2 追憶、花満開に咲き誇る下で・・・・・・
「はぁ」
目の前の満開の桜を見上げながら、櫻は、その光景に似つかないため息を洩らしていた。
佐久良家の庭園は日の本一と言われるほどに広い。そこでは、四季折々の草花が旬の季節を迎えるたびに彩どいを見せ、城内の者だけではなく、城下の人々の声伝えによって諸国の大名や百姓にいたるまで、
『佐久良の百景色』という異名で知れ渡っている。
その庭園で、一番の名物と言われているのが中央に植えられたこの桜であった。
もともと、佐久良家の領地は桜の名所としても有名な土地である。今時期は、まさに満開の時期で他の所領の大名、武家や町民達、遠くは京の公家たちまでもがお忍びで花見にやってくる。
この桜もちょうど今、満開を迎えていた。80年という高齢の大木で、幹の太さは櫻が三人居て囲っても、周り切らないほどである。
花はこぼれんばかりに咲き乱れ、重くなった枝が櫻姫の目の前までしなっていた。
少し風が吹けば、ちらちらと花弁が舞散り、桜の下に入れば、その空間だけが別世界のように感じられ、日常から隔離されたようだった。
だが、そんな中にいても櫻姫の頭は、桜の美しさよりも別のことでいっぱいになっていた。
「どうすれば……」
目の前に下りてきた花弁を手のひらで受け止めながら、櫻はまた、ため息をつき呟いた。
ここ数日、というよりは婚儀の日から夫の景之の事が頭から離れないのだ。
もちろん、婚儀を終えたばかりの新妻が、夫の事ばかりを考えるのは良いことなのかもしれない。
だが、櫻の顔は新婚の幸せ一杯という新妻の顔ではなく、嫁入り前の娘のように悩んで困ったような眉をしていた。
「やはり、あの時お気に触ったのだろうか……」
また大きなため息がこぼれる。そんな、櫻の頭の中では、あの始まりの日、それは、婚儀を終え最初の夜を迎えた時が何度も繰り返していた。
時は遡ること、婚儀を終えた日の夜。
櫻はため息ばかりついていた宴会の場を、速めに離れる事となっていた。というのも初夜の準備があるからだ。
大広間を退席するため立ちあがった際、櫻は最後にちらりと横の景之の姿を見た時。しかし、彼は何も変わらず、こちらをちらりと見る事もないままに、相変わらず盃を手に持ち飲見続けているだけであった。
その事に、少し落ち込みつつも櫻は小さく退室の旨を呟いてから広間を出たのだ。
だが、侍女に促されるまま自室に戻った櫻は、すぐにそんな気持ちは頭から吹き飛ばされてしまっていた。
自室に戻ると、すでに湯浴みの準備はなされており、侍女達の手によって白無垢を脱がされ、湯浴みに向かえばいつも以上に念入りに体を清められる。
湯から上がれば、城にいる侍女達が総出でいるのではないかという人数に囲まれ、体はいつもより丁寧に拭かれ、これから寝るのだというのに軽く白粉をたたかれた。
髪には椿油を染み込ませ、体には大陸から送られてきたという香油。ちなみに、この香油は後から分かった事だが義伯父から送られた品物だった。
そのあまりの勢いの櫻は尻込みしてしまうほどであった。
そして、ようやく準備が整う頃には櫻は放心している状態だった。
だが、そんな時に今度は乳母が巻物を携えてきた。着かれきった櫻の目の前に差し出された巻物に、きょとんと見つめるしかなかった。
「なんじゃ? それは?」
「これは、今夜お屋形様とお方様が行う夫婦のお勤めが記されている絵巻にございます」
「夫婦の、勤め?」
「はい」
そう言うと、乳母はばっと畳の上に絵巻を広げた。
そこに描かれていたのは今までいた事もない絵だった。だが、櫻の目は生まれて初めて一番大きく目を見開いた。
