タレント2
あみはタレントの卵から一歩一歩階段を掛け上がる。あみ自身の人生はあみが確実に形を作っていくようだ。
その頃近藤はプロテニスプレーヤーとして欧州テニスに行く決心を固めた。
「僕が欧州テニスに行けばそれなりの収穫はあるはずなんだ」
日本で育ちアメリカのテニスキャンプで孵化する近藤のテニス。
だが今は日本でもアメリカでもなしえないものを近藤は欧州に求めていく覚悟であった。
「一口にテニスと言っても様々にある。シングルにダブルス。コートには一人で立つか2人かだけのことではあるが」
ダブルスの得意な近藤。気の合うパートナーをガッチリ求めたら鬼に金棒。
近藤と同じ年齢、そして気の合うエネブをパートナーとしてATPを戦えば勝てると率直に考えた。
「ブルガリアのエネブは決してライバルではない。僕に必要不可欠な存在なんだ」
ダブルスのATPランキングはエネブより近藤が上である。(シングルは逆)
「悔しいがATPのシングルランキングはエネブに敵わない。だがダブルスは僕さ」
近藤はATPのサイトを開示する。エネブにメッセージを送信する。
欧州テニスでペアを組みたい。よろしく。
近藤からのメッセージを受け取るのはブルガリアの若き英雄トーダ・エネブ。
国民からは赤い薔薇の貴公子と呼ばれていた。
ブルガリアのエネブはテニス界の貴公子のひとりとなって活躍をしていた。ブルガリアの若い女性に人気のアスリートの一角を担うハンサムボーイである。
エネブはそのままテニスに邁進をしATPランキングを天馬のごとく駆け上がればよかったのだが。
ブルガリアテニスの貴公子に彼女ができてしまう。この彼女がブルガリアのお茶の間を賑やかすゴシップとなってしまった。
お相手はブルガリアの若く美しい女優さんである。
テニスプレーヤーのエネブはテレビ番組に出演した。ブルガリアテニス協会からの要請であった。
テレビ番組でテニスを披露してもらいたい。
エネブは快諾して出演をする。このゴシップの女優と番組を通して知り合う羽目となった。
女優は学生時代からテニスの愛好家でもあった。彼女の夢は一度でもよいからプロテニスプレーヤーとテニスがやってみたかった。軽い考えでエネブに接近をした。
「私もエネブさまのようにテニスが打てたらいいなあ。よかったらお相手してくれませんかしら」
番組終了後に美しい女優からの申し出がある。エネブは2つ返事をする。
僕でよければ喜んでテニスを教えますよ。
ここから二人の交際は始まった。
将来のあるプロテニスプレーヤー。気品に溢れた人気映画女優との交際である。
かわいい女優は祖国ブルガリアから飛び立ち近くハリウッド映画に出演するのではないかの噂すら囁かれていく。(脇役のロールキャストではあるが)
ブルガリアのビックなカップル誕生にマスコミは黙ってはおかない。ビックな。いやいや名前があるのは女優だけ。エネブはまったく世には知られていない存在だった。
「ゴシップはゴシップだが。エネブってなんだ」
芸能関係の記者たちは女優のゴシップを夢中で追い掛けた。
記者は数々いたが誰ひとりとしてテニスのエネブを知らなかった。無理もない。ブルガリアはサッカー王国である。
「ブルガリアでテニスやってるやつ?ヘェ〜ブルガリアにはテニスがあったのか。エネブ?そんなにも有名なのか。またあの女優のゴシップ記事専門(あて馬)じゃあないのか。どうせならばテニスよりサッカー選手に鞍替えしてくれないか。雑誌が売れないからさ」
女優の男(本命)を隠すためにエネブという"無名なテニスプレーヤー"を当て馬に出せばマスコミの目を眩ますことができた。
「あの女優からして格下はあまり相手にならないさ。遊びでおしまいさ」
そのエネブが舞い上がった女優はどんなブルガリア女性か。
身分はソフィアの旧・貴族階級の出身。家系を辿ればフランス皇帝に行きつくらしい。性格としては我が儘放題。やりたい放題。花よ蝶よっと育てられた典型的なお嬢様であった。いや貴族階級がブルガリアに今も存続すれば姫君プリンセスである。ブルガリア版のマリーアントワーネットとも思われても不思議ではなかった。
女優の可愛らしさは折り紙つきである。エネブはこの女優が幼くして芸能界デビューを果たしたことを知っている。
いや単に知ってるだけでなくエネブ自身が可愛く微笑む彼女のファンであった。
「デビューした時から可愛いなあっと思っていた。憧れる女優だった」
エネブが憧れる姫君の女優はデビュー以来恋多き女で浮き名を流す。
