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季節のささやき。1

作者: 千桐久遠

ふわり、と柔らかな風を感じた。冬が訪れつつあるこの街では、自然には存在しないもの。おかげで、自分の傍らに寄りそう女の子が振り向いたことが分かった。

「元木先輩、寒いです」

人の行き交う往来の最中。ベージュ色のコートに身を包んだ小柄な体が、隣の青年に半歩近づいた。二人の距離は、先輩と後輩のものから、友達以上恋人未満の『幼馴染』の距離に変わる。

「とっても寒いです」

「そりゃーもう冬だし、杏子わりと薄着だし」

傍目には同じくらい防寒に気を使っていない格好の元木が口にすると、隣を歩く彼女――宮城杏子が反応を示した。

「俺があたためてやる、くらい言えないんですかねー」

「なんでそういう方向になるんだ。彼氏でも作って聞かせてもらえば」

元木は動じることなく、呆れたような口ぶりで返す。彼氏でも作れ、と聞いて、酸っぱいものをたんまり口に詰め込まれたような表情を幼馴染は浮かべた。

「こっちこそです。12月と言えばクリスマスですよー。勇史くんは、今年も一人なんですかねえ」

「クリスマスなんぞ知るか。今年は人類破滅の年だぞー」

「マヤ文明の暦がなんたら、ってやつでしたか」

ちょこっと小首をかしげて、杏子は大きな目を瞬かせた。

「世界が滅びるのは、ちょっと嫌ですね」

「そうか?」

「現状はそこまで嫌いじゃありませんしねー。それにクリスマスがなくなっちゃいますから。困りますね、女の子的に」

常々、リアル充実している連中など爆発してしまえと思っている元木は、うーん、と唸る。

「そんな大事かあ?」

「大事なんです」

力を込めて断言し、次いで杏子は目的地に着いたことを腕を引っ張って元木に知らせた。

「さ、せっかく勇史くん連れてきたんだし、一着くらい選んでもらおうっと」

「あ、そこのビルか。てか俺荷物持ちだったんじゃあ……」


それは深秋の休日、澄んだ高い空を望むことができる昼下がりのこと。人波にまぎれて、駅前のブティックの中に二人は吸い込まれていった。


――――――――――――


遥か北方より、この国に真冬の大気が流れ込む季節、12月の第二週。一つの年の終わりが近づいても、大学の喧騒は通常営業であった。元木の通う大学は、世間的には優秀な人材が集まる大学として認知されている。しかし、授業の合間に駄弁っていることといったら、当世の冴えない学生たちの生々しさがにじみ出ていて、目も当てられないレベルであった。

「世間の連中と来たらクリスマスクリスマスと浮かれやがって」

「いつか爆破してやる」

「爆破しなくたって、マヤ文明的にまとめて崩壊してくれねーかな」

「はははリア充どもほろびろー」

独り身のクリスマスがほぼ確定している男どものテンションの低さときたら、マイナスに振り切れて逆に活性化しているまでに来ている。このままやっかみにまみれた生産性のない会話が続くかと思った矢先のこと。

すぐ脇から、コツ、とブーツが床を叩く音が聞こえた。

「あんたらさ、春からずっとそんなんばっかじゃない」

長い黒髪がその身を縁どる、女性としては長身の影から、腰をおろしていた元木たちの頭上から涼やかな声が降ってくる。

「うるさいバンドで忙しいんだ」

「うるさい国際法で忙しいんだ」

「私たち理工学部生じゃなかった?」

ふう、とあきれた顔でため息をついて、彼女――小森紗月は、本題を付け足した。

「次の講義教室変更だって」

「お、そかそかサンキュー小森さん」

「どういたしまして」

言うだけ言うと、さっさとその場を去ってしまった。

「クールだなあ。てか元木小森さんと仲いいの?」

「特別そういうわけでは……」

千人からの学生が居るこの学部で、彼女をどこで知り合ったのだったか。そういえばあまり気にしたこともなかった、と小さな疑問を胸に抱えつつ、廊下に面した教室の後方に紗月を探してみる。

