能 面
2話目です。
今回は補足なし。
[ 能面 ]
その日も雨だった。
稽古場である二階から彼女がこちらに向かってくるのを見つめる。
落ち着いていて明るい萌黄の傘を差して浅黄色の着流しで歩いてくる姿は前時代の写真から抜き出したような絵面である。
紅葉が雨に打たれて落ちる。
ひらひらと一片舞って萌黄地に紅い模様を付ける。
ふと傘が上がって目が合った。気付いていたらしい。こちらがどきりとするのも向こうには関係があるようで、ないようで、再び傘を戻して顔が見えなくなる。
(笑われたか)
門をくぐる女を見ながら、私は顎に手をやり、口元を覆う。
動揺したままでは、きっと傘で顔を隠す瞬間にしたであろう女の含み笑いに勝てる気がしない。私は彼女にとって師である。威厳が無ければならない。
階段を上がってくる音がする。もうすぐ扉が開き彼女の顔と再びまみえる。動揺を抑えなければ。
「失礼します」
入ってきた女は、この前と同じで無表情だった。
先程とはうって変わって、相も変わらず印象が暗い。
遠くから見た彼女の様子は周りの背景に対し浮かび上がるかのごとく映えていたのに、今目の前にいる女は後ろの白い無機質な壁紙と共に描かれてるかのようだ。
そのくせ妙な立体感があるのは、身に纏った薄絹単重の透かしが全身の白い襦袢を浮かび上がらせるせいでも、風に飛ばされた雨露に少し濡れた黒髪が頬やうなじに張り付いているせいでもなく、きっとその何とも言えない眼の所為だと考える。
こんにちは、どうぞ、とあいさつを交わして、彼女は私の前の椅子に腰かける。初心者本の上巻を鞄から出して机の上に置く。初めての稽古なのに既に謡本を持ってきていることにこっそり驚いていると、彼女から声が掛かった。
「始まる前に――――質問をよろしいでしょうか」
なんでしょう、と気さくに答えるが、心のうちは不安という意味で穏やかではない。なにせ表情、というより感情が読めないのだ。
だいたい、この前来たときは、まったく興味がない素振りだったのにいきなり笑い出して、そのまま帰ったと思ったら、夜に本人から直接の電話で稽古に来ると言う。
そうして今日、対峙してみれば今度は必要最低限のコミュニケーションはとるが、それ以上は特にない。特にない、というより、まったくそれ以外が感じられないのだ。
彼女の目は暗い。暗い中に何かがある。これは能面と同じだ。面を掛けた能楽師の目は外からは見えない。だが、壁掛けの面と演者の掛ける面とでは明確な差がある。それは奥の見えない、しかし確実に何かが潜む目なのだ。
「能楽って何ですか」
さすがに予想外であった。この女は何をするかも知らずに稽古すると決意したらしい。
確かに今までにも、稽古を始められる方が、わたし全然無教養で、と前振りを置いて説明を催促することはあった。だが、ここまでストレートに単刀直入にバッサリと言ってのけたのは、この女が初めてかもしれない。
しかし、答えられる質問であることに私は少しばかり安堵する。身構えた甲斐もなかったと警戒心を緩めながら、体験教室などで用いる常套文句を頭の中で紡ぐ。
「能というのはですね、約七百年前から続く舞台芸能です。大きな特徴としては能面・能装束を用いることや、元が神仏への奉納するものなので宗教的な感覚が強いとか―――」
「いや、そういったことは知っています」
すぱっと遮られて、私は顔面の表情が口を開けたまま固まるのを感じる。
なんだというのだ、知ってるなら、なぜ訊くのか、不平不満は心の底の水にざざんと波を立てている。しかし、彼女が投げかけてきた次の言葉は、そんな荒立ちをざぱんと叩き消すような大石だった。
「あなたの能楽は何ですか」
この衝撃は私に一瞬の思考停止を招いた。考えてもみてほしい、何を考えているかわからない人に突然、哲学的な質問をされた先生の状況を。もはや疑問が言葉にも形にもならず頭の中に充満するような、気持ち悪い感覚である。
そんな私に気づいたのか気づいていないのか、彼女の言葉は続く。
「能が室町ごろに出来た能面を使う伝統芸能であることは、誰だって習います。わたしがあなたに尋ねているのは、あなたがわたしに何を教えてくれるか、っていうことです」
