶏籠の山に響きつつ。暁けなんとして別れを催し――
2階から見える借景は、秋の過ぎ去る様を顕し、過保護で執着心の強い枝からついぞ逃れた紅葉が瞬きの自由を謳歌している。近くという程ではない寺から諸行無常の鐘の声が、幽かに届く。
昔の日本人は無常を口にするとき、飛花落葉といったそうだ。紅葉もやがては、川に落ちて流れに呑まれるのだろう。
せめて閨洩る月だにも。暫し枕に残らずして。また独り寝になりぬるぞや――
目をつむる彼女の顔は、正直別人のように見える。あの眼が、どこを見ているかわからないあの眼が有るか無いかでここまで違うものかと、つい考えてしまう。
この女の謡う顔はまこと不思議なもので、通常、謡というのは目を開け真っ直ぐの姿勢になって謡う。つまり謡うことに対し、余計な気構えや要素を除いた自然体で謡わなければならない。これが原則だ。
但し、能という芸能は本を見ない。その能の謡、舞台の進行、囃子の手組、全てを頭の中に入れて熟成させていないと、能は完成しないという前提があるのだ。ところが、皆が皆、一度覚えた事は二度と忘れない頭をしているわけでなく、舞台上の予定外の出来事に集中力を乱されずに謡えるわけではない。
謡とはそう、中身の少なくなったソースのチューブを細い穴から絞り出す感覚に似ている。相当な力を以って中身をひねり出すのだが、その着地位置と量の加減には、技量と経験、集中力が欠かせないわけだ。勿論、記憶という中身が多ければ、ずいぶん違うのだが。
つまり、何が言いたいかというと謡を捻り出すのに集中するあまり目をつぶってしまう人もいるということである。
そう言った人の大抵は、眉間にしわを寄せて「謡考えてます」という顔をするものだが、彼女の場合は違う。一言で表すならば、寝顔である。普段、会話をしている時より、遠くに見える百日紅の側を通って稽古場に向かい私の居る窓を見る時より、近く髪の一本一本すら見逃さない程の距離に居ても別の次元の何かに目を向けている時より、見るからに穏やかなのだ。まるで、現世一切のしがらみを脱して紫雲を待つ人の如く、または母親の存在に完璧たる安心を覚えて眠る赤子の如く、この女はそういった安らかな顔で朗々と謡う。その声は謡の似合う低い地に着いた声でなく、西洋音楽に推奨されるような女性の嫋やかな声である。あの一片残る紅葉のように吹けば飛んでしまいそうなお嬢さんの声であり、とてもお世辞にも上手とは言い難く、技術に関しては言わずもがなだ。だが、これも『花』である。
夕暮れの秋風、嵐 山颪 野分もあの松をこそは訪づるれん。我が待つ人よりの音信をいつ聞かまし――
世阿弥の提唱する芸の花とは、深く読めば言葉を尽くして一冊の本を書くこともできるが、実際は至極単純である。つまりは誰かが見て良いと思う芸のことだ。但し、その花にも階層、即ち芸位があって、目指すべきを『まことの花』と称して、人生に於けるその時節ごとの花を咲かせながら、芸の花が尽きないように魅力のある舞台を勤めよ、というただそれだけの事なのだ。
今、その、およそ650年前の巌の如き理想念を頭に浮かべながら、目の前の女の声を聞く。節もまともに読めず、耳で覚えて謡う女の声に一切の技巧は無く、全て模倣とセンスのみで謡っている。それがかえって心地よいと感じるのは、彼女だからなのか、私だからなのかはわからない。何事も人にはわからぬものだ。わからないことをわかったように考えて、結局はわからぬまま生きていくのが賢しい愚か者である。なお、わからぬことをわからぬと諦めて生きていくのは正しい愚か者である。私は正しさを捨てても、賢くありたい。
「―――先生?」
ふっと声を掛けられていることに気が付く。
「どうしたんです、ぼーっとして。お腹でも空きましたか」
笑いながらこちらを見る女の目はいつも通りだ。出来ることなら、鼻と鼻が触れ合う程の距離で、あの目の奥に何が居るのか覗き込みたい。
「いやぁ、聞き惚れていました」
「あら、お上手。眠たかったんでしょ」
いたずらな声とは裏腹に彼女の表情は微々ながらも不満を表す。どうも本気ではないにせよ、彼女にとっては幾分か快くない聞き方だったらしい。冗談交じりに刃を突き立ててくる。
「いやいや。仮に眠くなっていたとしても、それは貴女が上手になったことに他なりませんよ。下手な謡は寝れませんから」
能というのは因果なもので、科学的な検証の結果、謡の声、楽器の音色、能から発せられる音は皆、α波を出しているそうだ。つまり上手ければ上手いほど心地よく眠れるという、困った舞台芸術なのだ。
「それ褒めてるんですか」
「いえいえ、眠れなかったので未だ/\だということです。でも心地よかったですよ」
落として上げる。人との会話は引きすぎては親近感が沸かず、押しすぎては好印象を持たれにくい。常に強弱と減り張りのバランスで、やり取りに起伏を持たせなければならない。会話に限らず面白いものというのは、常に計算と経験による自然の上に成り立っているのだ。
しかし彼女はというと半眼でこちらをじっと見つめている。どうにも居心地が悪い。話題を変えねばならない。
「班女、謡ってみてどうでしたか。なかなか良い謡でしょう」
能『班女』は、結婚の約束をするも、すれ違ってしまった女性と貴公子が約束の形見の扇に依って再びめぐり合う、という如何にも王道な恋愛物語に一見見える。だが実際は内容の殆どが、捨てられたと思った女が物狂いとなって都で男への恨み辛みを舞にして見せる場面であり、男はそれをずっと見ているという、中々男性の立場として厳しい能である。