背の高い彼女を、集団の中から識別するのは難しいことではなく――その姿を認めた時、元木の方をちょうど振り返ったように見えた。


「小森さんとかなかなかアリだと思うんだけどなー」

これはチャラっぽいけれど割と真面目な男、吉田の言である。

元木の目から見ても、紗月が美人であるという評価を下すのはやぶさかではない。

「俺も結構好き。黒髪ロングだし黒ストだし。でもちょっと冷たいかなー」

紗月の怜悧な美貌は、元木には余り好印象には映らない。

「注文つけられる立場かよお前……、ってそういえば」

「なんだ」

「おれ前に聞いたんだけど。元木、おまえには大変仲のよろしい幼馴染がいるという噂」

「黙秘権を行使する」

妙な勘ぐりを入れられないように、大学で公言したことはなかった。どこが発信源かと高速で推理をめぐらした結果、学部の違う高校の同期どもの顔が浮かぶ――世の中、秘密にしておきたい物事ほどこうも漏れるものであろうか。

「噂というか俺見ちゃったんだよねー。モテない男代表、リア充起爆技師・元木勇史が皆を裏切ってかわいい女の子を歩いているのを」

「黙秘権を……」

「皆にいっちゃおうかなー」

「おいやめろ」

元木が冗談ではなく本気で狼狽した表情になってしまったところで、吉田がにたりと微笑む。

「かかったな元木。うわー、まじかよこのご時世に幼馴染と仲良くお出かけかよー」

「ち、かまかけかい。いいか杏子はただの幼馴染であってだな」

「うわ呼び捨てー」

元木の事前の想定通り、実にしつこい吉田の相手をしていると、次の授業が始まりを告げるチャイムが鳴り、なんだかんだ真面目な二人は姿勢を正すのであった。


元木勇史にとって、宮城杏子というのは、悪い言葉かもしれないがただの幼馴染なのだ。家も近いから朝に夕に顔を合わせるし、駅や電車では話し込むし、たまに買い物に誘われたり小中の同級生と飲みとかあれば仲好く参加したりする、だけのこと。

そんな浮ついた関係ではない。町中に、自分と杏子が並んだ姿を想像して見よう。そして、世の中のリア充実している人々の仲間に見えるかと自問してみればよい。

幼馴染が居ることで多少優越感はあるものの、二人の関係はきらびやかで甘い世界とは程遠いものがあると元木は断言できた。


――――――――――――

数日経って、冷え込みが少し厳しくなったある日の午後。

駅から少し歩いて、住宅街との境界に差しかかるあたりに、ケーキが評判の喫茶店がある。フランス語の洒落た店名が刻んである窓の際、元木の『幼馴染』こと宮城杏子と小森紗月の姿があった。

「紗月ちゃーん、どうしよー」

「どうしよう、っていってもねえ。私は、元木君にときめきみたいなものは感じないから」

紗月と杏子は、同じ高校の先輩後輩であった。ちょっと相談、と仲のいい後輩から呼ばれて、紗月が足を運んだのは高校時代から行きつけのお店。

「元木くん、いいところもいっぱいあるよ」

「ふーん」

紗月が淡白であることもあるけれど、元木とは同じ学科であるというだけで、そこまで関わりがあるわけではない。

「紗月ちゃんでも恋愛関係は難しいかっ。やっぱわたし達女子高出だしねー」

「それ言われるとどうしようもないんだけど」

一学年上の紗月に対しても、杏子はフラットに接してくれる。

「杏子と元木の深ーい関係はこれまで聞いてきたけれど」

家は100mと離れていない。幼稚園から中学まで一緒。本人曰く、大学に入ってもなお、ときどき買い物付き合ったり小学校時代からの友人を加えて集まったりするくらいには繋がっている、という典型的な腐れ縁であるという。