美人の宝庫ブルガリア芸能界で有名であった。映画やテレビ番組で共演する男性とはかなりの率で恋の噂となる。
恋をしやすい女優の方に問題があるのか周りの男性がチヤホヤするのか。
週刊誌やテレビのワイドショーはこの女優の名前さえ出せば人気である。発行部数は伸び視聴率はアップした。
「テニスのエネブって誰だい。ヘェ始めて見たぜ」
有名な女優としてはショボい格のエネブであった。
「たぶんエネブは(女優の)単なる遊び相手でジエンドさ。そんなことより次は(有名なところで)英国の王子を頼みたいぜ。あっそうだフランスのサルコジ大統領の息子なんか格好のゴシップだぜ。あの女優にリクエストしたい」
女優のゴシップを書く芸能記者たち。テレビを見るお茶の間の視聴者たち。いずれもエネブの失恋を予測していく。エネブはこの女優には相応しい役者ではなかったと見られた。
「だってハリウッド映画にいくような女優が(無名のテニスプレーヤーに夢中にはならない)」
英国ウィンブルドン大会にも出たことのないエネブに気まぐれな女優が本気になるかどうか。
ブルガリアのお茶の間はエネブと女優のゴシップにしばし沸き上がる。
関心はエネブがどうやったら女優に捨てられないか。恋はまっとうされるか。
「テレビを見ていたらエネブは女優に舞い上がりだね。エネブは昔からあの女優のファンだってさ。人気ある女優だもんなそりゃあ。ところでエネブって何やる人だい。初めて見たぞ。テニスの人なんかい。テニスってあのラケットで球をピンポン打つやつかい。体育館でヨイショヨイショやるスポーツ。あっ卓球だったかな」
かわいらしい女優のゴシップ相手はエネブで都合7〜8人となるようである。恋の噂に挙がった男性の中ではエネブが一番知名度が低く週刊誌の売り上げはあまり高くはなかった。
女優の恋の遍歴のお相手は、
・ブルガリアのトレンディー俳優2〜3人
・サッカー選手2人(ブルガリアはサッカーが一番人気)
・英国の作家
・英国人サッカー選手(ブルガリアリーグ所属)
これら女優のゴシップはエネブ自身も知っている。女優との直接の面識があるまではすべて他人事であり女優のファンのひとりとして遍歴を楽しみながら見ていた。
ゴシップの中の長い付き合いの俳優との噂は美男美女のカップルでブルガリア全体が後押しをした。エネブ自身も憧れてテレビを見たくらいである。
「あの俳優との噂は羨ましいだけだった。僕は彼女のファンだったからそのまま俳優と結婚をして幸せになってもらいたいなあっと願ったくらい」
俳優とのゴシップは長年に渡る。映画やコマーシャル二人の共演は微笑ましくブルガリアではいつしか二人は結婚し幸せなカップルになると思われた。
二人の挙式のコマーシャルが流された時には本当の挙式ではないかとテレビ局に問い合わせの電話が殺到したエピソードが残っている。
「あのコマーシャルは衝撃的だったなあ。コマーシャルだとわかっていたがショックだった。女優は幸せにしてくださいますか。なんて言うんだもんなあアッハハ」
長い交際のふたり。歳月は流れいつの間にか破局していた。
俳優がブルガリアからハリウッド進出をはかり単身アメリカに渡る。仕事上のすれ違いから交際にピリオドを打つ。
「となると女優は失恋か」
エネブは週刊誌を買いことの顛末をこと細かに知る。
テニス遠征先でたまたまテレビを見た。悲しいかな女優が泣き崩れながら破局のコメントを読み上げる姿があった。憐れさは女優である見事な演技を見せていた。この世には私ほど不幸な女はいないわ。お茶の間のファンの涙を誘う。
「テレビを見ながら可哀想だなと思う。できたら僕が慰めてやりたかった」
エネブはその日行われたテニストーナメントは優勝をしている。まさかあの強い対戦相手に勝てるとはの優勝だった。大会関係者全員が驚きとなった。
次に女優はサッカー選手とのゴシップを流す。ブルガリアの人気スポーツのサッカー。恋の相手には相応しい男ではある。
サッカー界に女優の名が流れたことは単なる女優の売名行為ではないかと憶測されていく。女優はとにかく失恋の痛手の女より恋する乙女でいたかったから。
エネブはかなり悩む。
「あのサッカー選手は知人なんだ。子供じぶん同じサッカークラブでプレーをした。週刊誌の憶測はどうだったかな。本人選手はいたって真面目に女優が好きだったらしい。僕はまたまた羨ましい限りだったけどさ」