だが、前漢の宮妃「班婕妤」の秋扇の漢詩を踏まえ、夏が過ぎれば「飽き」がきて捨てられる扇と自分を重ねる女性の心境は、見事に秋の荒んでいく情景と一体化しており、それを耳あたりの良い旋律で奏でるこの謡は名曲に入るのでは、と勝手に思っている。
「そうですね・・・。なんとなく気になる所があるのですが」
「珍しいですね。どこですか」
「『よしや思えばこれもげに。逢うは別れなるべし』――この子、男に捨てられたと思ってるんですよね。何故、これで納得できるんです?」
この言葉は班女のクセの最後だ。男の必ず迎えに来るという言葉を信じて待っていた女が夏過ぎ秋が来て、嘘だったのかと望みも絶えていくところを舞と共に語る部分だが、最後に女は『世をも人をも恨むまじ』と言う。その理由がこれなのだ。
「会者定離の教えですね。感覚とでもいいましょうか」
「えしゃじょうり、ですか」
「ええ。逢う者は定めて離れる運命にある。極めて当たり前のことを拡大解釈したものです」
「当たり前なのですか」
「そりゃそうでしょう。家族、友人、会社、学校、習い事、あらゆる所に人との接点があるのが社会ですし、生まれた時から普通の人は皆、組織に組み込まれることを宿命づけられていますが、結局のところ私たちは個人でしょう。アメーバのように合体できない以上、誰かと究極のところで一つにはなれない。つまり、どれだけ一緒に居ても必ず死に別れが待っている」
人間だけに限らず、個を自らが認識しているのなら、間違いなく出会いは別れと共にある。目にする雲の形に一瞬とて同じ姿は無く、草を踏むことすら草との縁である。すれ違いも死に別れも大きな「別れ」の中にある。
「心中する人もいるじゃないですか」
「それは自然なことですか」
「それは・・・」
「彼らはね、心中する人たちっていうのは反抗者なんですよ。自然の理を考える時、人の死は孤独にしかならない。一緒に死のう、なんてのは自分を確立できない者、他人の個を認めない者の断末魔か、自然である別離の理に逆らう者の末路でしかないんです」
理に抗うのは無駄だ。物が下に落ちるのも、人が老いるのも、浮気が家庭をつぶすのも、人が優劣で区別されるのも皆、道理なのだ。物を上に浮かし続けるには、多くの資源と労力、エネルギーが必要だし、一回に女が産める子の父親は一人だけ。女が男に執着するのも自然であり、男が生まれてくる子の父を気にするのも当然なのだ。個を無視して優劣が評価に含まれなくなった社会で働く意欲を保てる者は多くなく、人が一人で死ぬことを受け入れられないから、王の葬式に人身御供でたくさんの奴隷を捧げるなどということが起きる。
不自然なことを望めば、不必要な厄介ごとが増え、その割に結果が見合っているかというと微妙である。やりたいことを成し遂げた本人はすがすがしい気分かもしれないが、道理から外れたことが永遠に続く例はない。
だが、女はまだ納得できないらしい。これだから女は困る。
「自然に逆らうのはおかしいんですか」
「おかしいでしょうね。世の中の流れに抗った先には、孤立か死しかない。ひとりは寂しいでしょう」
その時、女の顔が一気に崩れた。破顔とはよく言ったもので、まるで可笑しなものでも見たかのように、狂ったように笑い出したのだ。正直、私には何が起こったのかわからず、しばらくして少し不機嫌になった。何だか馬鹿にされた気がしたのだ。
聞きただそうと声を発しかけた、その時、笑う顔を袖で隠していた彼女がこちらに顔を向けた。
「さみしいの?――――なら、わたしと死んでくれますか」
突然だった。
余りにも突然で、自然でまっすぐな言葉に私は一瞬、頭が真っ白になる。
何を言われたのか、わからない。だが、私の知らない私のどこかに、彼女が手を置いたような、そんな感覚だった。その感覚は初めてであり、どこか懐かしくて恐ろしく、しかし犬が急所の腹を撫でられる様な、猫が三味線の皮を考える主人の膝の上に眠るような、そんな至福の心地よさだった。
何とか理性を奮い立たせて、彼女を見る。途端、再び心臓が動かなくなる。
彼女の声、表情を見れば冗談だというのは一目瞭然だ。
だというのに目だ、目が私を捉えている。
はっきりと。
焦点を定めて私を見ている。
私に向かってはっきりと言葉を投げかけている。それが、この女との今までの取りとめのない上辺だけをさらさらと流れる会話の中で、初めて現実の重さを持たせるものだったのだ。
「冗談です」
微笑を浮かめる彼女の顔が目に焼付く。既に目はいつもの目だ。そこに私は映っていない。だが、私の目にはもう彼女しか映っていなかった。
班女:能の演目。遊女が行きずりの貴族と結婚の約束をし、証しとして男から同じ夕顔の描かれた扇を渡される。その扇を眺めたまま貴族の帰りを待って客を取らなくなった為、遊女の宿を追い出され、そのまま都へ向かう。暫くして宿を訪れた男は、遊女が追い出されたことを聞き、仕方なく都に向かうと、班女と徒名される遊女の姿を見つける。遊女は形見の扇を大事にしつつも、男に騙されたのだと嘆き、悲しみを狂いに変じて舞を舞う。夕暮れになる頃、男が遊女に自分の扇を見せ、遊女は男と結ばれる。
中国の班婕妤は、前漢の成帝の寵愛を受けるも後に冷遇される。自らを団扇にたとえ、夏に好まれても秋になればしまわれてしまう、という故事を踏まえ、形見の扇に執着する遊女を班女と徒名した。