「好きになってしまったのなら、直接言ってみればいいじゃない」

「それが簡単にできないのが、幼馴染という複雑怪奇な関係なのですよ」

杏子はそう言って、はい、と自分が食べていたケーキの皿を差し出してきた。季節感を反映したブッシュドノエルが、半分ほど削れて鎮座している。

「なあに?」

「一口あげます、紗月ちゃんここ来てもモンブランばっか注文するじゃん」

「だってこの店これが一番おいしいし」

紗月の目前の皿に乗っていたモンブランは、いまや土台のタルト部をわずかに残しているのみであった。

「他のケーキだっておいしいよー」

むっ、と唇を一瞬とがらせた杏子は、フォークに一口分を乗せて、こちらに差しだして……。

「はい」

これは……、あーん、というやつだろうか。素直にもらえばよかったと後悔しつつ、にっこり笑っている杏子をに気圧されるように、紗月は口をあける。

「わ、すごい素直。紗月ちゃんたまにおもしろいよね」

杏子の持つほんわかした雰囲気と似た、やさしいチョコレートの風味が広がる。

「……それは褒めているの?」

「褒めているんです。どうかなこれは」

「おいしいわよ」

「よしよし、残りもあげよう」

紗月も学んだのか、半ばまで欠けたクリスマスの薪を食べ始めた。

杏子の方は話したいことを整理していたらしく、紗月の皿が空になったところで、口火を切った。

「で、本題にもどる。勇史くんとさ、昔はさ、いつも一緒だったんだ。でも、最近どんどん離れていく気がするの」

「幼馴染ってそういうものだと思うけど」

「最近は会っても、お互い忙しいじゃん。挨拶もなしにすれ違うことも増えてきたし。勇史くんと積み上げた関係が、どんどん痩せていって、どんどん薄くなっていくと思うと、たまらなく不安なの」

「そうなの」

紗月は頷いて、杏子の次の言葉を促す。

「わたしが知らない勇史くんが、今はたくさんいるから」

幼稚園から中学まで、一緒だった頃は近すぎて。高校に入ってから今までに、離れて行って。近しい相手に対して自分が思うところというものは、離れた後にこそ浮かび上がる場合もあるのかもしれない。

「ごめんね紗月ちゃん、会う度に勇史くんの大学での様子なんて聞いちゃったりして」

「べつに気にしないでいいわよ。なにかと目立つ人だし」

「そうだよねー。変わってないなーって思うと安心する」

幼馴染と言える人がいない紗月には、その心持ちは分からない。

それでも、杏子が求めているのは明確な後押しである気がした。きっと、ほんの少し踏ん切りがつかないだけ。コーヒーを一口飲んで、杏子を正面から恋愛に向き合わせる言葉を形づくる。

「でも、離れて行ってしまうという不安を元からなくすなら、ちゃんと付き合ってみればいいと思うわ。できれば、幼馴染の関係が終わってしまう前に」

「そっか、それしかないよね……」

杏子がうつむいて考えこむ体勢に入った。

「やっぱ、女の子らしく、そろそろ恋愛の一つや二つ経験しておいてもいいかなーという打算もある」

「そういうものなのかな」

「紗月ちゃんなら大人気でしょ」

「……覚えはある」

「わたしが男だったら絶対声かけるもん」

「嬉しいこといってくれるじゃん、杏子」

「もうよりどりみどりでしょー」

「みんな断ったわよ、飲み会とかみんなでどこか出かけるっていう時は付き合あうけど」

「やっぱりクールだねー。最近では、取り澄ましててハードル高いように見えて、じつはちょろいってのが人気らしいのに」

「そうなの?」


しばらく、仲の良い友達ならよくするような他愛ない会話をして。ふと言葉が途切れた時に、杏子の表情が変わった。

「なんか、紗月ちゃんのおかげで覚悟決まったかも。クリスマスを機にして、いっそ告白してしまおう」

「聞いていただけなんだけど。でも、応援してるから」

紗月の声色からは、杏子を心から案じていることがうかがえる。

「わたし、頑張ってみる」


このままでいいかもしれない。でも、それだと“何となく不安”が湧きあがる。薄れていく二人の関係を、時に砂糖菓子より甘く時にブラックコーヒーより苦い、そういう絆で結び直したい。