俳優・サッカー選手と立て続けの恋のゴシップがお茶の間に届く。ここから清純派女優のお嬢様なるイメージから恋多き女優と陰口を叩かれ始めた。ブルガリア芸能界で肩身が狭くなってしまう。
そのまま消えてしまうのか。いやゴシップ女優とレッテルして独り歩きされキワモノになるのは阻止したい。彼女自身祖国ブルガリアを離れパリや英国に女優の道を模索していく。
東欧のブルガリア人(南スラブ系)がゲルマン(英国)やラテン系と勝負をすることは並大抵なことではなかった。
パリの映画に端役(お嬢様役)で出演した際にはブルガリア国民みんなから、
「よく頑張った。パリでブルガリアの赤い薔薇になってくれ。欧州にブルガリアの美女いるんだぞと報せしめてくれ。ブルガリアはヨーグルトだけと違うとな」
物凄い応援を受ける。このブルガリアからの声援が彼女を後押ししたようだった。
「頑張ってパリの映画で主役を演じたい。私は負けないわ」
欧州諸国からパリに集まる美女の中ブルガリアの女は奮闘をする。
その他大勢の端役からのスタート。彼女自身のイメージがお嬢様。端役はお嬢様からだったが演じた役柄を熱演して映画ファンに名前とその愛らしい笑顔は印象に残る。その才能を見い出した映画ファンや評論家に慧眼ありであった。
「あのお嬢様役の女優はブルガリアのひまわりだな。パッと咲いてまわりをひまわりのように明るくしてくれる」
映画ファンからまず噂となる。後にブルガリアの赤い薔薇とキャッチフレーズは替わる。
この彼女がお嬢様役の端役からパリ映画の主役を射止めるのに一年余であった。
「この大抜擢はかつての名女優オードリーヘップバーン以来らしい。ブルガリア人にとってはフランス語を流暢に話すだけでも大変なのに。よく主役を射止めた」
エネブは我が事のように喜んでいた。そのエネブ。ブルガリアを離れ欧州テニスを転戦する際にフランスを好んで戦う。
フランスでの試合成績もよく本人も気分のいいところであった。
「女優がパリの主役。僕もあやかりたい。ブルガリアが喜んでいたな。だから僕も彼女のようにブルガリアを出て欧州テニスで認められたい。うーん最終目標はローランギャロス(全仏)だな」
その時までチャレンジャー大会でエネブはまったく勝てない選手だった。
「好きな女優がパリで主役。ならば僕だってローランギャロスで優勝してブルガリアテニス界の有名人になってやる」
全仏で優勝したら好きな女優と結婚出来てもおかしくはないと少年エネブは真面目に考えていたほどだった。
やがて女優はパリで成功を収めブルガリアに凱旋帰国を果たす。ソフィア空港には美しい女優を一目見たいと観衆が集まる。
女優は優雅にサングラスをかけタラップの上から手を振る。その折りに三番目となる恋の相手(英国の作家)が後ろにつき従っていた。
男性遍歴は俳優・スポーツ選手・作家。この女優今度はマリリンモンローの物真似をし始めたようである。
喜んでいたのはゴシップ週刊誌とテレビのワイドショーだけ。凱旋帰国の喜び気分は吹っ飛び罵声が混じる。
空港で開かれた女優のテレビ会見を見たエネブは少なからずショックを受ける。
また男か。パリの映画界での成功は何の役にもならないじゃあないか。あの男癖は治らないのだろうか。
エネブの女優に対する思いはこのあたりから醒めていく。
テレビに映る女優が気にならなくなると奇妙なものである。エネブが今度は度々テレビ出演を果たすことになる。エネブ出演は全てテニス番組である。
「ATPランキングがアップ。ブルガリアのデ杯選手ともなりテニス協会が僕を優遇してくれる」
ブルガリアのテニス振興を願うエネブ。テレビ出演は楽しみながらであった。
「ブルガリアはサッカーが盛ん。欧州サッカーの優勝常連にまでなっている。僕だってお父さんがサッカー選手だったからサッカーは好きさ。だけどテニスも面白いスポーツだ。ブルガリアの子供たちがテニスに憧れてプレーをしてくれることを期待したい」
エネブ自身少年時代にサッカーかテニスかと悩んだ時を思い出す。
「たくさんでひとつのボールを蹴るサッカー。チームプレーが保たれなければいけない。ひとりでコートを走って走って守るテニス。責任感から考えるのはテニスだった」
日が経ちエネブの頭からは女優のことはすっかり忘れ去る。自ら選んだプロテニスに没頭をしていく。
「フューチャーズを卒業してチャレンジャーで勝てる実力を養いたい。ブルガリアのデ杯選手に選んでくれたテニス協会に恩返しがしたい」
