三話
この一週間、時間の疾きこと風の如く、惺さんに構えなくて徐かなること林の如く、多忙が侵掠すること火の如く、ラボから動かざること山の如し――なんてね。少しばかり歴史をかじってみました。
只今、午前一時四十三分。肩凝った。背中も痛い。連日残業。辞めようかな……と思ったけど、振り向いたら惺さんの姿が目に入った。どうやら彼女も今日は残業のようだ。とりあえず辞職は保留にしておこう。
ラボ内はしんと静かで、嬉しいことに僕と惺さんの二人だけだ。
「惺さーん。一緒に一息つきませんか? コーヒー奢りますよ」
「仕事中なのが見てわからない?」
画面から顔も離さずに、文字を入力しながら惺さんはけんもほろろに断る。
「あ、そこスペル違いますよ」
そう指摘すると、惺さんの指がぴたりと止まる。
「ほらほら、休憩も取らないとかえって効率が悪くなりますよ」
言って僕が微笑むと、彼女は面白くなさそうに顔を顰める。
「……紅茶。コーヒーより紅茶の方が好き」
拗ねたような言い草は、本当に子供のようだ。
* *
各階に設けられた小さな休憩所。そこの大きな窓からは輝く星が見える。
「不思議ですよねぇ。この空中都市って最初はただの子供のおもちゃだったらしいですよ。それが段々改良されてここまでになったとか」
「そう……」
壁際に並べられた椅子に僕たちは腰を下ろしている。飲料を飲み終えても立ち上がらず、こうして肩を並べて座ったままでいる。彼女はどこかぼんやりとしていて、いつもより元気が無いように見えた。
暫しの間、静寂が流れる。
仄暗い空間。オレンジの灯りが頼りなく上から僕らを照らす。
ふと、惺さんが身体をずらしてそっぽを向いた。
「どうしたの?」
「別に……何でも、ない――」
答える声は少し上擦っている。
「――惺」
「呼び捨て……!」
小さくしゃくり上げながらの非難。
長い沈黙。――後、きまりが悪そうに惺は顔をそむけたまま、ぽつりとぽつりと話し始めた。
「時々、物凄い不安の波が来るの。考えないようにしても、絶対に駄目。頭の中が勝手にそれで埋まっていくの」
両手で目元を覆って惺はうな垂れる。
「怖いんだ?」
「……怖い」と彼女は呟いた。
「自分の死期を知って、その死を待つ時間がどれほど怖いか……。あと十四年、十年、五年と迫って来る。――そしたら、私はどうなるの。母体は無いのよ。嬰児となったその後はどうなるの。」
惺は背中を丸めてより縮こまる。
「透明なケースの中で醜態を晒すなんて……考えたくも無いのに頭をよぎってしまう。気持ち悪くて、吐き気がする」
「……惺」
僕はここに来るまで映像と文字でしか惺の事を知らなかった。そこから僕は彼女の凛とした姿や気高さ、自信といったものを感じ得ていた。
けれども、その人が今、身体を小さくして蹲り弱々しくある。それがまた、愛おしい。油断すると笑みが零れそうになる。
「でもさ、それだけじゃないような気がする。惺の恐怖は他にもあると思う」
彼女に対する違和感か、それとも期待かを僕は素直に口にする。
うっそりと少しだけ惺は顔を上げた。
「あなた、誰……」
「あ、図星? 当てられて驚いちゃった?」
「ふざけないで!」
怒鳴って、惺は僕の胸倉に掴みかかる。
「どうしてそういう事を言うの。私の何を知っているの。あなたはいったい誰、誰なのよ! さっさと質問に答えなさい」
「佐伯侑祁、性別男、独身……」
「名前……本当に?」
そう訊いてきた惺の目に、どこかすがりつくような色があるのを見た気がした。
「そうだね一応、本当の名前」
「兄弟は、いるの?」
「どうだろう、僕ひとりかな。あとは親の知るところ」
僕の襟元を掴んだままの惺の手を握る。
「何? 僕以外の人が良かった?」
「……わからない」
あれま。わからない、と。そんな半端な答え僕は望んでいないよ。