別の言葉を使えば、一人の女の子が、一人の男と特別な関係になることを望むということ。それが成った暁には、杏子に何をもたらされるのかは当然として、二人に対し自分がどう思うかさえも、紗月にはまだ分からなかった。



――――――――――――

冬のこの時期には、夕暮れの情趣を楽しむことなど無意味と云うように、沈む日は速きに過ぎる。薄明が夜に侵食されていく中、忍び寄る冷気に地味な色のコートの襟を立て、自宅への帰路を急ぐ元木勇史の姿があった。

「あ、元木せんぱーい、または勇史くん」

「うん?なんだ杏子」

ちょっと来て、とひっぱりこまれたのは、道沿いにある住宅に挟まれた小さな神社の狭い境内。

「寒いし家で作業あるからあんま時間ないぞ」

「それなら、たんとーちょくにゅーに。勇史くん、明日の夜空いています?」

「午後から学生会議があるけど、まあ夜なら」

国際法学生団体だったか、元木が所属している団体の大規模な会議があった。

「はい。この前言ったように、クリスマスは大事な日です。で、今日はイヴイヴなわけです」

なんだよイヴイヴって、と反射的に突っ込もうとした元木だが、杏子がいつになく緊張してる様子でいるのを見て取り、黙ることにした。

む、っと唇を噛んで、構える杏子の真摯なまなざしが、何事も表向きの理屈と冗談で済ましてしまう、元木の

軽佻浮薄な雰囲気を打ち抜いた。

「小さいころから、幼馴染の距離を知っています。ついでに先輩と後輩の距離も知っています。これからは、もっともっと近い距離で、勇史くんの隣に立ってみたい」

ここで一息いれて、決定的な言葉を紡ぐ。

「わたしを、彼女にしてくれますか?」

杏子がかけた言葉の意味を、衝撃で真っ白な頭で考え――、いや、考えるまでもなくそれは。

目の前には、真剣な表情でこちらを見つめる女の子。そして、告白。これまでの元木の世界にとって、まがう方なき異物。どこか遠くの世界の話であるように思えた。

「な、そんなこと、急に言われても……」

「じゃ考えておいてください。明日の6時、隣の駅のカップル御用達待ち合わせモニュメント前で待ってます」

それだけ言うと、杏子はさっさと帰ってしまった。後には、杏子を引き留めようと腕をあげかけた元木が、その姿勢で固まったまま残された。


――――――――――――


「ごめんねー紗月ちゃん、イヴの前夜に電話付き合ってもらっちゃって」

「別にいいわよ、杏子のためなら」

「ふふっ、紗月ちゃんやっぱりたまに面白い」

むむ、何が面白いんだろう、と心の隅に毎度の疑問が浮かぶものの、杏子の電話の用件を慮って紗月は口をつぐんだ。

「告白、してきちゃいました」

「それで、どうなったの」

「どうせすぐには返事はもらえないから、明日聞くことにしたよ」

「その場で返事くらいすればいいのに」

紗月の中では、元木が『是』の返事をすることは極めて確からしく思えた。なにしろ元木は、世間の恋人たちへの嫉妬を極めて大々的にネタにしている男である。

「勇史くんにそんなかっこいいことできるわけないじゃん」

「……本当に彼のことが好きなの、杏子は」

ひどい言いようであるが、これも幼馴染ならではの辛辣さであろうか。紗月としても否定はできない。

「あ、今頃メールきた。明日もやっぱり何か仕事あるんだってー。6時は厳しいみたい」

「ふーん。さすがにメールで返事するほど野暮じゃないのか」

大学でのあの傍若無人っぷりを発揮するならばそれもありうる、と紗月はひそかに考えた。

「紗月ちゃんも分かってるじゃん。動揺して思いつかないだけだなあ、これは」

「彼のことはよく分かるのね」

「そんなもんだよ」

元木について語るとき、杏子の言葉は明確な根拠を与えられない自信に裏打ちされている。これほどまでに強いつながりを持っているのに、先行きを考えると不安になるのだろうか。

