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物狂い  作者: ヤマシモユタカ
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物狂い

霜月。稽古を始めて2か月が過ぎた。

紅葉がふるって落ち始め、美しい錦を地面に広げている。その中を今日も女は歩いてくる。夏でもないのに綺麗な萌黄で染めた蛇ノ目の和傘を差す変わり者は、いつもの如く門の手前で傘から顔を覗かせる。お互いわかりきったように目を合わし、女は笑う顔を隠すように傘で遮る。勿論、私がにやけたりすることはない。


彼女について色々わかったことがある。まず、彼女の記憶力は尋常ではない。次これを稽古すると言ったら、一冊まるごと謡を覚えてきてしまうのだ。本人曰く写真のように記憶に焼き付けることができるらしい。もっとも、詞章以外は節が読めないので不思議なことになるのだが。


「大したものです」

それでも心底、感嘆して口にする。自分にその記憶力があれば、夜通し本を睨んで謡を覚えなくてすむ。しかし今、眼前にたたずむ女は私の褒め言葉を歯牙にもかけない。


「別に珍しいことないですよ。大体200人に1人くらいの確率でいるんです」

「1000人規模の学校に5人しか居ないじゃないですか」

「能楽堂でのお客さんで1公演あたり2~3人です。そう思えば少ないでしょう」

確かにその通りだ。そんな人は一人だっていてほしくない。この女は口も良く回る。

「能を見せるたびにそんな人が三人も居たら、間違いが怖くて不安で舞台に上がれませんよ」

「嘘ばっかり。間違うのは恥だと思ってる癖に」


事実である。私の様な芸も楽屋働きも未熟な者が唯一、舞台の役に立てるとしたら、せめて謡ぐらい間違わないよう心掛けて当然なのだ。だが、その志も折れることがあることはまだ女には言っていない。


「それでは、この前の『三井寺』は聴いてられなかったのではないですか。申し訳ないことをしました」

実はある会の地謡に出勤したのだが、その時、券を2枚預かっていて、なかば騙すような言い方で母娘でどうぞ、と売りつけたのだ。

「そうですねぇ。これは是非見ておいた方がいい、とか、素晴らしい舞台になる、とか誰かさんからの前評判の割にはって感じでしたけど」


実際、演者は悪くなかった。囃子もワキも地謡も役者を揃えていた。だが、肝心のシテが謡を間違い倒したのだ。歳だから仕方がない、というのは究極のところ事実であるが、結局のところ言い訳にしかならない。


「でも、お話は悪くなかったですよ。要は母親が、失踪した幼子を探す為に物狂いになるんですよね」

能『三井寺』は狂女物の中でも少し変わっている。他の能は息子や恋人の為に気が触れるのに対して、『三井寺』の母親はあえて狂人の振りをすることで群衆の中で目立って我が子に見つけてもらおうとするように見えるのだ。

「気の狂った人にしては、えらく理知的だとは思ってたんです」

「いえいえ、狂人と物狂いは厳密には違いましてね。物狂いってのは、本当はまるで気が触れたかのように見せて芸を行う人の事らしく、能ではそこを本当に気が触れて元の優雅さが出て芸に繋がる、みたいな人物像で描くんです」

能の指す狂人とは、ただ気のふれた人ではない。一つの「もの」を想うあまり、周りからは狂ったように見えるのだ。


「人間、皆何かに思い入れることがあるでしょう。その思い入れが強くなりすぎて周りが見えなくなる、その人にとっては当たり前の世界が、他の人から見ればずれている。これが物狂いなんです」

ある意味、物狂いに近い存在の女の目は今、こちらを向いている。私の言葉に目の焦点を定め、結果的に私の顔を見ることになっている。

以前のような見るからに暗い雰囲気は今、彼女にはない。淡い桃色の縮緬に、朱で柄が入った白襟を見せ、袂から少し覗かせる白襦袢は彼女が女であることを私に認識させる。なにより、表情が違う。以前のように原則、表情が読めないのは変わらない。だが、時折笑顔を綻ばせるようになり、今では、稽古に来る度にころころと笑うのが当たり前になってしまった。

但し、たまにその笑い方は何かを含む。


「なるほど。だから『これは物には狂わぬものを』となるんですね」

彼女のにこりとした笑顔に、嫌な予感を覚える。

「ええ。『物に狂うも別れゆえ。逢うときは何しに狂い候べき―――」

「『これは正しき我が子にて候』。 なんて言ってましたっけ、ここの詞」

「・・・・『我が子は正しき我が子にて候』。やっぱり目立ちましたか、あの間違い」


彼女はくすりと笑って答える。

「もちろん。わたし聞いたことも忘れませんから」


地謡:能における合唱隊のこと。能の根幹であり、大概の能の謡の大半は地謡が占める。場面展開を始め、風景描写や心理描写など第三者視点から役本人の言葉まで様々な内容が含まれる。


三井寺:能の演目。居なくなった子の行方を夢の告げに見た母親は、狂人の如くなって滋賀の三井寺を尋ね、月見をしている人々の中で鐘を撞く。咎める僧に教養を以て言葉を返し、語っているうちに、その僧の下へ身を寄せていた子が母だと気づき、二人は家路につく。物狂い能で女が物狂いになるのは、狂うそぶりをすることで旅の中での女性としての危機を回避する目的があるとされ、三井寺の場合は鐘によって親子が再開する、という趣旨の能なので、物狂いのふりをしている女性、と解釈することがある。

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