落葉
銀杏が散るばかりとなって歩道を真っ黄色に仕立てあげた。にも関わらず、未だ落ち葉の雨のやむ気配はない。何が目的なのだろうか。
「四季の移り変わりに理由を求めているのは先生だけですよ」
隣を歩く女が答にもなっていない答えを述べる。私が思わず不満を顔に出してしまうのを、この女は如何にも楽しそうに笑うのだった。
今日は能楽堂からの帰りである。先刻の公演を一人で観に来た彼女が帰りを送って行けとせがんだのだ。
能楽師の若手に基本、家路につくことを決める権利はない。装束の片付け、作り物の分解、それらが終わった後でも諸先輩方による自主宴席を断ることは難しい。しかし、今日の催しは他家のものであったので、幾分かは自由がきいた。何より公演が終わって既に40分は経っている。その中を待つと言っている女を無碍にはできない。
付き合いの悪い奴だ、という視線を振り切って一礼し、表に出ると既に空は闇に覆われていた。ぽつぽつと点く街灯の灯は淡く、その下に立ついつもの定まらぬ目をした彼女の影は儚い。珍しく洋服であるが、髪は後頭部下で束ねて流し、翼元結の様な白い飾りの付いた紐で結わえている。眉毛辺りで切りそろえた短い前髪の、一本/\が小さな額の上で風に浮かれて微かに乱れ揺れている、その蛍火よりも繊細な光の粒子に私は見とれて立ち止まっていた。一切の思考も世のしがらみも忘れて、その光を纏う彼女を見ていた。
やがて彼女の方が私に気付き、あの目がこちらを捉えた途端、私の胸中に高鳴りが走った。遠くからでも彼女が控えめに透き透った笑顔をしているのがわかる。私にはわかる。
長く外で待たせた女にその様な顔をされては、男として立つ瀬がない。むしろ軽く罵ってくれた方が、罪悪感がなくていいものを。だが、こちらの気遣いはどこ吹く風、折から何処ともなく吹いてきた風が、灯火に透けて濃紺にも見える黒髪を穂の香に芳し靡かせている。
それから他愛ない先程の舞台の話等をしているうちに、先の言葉に行き当たるのだった。
確かに自然の流れの意志を測るなど、人間の思考の歴史の中で最も愚かな行為かもしれない。日は進み、月は歩む。その流れは上から下に落ちる雨の様なもので、決して止まることも逆さになることもない。だが、大きな道路に面した銀杏並木に沿う歩道を埋め尽くす、霜で張り付いた黄色い葉々を踏んで、思わず秋を惜しむ奥山の鹿の気分に浸りたくなったのだ。
水を差された私の様子に、まだしも笑っている彼女に向かって笹やかな仕返しを試みる。
「貴女だって、初めて会った時に同じことを言ってました」
「人間、誰だって時に抗いたくなることがあるんです。だって時間の流れはせっかちでしょう」
確かに、と頷きたくなるようなことをこの女は言うのだ。してやられたようで、やはり悔しい。
女の言葉が続く。
「前ばっかり見て、後ろは振り返ろうともしない。たまには後ろ向きに戻ってくれたって良いじゃないですか」
「それはまた、無茶な願いですね」
まず、私個人として困る。仮に時間が巻戻ったら、もうすぐ能楽史が事実上700年になろうとしているのが、また遠のいてしまうではないか。地味に能楽師のどんぶり勘定による「700年前に能楽はできました」という主張は恥ずかしいのだ。
すると、今度は彼女の方が少し不満気な口元をする。
「先生は時を遡りたいと思ったことは無いんですか」
「ありませんね。時間が巻戻ったらせっかく覚えた謡と知識と技術を、もう一度稽古して手に入れなきゃならないじゃないですか」
それだけは絶対に嫌である。型の技術一つ、謡の一節だけでも日々研鑽の毎日なのだ。時間がゆっくり流れてくれるのは大歓迎だが、歩みを戻すなど断じて認められない。
「貴女は戻りたいんですか」
唐突な質問だったわけでは無いと思う。ごくごく自然な流れで尋ねたはずなのに、いつもはさらりと返す彼女が黙ってしまった。
気まずい沈黙に横目で彼女の様子を窺う。
相も変わらず雨も日差しも降っていないのに、最早恒例の萌黄の和傘を持ち歩いている。
黒毛の長い尻尾が左右に揺れる。目はこちらを見ず、向きは前だが、いつものどこを見ているかわからない目である。
「ええ。もどれるのなら」
暫くの後、彼女が答えた。私には返す言葉がなかった。