人と人との関係なんて、みんな不確かなものなのに。

「あの勇史くんのことだから、『クリスマスもイヴも予定があっていけない』、なんて言いかねなかったし、まあいいか。……相談聞いてくれて、心配してくれて、ありがとう紗月ちゃん」

「そんな、私は何もしていないのに」

紗月は、もう話は終わりだと思ったけれど。杏子は少し弱くなった声で先をつづけた。

「それとね。これは、なんとなくなんだけど。幸せいっぱいのクリスマスにはならないような気がするから」

好きな男に告白して返事は明日聞く、なんて状況では誰だって心細くなる。弱音が出てくるのも当たり前のことかもしれないけれど、杏子のそれは相手のことをよく知っているから組み立てられる、ある種の論理に基づいた推定のようにも聞こえた。

幼馴染が相手だと、なんとなく、だけれど分かってしまうの?ねえ幼馴染という絆は、それほどまでに強いものなの?紗月は浮かんだ言葉をかき消す。いま、杏子にかけるべき言葉ではないだろうから。

「ま、紗月ちゃんにはデートに行く前に報告するよ」

「うん……」

黙していた紗月に、杏子はこれ以上の言葉を付け加えることはなかった。

「それじゃあねー」

あっさりと電話は切れてしまったのであった。


宮城杏子、と直前の通話者の名前を表示するスマートフォンを机に置く。モノトーンに統一されつつも、いくつかファンシーなぬいぐるみが飾ってある自室で、紗月はベッドに腰掛けた。

「……大丈夫かしら」

二十歳をすぎる年になるまで、色事にあまり興味のなかった紗月の目からみても、元木が恋愛事に向いている男とは思えない。

ふられて傷ついてしまったら?杏子が大切にしている関係が、完膚なきまでに壊れてしまったら?

紗月としては、杏子には傷ついてほしくない。この一点は譲れない。でも、こと惚れたはれたの分野において、第三者であるところの紗月にできることは、絶望的なまでに存在しないことは明白であった。

まもなくクリスマスという日に、他人の恋愛の心配をしているなんて、どこか滑稽かもしれない。しかし、自分を慕ってくれる、大切な後輩のことを案じているのだから、今の紗月にそれを指摘しても意味のないことだろう。

モンブランが好きなのは、はじめてあの店に行った時、杏子に勧められたケーキだから。

紗月の自室のぬいぐるみは、殺風景な部屋を見た杏子が送ってくれたものだから。

超然とした印象を周囲に与えるせいか、同学年に友人の少なかった紗月にとって、杏子と過ごした時は何にも代えがたい時間だった。小森センパイ、が紗月センパイ、に。紗月センパイ、が紗月ちゃん、に。『幼馴染』ほど長い時間を共有したわけでもないけれど。この繋がりもやがては消えてしまうかもしれない、ということを考えると、杏子が不安になる気持ちが少しだけ分かった気がした。

杏子が求めているのは、幼馴染であるところの元木と、もっとずっといい関係でいること。それと、女の子として、恋愛沙汰に関わってみたいということ。どちらも、おそらく紗月には与えることができないものなのに。明日の元木の選択次第では、願いは両方とも叶うかもしれないという。

再び、第三者であることの無力感を感じ、紗月はベッドに倒れこんだ。

今日は、もう寝よう。すべては、明日分かることだ。

「おやすみなさい」

親に声をかけてベッドにもぐりこむ。考えることはたくさんあるけれども、自分の感情さえ把握し切れていないままでは、どうしようもなかった。


――まどろむ寸前、人には取りとめのない思惟が頭をよぎる時間がある。それは、人の脳神経の気まぐれが、突拍子もない夢を形作ることと根を等しくしているもので、普段は表に出ない無意識が表層に浮かび上がっているためかもしれない。

杏子が、一人の男のものになってものいいの?