なるほど、何となく理解した。彼女が知りたいのは私であるらしい。
そういうことならば、と改めて彼女の目を見据える。
「能が何かって―――――能は『能』ですよ」
ふざけているわけではない。至極、真面目に言っている。
能というのは、世俗の言葉を借りて表すと『伝統芸能』だとか『舞台芸術』だとかいう。だが、ここではっきりさせておかなかければならないのは、『能』という存在を言い表すことができる言葉は『能』しかない、ということだ。
「能ってのは、辞書なんかでは総合芸術なんて書かれてますが、まぁその通りでとにかく色々含んでるんです。それが何百年の間に調和して洗練されて、今もなお変化している、生き続けているものなんです」
能には「型付」というものがある。それには能を演じる時の動作が書いてあり、冒頭か末尾に何年に誰々の型付を写した、とか習った、とか記されている。では実際にその通りにするかというと、稽古の際にその型付け通りに師の前でやってみせて、大体はその場で師に「今はこうしている」や「工夫でこうした方がいい」と教えを受ける。そして、私たちは自分の謡本にその教えを書き、何年誰々にこう習った、その型でこの時に役を勤めた、と記す。今日の舞台は、そういった能楽師の工夫の上に形作られている。
「まず表面には日本の古典を踏まえて、和歌と漢詩を紡いで言葉を形作っています。それがすごく綺麗なんです」
能の元になるものを世阿弥は「種」と表した。この種となるのは、「古事記」「日本書記」の神々から「源氏物語」や「平家物語」の人々、或いは「古今集」や「伊勢物語」の和歌、または白楽天や蘇東坡の漢詩、つまりは日本という国土が能の出来るまでに育んだ、日本の歴史・文学そのものなのだ。
「それでいて深いところには禅的な思想があって、神に対しての敬意と畏れがあって、それを水波の隔てだといって一つにします。昔から神様も仏様も人間からすれば、同じく有り難いものなんです」
神と仏は水と波の如くで、名前や見え方が違うに過ぎない。中世の、実に自然な宗教の融合は、信仰の形として自然だ。一方で神仙のものでさえ終わりはある。ましてや人間であれば言うまでもない。
「作りでいえば、心をのせる謡としての音楽があって、それを助けてくれる囃子があって、そういうのに乗っかって体が動いていく舞があって、そういうのを内側に取って気が凝縮されていく型があって、それを助けてくれる能面や装束があって――――」
能の展開進行は、謡、つまり言葉によって行われる。言葉で表せない世界を囃子が作る。そういう世界を彩るために舞や型がある。それらを肉付けするために、能面を掛けて人格を添える。
「―――でも結局伝えたいのは人間って何かってことだと思います」
しかし、根本のところにあるのは結局心だ。人間から見た誰か。それは人間かもしれないし、人間でないかもしれないし、人間を超えるものかもしれないし、人間に劣るものかもしれない。だが、面の中に居るのは人間なのだ。
「様々な役を演じて、或いはそれに触れて能を考える。それは人間を考えるということで、人間としての生き方を考える、明日どう生きようか考える機会をくれる。それが能です」
気が付けば、ずいぶんな長広舌をふるってしまった。
言い終えてから恥らいの感情が針の如く身を刺してくる。私は何を熱くなってまくしたてているのか、その後悔の念に沈んでいたが、おや、と彼女の異変に気づく。
その顔は一見先ほどと変わらない。変わらないのだが、どこか感情がにじんでいるようで、観察して数秒の後ようやく彼女が微笑んでいることに気づいた。
彼女の顔は能面に同じである。
一見表情が変わらない、固まっているように見えて、しかし、ふっと笑うのだ。表情が出る。それは日常、目にするような人間同士の意思伝達、関係保持、身の保全のために行う表情筋をふんだんに使った卑しい表情ではなく、自然で他人を一切顧みない、彼女自身の世界の為だけにある笑みだ。
その圧倒的な孤高の塔の高さは、能舞台と見所程もあり、舞台から漏れ出づる物語の中の彼女に触れたようで私は内心唖然とし、しかしおくびにも出さず、平静を保って彼女と時間を過ごした。