「それなら、研究の足しに実験台になってあげようか?」
僕が言うと、惺は絶句した様子だ。
「だって、これでしょ。もう一つの怖いこと。酷いワーカホリックだね」
「あなたの、せいでもあるわ」
僕の? 記憶にないなァ。
「でも、もう無理だわ。私には不老長寿の完成は果たせない」
ごめんなさい、と惺は消え入りそうなくらいで呟いた。
いったい誰に謝るの。
「一人寂しく死んでいくのね」と言うから、寂しいのかと訊けばまた「……わからない」
「なら、僕が決めるよ。僕が一緒にいてあげる」
「あなたはもう、いないわ」
可笑しな返事。僕はここにいるのに。
「じゃあ、惺も一緒にいなくなる? 研究も諦めちゃったし、このまま退化して死ぬのも嫌なんでしょ?」
惺は無言で、伏していた目を完全に瞼で隠した。
「どうせなら賭けでもしようか。惺の実験台になってさ、生きるか死ぬかの」
僕の提案に、彼女は静かに答えた。
「悪趣味」
おっしゃる通りで。
「しかも死ぬだなんて、何の目的でひとがここで働いてきたのか忘れたのかしら。失礼な男」
「それはほら、言葉のア・ヤ」
小さく、だが深い溜め息が聞こえた。
「――で、それはどちらが勝ちになるのかしら」
文句をいいながらも話に乗ってくれた惺に、僕は笑って返す。
「惺のみぞ知る――かな」
* *
白いシーツをかけただけの簡素な冷たいベッド。その上に僕は乗った。
惺が僕の腕を取って、細い針を皮膚に刺す。ちくりと痛く、液体が流れ込むのがわかる。――惺が見つけた仙薬。
「……何、にやにや笑っているの」
「あれ、僕笑ってました?」
惺が僕の頭を可笑しくする。彼女に出会わなければ、彼女がこんな数奇な運命に遭っていなければ、僕は普通の恋心を持ったままだったろう。
自然の摂理に反した、惺。彼女の存在が僕を狂わせる。
ねぇ、気付いてる?
「変態」
「変態って、アハハ、またですか。先輩にも変態扱いされましたよ。僕ってそんなに変態っぽいですか?」
「そうね。どちらかといえば」
と惺は淡々と答えたが、本気でそう言ったのか、彼女の頬はぴくりとも上がらない。でも思えば、彼女の喜楽から生まれた笑顔を見たことが無い。
「ねぇ惺、惺の笑った顔見たいな」
「……昔、笑っていたから、もう充分」
あら、つれない。昔は笑っていたと言うのに今は笑ってくれない。彼女を笑わせた人に嫉妬してしまいそうだ。
段々と僕の身体は重くなっていく。目蓋を開けるのも辛くなってきた。
「横になってなさい」
そう言った惺の声は暗い。
ぼやける視界でも、惺の顔が近づくのがわかった。耳元で彼女が囁く。それが最後だっだ。
「ちっぽけな賭けの勝利を祈ってて――」
* *
――意識が、戻った。
どうやら僕は生きているようだ。身体はだるいが、毎朝の目覚めの時と同じ。ゆっくりと起き上がってみる。周りには誰もいない。
僕は惺と同じように一度死んで人生を折り返したのかもしれないし、成功してこのまま長生きできる身体になったのかもしれない。――なのに、どちらでもない事が僕にはわかった。
惺、君は――。
「僕には、打たなかったね」
そして、自分だけが打った。
床に惺が着ていた服と割れた注射器が落ちている。服はボタンが留められたまま、チャックが引かれたまま。
のんきに寝ていた僕には惺がどうなったかなんて知らない。どうして僕には薬を打ってくれなかったんだ。それが惺の優しさだったのか。
甘かった。彼女を先にするべきだった。
「酷いなァ、惺は。これじゃあ僕、賭けに参加すらしてないじゃんか」
僕はベッドから下りた。床に膝をつき、惺の服を握り締める。
「惺は勝ったのかな、負けたのかな」
考えて、あっと声を上げた。
「これも失恋した事になるのかなァ、やっぱ」
それから堪えきれなくなって、欠伸を一つ零した。