紗月のなかで、もう一人の自分が発した問いであった。即座に、否定したいという衝動が湧く。

このままだと、遠くにいってしまいそうな杏子をとどめておきたいと、心の隅から誰かが同じように囁く。これを、強く肯定したいと求める自分が居る。しかしそれは、独占欲などという陳腐なものからくるものではなく、どこまでも綺麗で、何者にも侵しがたい感情であった。



――――――――――――


街には今年一番の寒気が落ち込んでいた。クリスマスイヴ当日、西の空に輝いていたわずかばかりの残光が、薄れて消えていく頃。さながら結界のように甘い雰囲気を纏って主張する二人組が沢山うごめいていて、繁華街にほど近い駅前は混雑の様相であった。

駅ビルの三階に入った喫茶店、駅前のロータリーを見渡せる窓際に、紗月は座っている。相談を受けたんだしせめて見届けるべき、と自分を納得させて、杏子を見つめているのであった。

行き交う人波の中で、杏子の小さな背中は頼りなく映り、そのまま埋もれてしまいそうな儚さを纏っていた。


時刻は六時になる。

お気に入りのコートを着て、自分が一番かわいく見えるよう装って。張り切って想い人を待つ姿は、この時間のクリスマスの街であるからこそ溶け込んでいた。約束の時間を過ぎてしばらくすると、冷たいはずのベンチに座り、手を揉んで温めているのが、紗月からもかろうじて分かった。


七時。

紗月が待ちぼうけをくらっているものと勘違いした見知らぬ男が、有名私立大学の名前を添えて声をかけてきた。はっきりと待ち合わせではないと言った上に、さらに紗月の通う大学名を告げて黙らせる。

杏子は、一度携帯電話をとりだしてメールを確認したものの、同じ位置で待っていた。二度、紗月と同じように声をかけられたようだが、きちんと追い返していた。

元木が現れる気配はない。



八時。

一分の経過でさえ長く、長く感じる。クリスマスを華やかに彩るイルミネーションが、孤独に人を待つ杏子を浮き立たせる。喫茶店で粘るためのコーヒーも、もう三杯目。外は、寒いだろう。自分だけが暖房のきいた室内に居ることに、紗月は小さな罪悪感を覚える。

まだ、元木は現れない。



まもなく、九時。

頼りなかった背中は、さらに小さく。まばらに行き来するカップルの中で、一人佇む杏子は世界から切り離されたかのように。想いを告げた相手は、まだ、来ない。杏子がふう、と大きくため息をつき、白く立ち昇った。

人の心の中には、感情を入れておく器のようなものがある。寒空の下にいる大事な友人への同情と気遣い、元木への怒りとこのまま現れないのではという懸念、さながら雪のように、様々なものが器に降り積もる。

なにより、杏子への胸いっぱいの愛しさで。器は、まさに今、許容量を超えて溢れだす。自然に、紗月の体は動いていた。


「……紗月ちゃん、どうして」

「ごめん、ずっとそこにいたの」

杏子は驚いた顔をひっこめる前に、紗月は言を継ぎ、もう一度謝る。

「見てられなかった、ごめん」

早歩きで近づいて、杏子の隣に座った。渦巻く感情の量が多すぎて、言いたいことも伝えたいことも多すぎて。二人とも自分が言うべき言葉を探すための、間隙ができる。

「さっき、もっと遅れるってメールきた。わが幼馴染ながら味気ないよね、全く」

ぽつり、と杏子が現状を告げる。カップルばかりが通り過ぎる中で、一人でみじめな思いをしながらここにいた理由は、ただ人を待っているというもの。

「なんて奴」

紗月の怒りはさらに深化するけれども、冬の夜の寒さが、すぐに頭を冷静にする。

「なんか、近いね」

「今日は、寒いから」

触れ合っている肩に垂れた紗月の長い髪をなぞって、杏子は、ふう、と一息つく。

「なんとなく分かってたんだ。勇史くんはこんなことで自分のペースを変えたりしないよ」

杏子ほどの魅力的な女の子の告白。たとえ本人であっても、卑下するようなものではないと紗月は断言できた。

「仕事なんて言っても、あくまで大学生の自己満足な活動じゃない。よほどのことがない限り、都合がつけられるでしょうに」

日本中の多くの若者が、愛する人のために時間を使っている日の夜に、大事なはずの幼馴染を三時間もすっぽかして。いくら仕事があるとはいっても、時期が時期である。そもそも仕事自体、早めに切り上げたところで生活の糧を失うわけでもない、悪く言えば学生のお遊びの延長という性質であるはずだ。元木が杏子のための努力をした形跡さえない、と判断するになんら抵抗はない。

