序 雪解け後、花、芽吹く前・・・・・・
全ての始まりは青葉の姫が宮参りから領地に帰る途中に、ふと安土に立ち寄った時のことであった。
創建されたばかりだと母から聞いていた安土城。見てみたいと思い立ったのは、ほんの思いつきであった。城の主は母の義兄でもあるので、少し中を見物させてもらえるかもしれない。
しかし、そこで驚くべき事が起こった。あの母の義兄である城の主と急に対面する事となったのだ。
ここ近年で、領土を拡大し天下統一を成し遂げようと世を騒がせている義理の伯父。その勇猛果敢な戦話もさることながら、神や仏も恐れぬ所業の数々のほうが耳に入ってくる。
そのせいか、対面の広間に通されてからも青葉の姫の心中は身内に会うという嬉しさよりも、鬼に差し出される人身御供の心地しかしなかった。
その思いは、目の前で直接対峙した時にはより一層増していった。
上座に座った義理の伯父の視線を、下座で顔を伏せて居た青葉の姫は痛いほどに感じていた。板床に添えている手が震えそうになるのを、無意識にギュッと力を込めて押さえる。
なぜか、この場に同席してる左右に居並ぶ武将達も、心なしか緊張しているのが伝わってくる。
噂に違わぬ、その存在感たるや。
世に人々は、この男を『大うつけ』とかつては呼んでいたと聞いている。だが、今では「覇王」いや、「魔王」と密かに呼ばれている男だ。
「お屋形様。こちらが、櫻姫様にございます」
側にいた武将に紹介された青葉の姫・櫻姫は、より一層顔を伏せた。無意識に震えそうになる唇を必死に押さえ込み、ふっと息を吸い込んでから、ゆっくりと挨拶の口上を述べた。
「お初にお目もじ致します。青葉義勝の娘、櫻に御座います」
「……表を上げよ」
どこか恐ろしい、だが思わず引き寄せられるような低い声に促され、櫻は顔を上げた。
その瞬間、櫻の瞳は真っ先に闇色に射抜かれた。
底知れぬ闇色の瞳。その中に赤く燃える業火が見えた気がした。思わず声が上がりそうになり、寸前でなんとか喉で押さえ込んだ。
かたや、顔を上げた櫻姫の顔を見て周りの武将達からは思わず感嘆のため息が漏れていた。
美しい真っ直ぐな黒髪は鴉の濡れ羽色。その髪から覗く顔は男の拳ほどに小さく、肌は月の光のように透明なほど白い。その中で、頬は春の訪れを喜ぶ花のように染まっている。
あの、絶世の美女と言われる魔王の妹に引けを取らない美しさだった。
だが、ほっそりとした眉の下には、その儚い印象とは違い意志の強い黒い瞳がじっと目の前の義伯父の顔を見つめている。
そのじっと見られていた彼らの主は、向けられる瞳を同じようにじっと見つめ返していた。魔王の名に相応しいその瞳は、大陸にいるという虎が獲物を値踏みするような恐ろしい光を湛えながらも、じっと目の前の櫻姫を見つめていた。
一方、櫻も視線を逸らしたら最後と感じ、じっとそれを受け止め続けていた。しかし、体の中では緊張は高まり続け、思わずゴクリと唾を飲み込んでしまう。
と、それを見た義伯父は口髭をゆっくりと手でなで、何故か面白そうに口角をニヤリと上げた。
「ふふん。わしの顔を真っ向から見るとは……。なかなか、見所がある姫じゃ。まるで、浅井の三の姫のようだな。たしか、ヨウと言ったが、字はどう書く?」
「は、はい。春に咲く『櫻』と書いて、ヨウと読みます」
声が上ずりそうになったが、なんとか体裁を保って櫻は答えた。
「ほう、“櫻”か……」
そう、呟くと義伯父は軽く眼を見開き、何かを考えこむように右手に持っている扇子を膝に打ちつけ始めた。パシン、パシンと打ちつけるたびに部屋に音が鳴り響く。静かな部屋の中で、その音だけがやけに響いていた。
何度目か打ちつけた後、義伯父は突然打ちつけるのを止めて横に居並ぶ武将に目を向けた。
「おい、光秀。たしか、この前、家督を継いだ景継の倅は、たしか、まだ正室を迎えていなかったな」
「はあ、さようで御座いますが……、それがいかがなさいましたか?」
「ふむ……、よし。櫻!」
そう言って、義伯父は一際大きくパシンと膝を打ちつけて立ち上がった。急な行動に、思わずびくりと肩を震わせた櫻に向かって、ずんずんと上座を降りて近づいてくる。周りの武将たちも動揺したようにざわついている。
そうこうしているうちに櫻の目の前にやってきた義伯父は、魔王の名の通りに極悪な笑みを浮かべていた。そして、櫻の目線に合わせるようにしゃがみ込むと、ぐっと顔を近づけた。あまりのことに、息を呑んで櫻は目を見開いたまま義伯父を見つめる。
その、驚いた顔を見て何を満足したのか、義伯父は大層面白いものでも見つけた子供のように再びニヤリと笑った。
「櫻」
「は、はい」
「そなた、嫁に行け!」
「はっ・・・・・・はい?」
これが、櫻の嫁入りが決まった瞬間だった。この時、まだ雪解けが終わる少し前の事である。
※2015年11月3日に一部修正をしました。