「きゃあ! な、なんじゃこれは!?」
思わず、はしたないと思われるくらい大声をあげた。
だが、そんな事にも気づく余裕もなく、それ以上絵巻を見ていられなくて急いで目をつぶって袖で顔を隠すしかなかった。
絵巻には男女が描かれていた。
おそらく夫婦なのだろう。とても仲睦まじそうではある。だが、あまりにも仲が睦まじすぎる絵であった。
着物は着ていた。だが、明らかに、二人ともはだけすぎているのだ、普段隠されているべき場所が隠れないほどに。いや、寧ろ見せびらかすように出ていた。
それも一つではなく、何種類も描いている。中には着物を着ていないものまであった。
櫻は自分の顔が熱くなるのが分かった。今まで、男性の、袴も、褌も脱いだ姿なんて絵ですら見たことがない。もちろん、身内である父上や兄達のすら見たことは無いのだ。
混乱する頭の中で、これが男女の違いであったのだと新たな知識が蓄えられていた。
「な、な、な、な、なん!! 」
「お方様。ちゃんと見てください。これが夫婦の初めのお勤めにございます」
「こ、こ、こ、こ、これが!?」
「はい。これは、お世継ぎ、稚児を設ける大切なお勤めにございます」
「こ、これで!?」
「はい。お方様は今夜、というよりこれからずっと。お屋形様とこの勤めをしていただきます。ですから、ちゃんと見てください」
そう言って、動揺する櫻に構わず、乳母という気安さで、無理やり袖を顔から外されて絵巻を見せられてしまう。
目の前に迫った男女の絵姿に、櫻は思わず目を回した。とっさに顔を背けてしまう。だがそんな、様子を許してもらえるわけでもなく、乳母は絵を見せながら淡々と説明を続けていった。
慌てる櫻に、「これは夫婦には当然の仕事である」「これは汚らわしい事でもなんでもない」「けして嫌がらずにお屋形様の言うとおりなさいますよう」などと、切々と説明、というよりも半ば説得させられ続ける。
結局、櫻は頭の整理が付かない放心した状態のまま、床の場へと一人置き去りにされた。
「それでは、お休みなさいませ」
そう言って、乳母が部屋から立ち去ったのはいつのことか。
パタンと襖が静かに閉まり、廊下を立ち去っていく音が遠ざかり、やがて静かになった寝所で櫻はゆっくりと改めて部屋を見回した。
後ろにはめでたい屏風、その前に蒲団が2組並べて敷かれている。
その蒲団の側で座り、そっと手に触れてみた。
日に干されていて、絹を使っているのか手触りは心地よかった。だが、枕が並ぶそのあまりにも生々しい様子に、思わず先ほどの絵巻を思い出してしまう。
仲睦まじく、布団でまぐわう男女。
「こ、これからここで……」
それに自身と景之を重ねてしまう。
その、余りにも恥ずかしい想像に、ぼっと櫻の顔がまた赤く火照った。
だが、同時にすらっと長い腕に導かれ、逞しい胸に寄せられ抱かれるのを夢想する。きっと、力強いに違いない。ぎゅっと抱かれるその感覚を思い浮かべるとなぜか、ぽっと心が弾む思いだった。思わずうっとりと、頬を染める。
しかし、すぐにはっとなった。
「……あっ。私はな、何を考えて」
あまりにも、はしたない想像に頬が再び赤くなる。思わず、恥ずかしすぎて両手で自分の顔を包み身悶えた。
静かな寝所で一人、恥ずかしさに悶える櫻の声だけが響いた。
「何をしておるのだ」
「!?」
突然、自分以外の声が寝所に響いたのはそんな時だった。
櫻は恐る恐る後ろを振り返ると、そこには、凛々しい顔の眉間に先ほどよりも深い皺を寄せ、怪訝な顔でこちらを見ている景之の姿があった。
「あ、あ。も、申し訳ございません」