杏子がその思いの丈を伝えたというのに、何とも思っていないのだろうか。紗月でなくとも、義憤を覚えるのはもっともである。

「仕方ないよ」

「いくらなんでもこんなに待たせるなんて。こんな日に多少早く帰るくらい、わけないことでしょうに」

「それができないのがいいところであり悪いところであり、なんだよね」

やりたいことはやる、行きたい所には行く。自分が満足していれば、頓着しない。他人に何を言われようが、自分の決めたことは覆さない。一方で、そんな欠点の裏側には、やることなすこと全てにひたむきであるという美点がある、という。

「まあ、やっぱり駄目みたいだね」

なんとなく分かるんだ、と続けようとした杏子だけれど、こんな仕打ちをするならば普通は何となくでなくても分かる、ということに気づいて言うのはやめたようだった。言ってしまったら、紗月がもっと怒ってくれるだけだろう。

「これで、おしまいかなあ。恋人になれなくて、離れ離れですれ違ったままなら、幼馴染のままだってよかったのに」

心の弱ったところから、つい零れてしまったような、か細い声だった。杏子に傷ついてほしくないという紗月の願いを成すのならば、親しい人との関係が終わりゆくのをただ傍観するだけしかできないという虚しさから、杏子を救わなければならない。

大好きなあの人と、いつまでもいい関係でいたい、という希望。それを手に入れるにはどうすればよいか、考え抜いた結論を告げる。

「きっと大丈夫よ。後から書きかえるようなことはしなくても、本当に強いつながりは、なかなか切れないから」

杏子より一年だけ長く人生を過ごしている紗月の答えは、これしかない。

先が見えないのは、どんな関係であっても同様だ。人にできるのは、過ごした日々はきっと裏切らない、という自負に、心の在り様を託することだけ。

「信じて、みればいいのかな」

「他人の心は分からないから、それしかできないでしょう」

時間による風化は、誰にでも平等に訪れて、抗うことはできないのかもしれないけれど。信じることを、後押しし、その根拠を与えてくれるものもまた、共に過ごした時間の重さ、愛しさである。

「うん、そうだね……」

と言った直後に、携帯が鳴る。

「もうすぐ、来るって」


携帯が鳴ってから数分、二人は沈黙していた。

元木がやってきて、やっぱり付き合えないという。それなら、杏子を慰めて、励まして。そうだ、断る理由が、幼馴染としてしか見れない、というならばさらに良いかもしれない。しかし、もしも元木が受け入れて、ここに一組のカップルが生まれたとしたら。待ちぼうけをくらわせるような人間が、杏子の彼氏という立場になったとして、彼を許せるのだろうか?

紗月の思考は、ぐるぐると巡っていた。対照的に、杏子はどこまでも落ち付いた様子で、少し先の未来への憂慮や悲壮さは紗月には感じられなかった。

「来たみたい。答えだけ、聞いてみるね」

杏子が立ち上がったので、紗月も隣に立つ。待ち合わせ場所から離れようとしたが、杏子が紗月の手を握って引き留めた。一緒にいて、というメッセージ。

ビルと融合した灰色の駅舎から、まばらに吐き出される人々の中に。急ぎ足でこちらに向かってくる冴えない男の姿が見えた。


――――――――――――

待ち合わせの六時に遅れるかもしれないことは事前に伝えた。そして結局、大学を出れたのは七時半過ぎ。杏子と待ち合わせた駅に着くのは九時をまわるかどうか、というところであった。そのことは道中で伝えたものの、最後に返ってきたメールの内容は、『待ってますから。返事だけは聞かせてください』というものであった。

よく買い物に連れだされた駅前、慣れ親しんだ杏子の姿は、遠目にも即座に見分けられる。寄り添って立っている女の子は、元木にとっては意外な人物であるはずだが、彼にとって彼女が誰であるかを認識する事の優先順位は低い。

二人まで三歩くらいの距離に近づいた元木は、歩みを止めた。


遅れたのは、元木は普段通りの日常を過ごしたせい。結局のところ、自分の生活も奉じる信条も、杏子のために変えることができなかった。元木の足を縛りつけいるものは、そんな自責。

さらに、元木を二人から遠ざけるものがあった。紗月と杏子の姿は、彼が妬んで嫉んで、そして一方で羨ましく思って憧れていた、リアル充実してる人々のものであることであった。自分には縁のない、まぶしくて正面から見ていられないような世界。相対する元木との間の隔絶は、二人に対する斥力としてはたらく。

足は、動かない。すぐに駆け寄ることはできない。息は詰まり、杏子に会ったら口にしようと考えていた言葉は心の遥か底に沈んでいった。

数瞬。その間隙に、元木が杏子のもとに駆け寄って、是にしろ非にしろ返事をする意思を示すことができたなら、一組の幼馴染は別の結末を迎えたのかもしれない。しかし数瞬というのは、長い時を共に過ごしてきた彼女が、元木の表情や止まった脚から、彼の意思を察するには十分な時であった。

金縛りを受けたかのように、元木は杏子を見つめる。

すると、杏子の震える唇が、元木宛の言葉を紡いだ、気がした。

『返事、わかりましたよ、センパイ』


人の歩いていく道の途中には、世界が用意する分岐がある。その人がどの道を選択するかで、先行きは変わる。元木は、おそらく何か選択を間違えてしまったのだ。

明日もそれ以降も。杏子に会うこともあるだろう。彼女との距離は、『最近ちょっと疎遠な幼馴染』のままであるに違いない。一つ確かなことは、何かを考えることもせず、当たり前の距離感の上に安住していただけの元木には、再び杏子と距離を縮めたり、向き合う角度を変えてみたりすることはできないのだ。

――やっぱりクリスマスなんてろくなものじゃない。

「すまん、杏子」

かすれた声で、かろうじて一句の言葉を絞り出すと、元木は背を向けて歩きだす。

冷たい風が彼の体を打つけれど、隣には誰もいなかった。身を震わせることも忘れたような足取りで、彼はその場を去った。


――――――――――――


「これでよかったのかな。でも不思議、なんか失恋したっていう気がしないの」

「でも、泣きそうな顔してるわよ」

「少し、甘えてもいい?」

「もちろん」

再び、二人でベンチに並んで腰掛けた。気温は低く、沁みるような冷気が体を包むけれど。隣にいる人の体温を感じるだけで、なぜか暖かい。

「ちょっと残念かも、彼氏持ちでーすってナンパを断るのやってみたかった」

「そんなこと言わなくても断れるわよ」

「今年もこのまま彼氏いない歴更新かな」

寂しさの抜けない湿った声だけど。杏子は、もう笑うことができた。

一拍おいて、紗月が緊張した面持ちで、大いなる決意を込めて、一つ提案をする。それはもう一つの杏子の希望がかなうかもしれないもの。その重大な提案は、杏子には何でもないことのように聞こえた。

「……それなら、私と新しい関係、作ってみない?」

「どういうこと?」

「彼女持ち、なんていう女の子になるのはどうかなーって」

平時は怜悧と評される紗月の顔は、文字通り初めて恋を知った乙女のように赤い。

「……。え、紗月ちゃんそーゆー人種だったの」

「駄目なら、聞き流してくれると、すごいありがたいけれど」

「うーん……どうしようかな……」


たった一人の相手がいるから、今日は幸せ。彼ら彼女らを優しく包んで、聖夜は更けていく。駅へと歩いていく二人の距離は、以前より一歩だけ近くなっていて。

――それは、恋人のものになっていた。


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