櫻は慌てて、その場で手を突き頭を下げる。今の様子を見られていたのかと思うと、顔は羞恥で真っ赤になっていった。
少しでも取り戻そうと、あわてて先ほど教えられた、初夜の口上を述べた。
「よ、櫻にございます。ふ、ふつつか者では、ご、ございますが、いっ、一生懸命勤めまする。どうか、幾久しゅう、よ、よろしくお願い申し上げます」
緊張と混乱した状態であったため、だいぶ噛んでしまった。その事にさらに恥ずかしさは増す。
そんな中、じっと景之がこちらを見ているのは分かった。
そう思うと、緊張のあまり心臓がどくどくと早鐘のように鳴り、畳みに付いている手がぶるぶると震えた。とてもじゃないが、今、顔を上げられない。
しばらく、寝所はしんと静まり返った。まるで、時間が止まったかのようだった。
と、どれくらいたったのか。
静寂を包んでいた寝所に、スッと襖が開く音が櫻の耳に届いた。思わずはっとして、顔を上げると景之が襖に手をかけて出て行こうとしていた。
「あ、あの……」
櫻が声をかけると、景之はゆっくりと振り返った。その顔は眉間に皺をよせて、あの広間にいた時よりも怒っているような顔をしていた。
「今日は、ご苦労であった。もう休め」
「えっ、でもっ」
「わしは自室に戻る。お前はここで寝ると良い」
「し、しかし」
「では、また」
そう、まるで配下に言うように、櫻の言葉を遮って景之はさっさと寝所から出て行ってしまった。
一人残された櫻は唖然とした顔で、景之の後姿を見送るしかなかった。
先日の光景を思い出していた櫻の目の前を、また風が吹き、桜の花弁が舞っていた。それを眺めながら櫻は憂鬱そうに何度目になるかも分からないため息をつく。
あの初夜以降、景之が櫻の元へ来る事はなかった。それ所か、日常生活でも領地の勤めが忙しくなったとかで話はおろか、会うことも殆どない状態となっていたのだ。
婚儀の時から、もともと向ける視線は冷たいものではあったが、あの寝所での奇行を見たために、さらに呆れられてしまったのかもしれない。
そんな事を考えながら悶々と弁明も挽回もできない状況に櫻はずっと思い悩み続けていた。
唯一の救いと言えば、周りの侍女や家臣達が櫻の様子に気がついて、なにかと気を使ってくれている事であった。乳母の話だと、家臣達が景之にそれとなく二人で会えるよう取り計らってくれているようなのだ。
だが、そんな家臣たちの気遣いもむなしく、景之は次から次へと仕事をこなしており、成果は芳しくないようだった。
その事を聞かされるたびに、景之から避けられているのだとう事実を突きつけられる。櫻の心はどんどん重くなり、胸は苦しくなるばかりであった。
日々、屋敷の奥方としての務めは果たしている。城の者たちは皆よくしてくれるから、そのあたりの不安は殆どなくなっていた。だが、頭の中ではいつも景之の事がよぎっては、心が苦しくなる頻度は増していた。
ふっと、櫻は満開となった庭の桜をもう一度見上げた。
自身の名前でもあるから、櫻はこの春に咲く儚げな花が一番好きであった。目の前に広がる桜の花はどれもこれもが美しい。特に、今まで見たどんな桜よりもこの庭の桜は素晴らしかった。
風に吹かれて散る花弁がなんとも雅で儚い事か。
その美しさにほんの一時、顔に微笑が浮かぶ。だが、それもすぐに景之の事を思い出し顔は曇っていった。
と、その時であった。
「何をしている」
あの時と同じ声が、後ろから聞こえ櫻ははっと驚いて振り返った。
何日ぶりの事か。そこには、あの時と同じく眉間に皺をよせた景之が此方を見て縁側に立っていた。
※2016年1月24日一部、加筆修正をしました。