このあたりのエネブのテニス環境。家族としても気になっていたらしい。
「トーダ(エネブ)がテニスに打ち込める環境を作ってやらなければならないじゃあないか」
20歳を越えたあたりでエネブに縁談が舞い込んだ。
「そうだな。僕も身を固めたら足元が安定しテニスだけに打ち込めるだろう」
エネブは見合い写真もろくすっぽ見ないままOKの返事をしてしまう。
こうしてエネブには婚約者ができる。挙式などの子細な予定は未定だった。
「僕も妻を持てることになる。頑張ってATPランキングアップするぞ。妻にウィンブルドンをローランギャロスを見せてやりたい。僕のプレーを優勝を」
エネブの夢は広がる。
エネブはツアー先のコペンハーゲンから結婚の意思を示し翌週にブルガリアはソフィアに帰国した。
帰国して初めて婚約者と面会を果たす。父親のエネブ教授の知り合いの娘さん。
エネブより3歳年下のかわいらしい娘さんだった。
「かわいいなあ。こんなに素敵な女性が伴侶になるなんて」
娘さんの第一印象である。エネブはすっかり女優のことは忘れて幼い婚約者に夢中になる。
エネブ教授もトーダの婚約に喜んでいた。3人(2女1男)が全て結婚することに父親は責任感を果たしたとまずは安堵であった。
「トーダ(息子)がこんなにかわいらしいお嬢さんと結婚できるなんて幸せだ」
敬虔なるブルガリア正教徒の父親は神に祈って喜びを現した。
エネブは帰国してからはブルガリアを中心にテニストーナメント参戦をする。
「国内トーナメントばかりだから婚約者も連れて回りたい」
新婚気分そのものだろうかエネブと婚約者は仲良く揃ってソフィアテニス(チャレンジャー)から姿を現す。
「ひぇ〜トーダが婚約者とかい。旦那になるんだからしっかりテニスやってくれよ。頑張ってやあエネブ」
ブルガリアのテニスファンは大声援を送る。言われたエネブは真っ赤な顔をしてコートに立つ。かなり緊張感があった。
「婚約者に勝ちを見せてやりたい。ブルガリアのファンには強いぞエネブを見せつけたい」
エネブに焦りも働くことになった。体が固くなりぎこちなさが目につく。エネブは婚約者の前でなかなか勝ちに恵まれない試合が続く。勝てないとなると野次がバカスカ飛びかうことになった。
かわいらしい婚約者はコートサイドでオロオロするばかりである。
「トーダさま。頑張ってくださいませ。私はあなた様の勝利を期待しております」
かわいらしい婚約者の両手はハンカチがギュッと握りしめられた。その手はいつも握られたままである。試合は婚約者の虚ろな瞳の前で淡々と進行する。
エネブは敗退だけを繰り返した。
「ちくしょう勝てない。焦りがあるのか、僕には実力がなのか」
ソフィアテニス(3試合)ではまったくいいところなくエネブは負けた。
試合後の婚約者との夕食は気が滅入る。トーダ・エネブはうつ向き加減でナイフとフォークを動かした。婚約者は気を使う。
「トーダさま。次には勝ちますわ。私は祈っております。神よ私の大切な方に勝利を与えたまえ」
婚約者は優しい言葉をかける。エネブにはあまり耳に入らない様子である。むしろこのような場合ひとり部屋に閉じ籠りたい気分だった。
「私はあなた様の応援を致します。なんとか味方になりたく存じます」
優しい婚約者の清らかな言葉は胸にズッシリと来る。婚約者はこれから一生涯添い遂げてくれる大切な女性である。
「彼女の存在は特別なのだ。この清らかな女性を悲しくさせてはいけない。そのためには勝ちまくらなくてならない」
婚約者から見たらエネブのテニスは勝つことだけがすべてに感じられてしまう。
エネブの夕食は砂を噛むような味気ないものになる。
翌週からはプロブデフのテニストーナメントが開催される。この試合はフューチャーズだから、またエネブの生まれ故郷だからと当然に勝ちにいくとエネブは気合いを入れた。
「地元の大会。優勝で飾りたい。婚約者の彼女に勝利をプレゼントしたい」
普段の練習にも力が入る。婚約者は練習コートにも顔を出した。朝から晩まで汗だくになりボールを追うエネブ。見ているだけでも気がおかしくなりそうなハードさだった。
「トーダさまは私のために懸命に練習をされているのね」
婚約者は日差しの強さに負けそうだからと傘を差した。
遠目からだがエネブにはとても裕福な家庭の貴婦人がそこにはいるように見える。
「僕はあの婚約者を幸せにしなければならない。プロテニスプレーヤーとして幸せをつかまないといけない。そのためには出場する試合にはどうしても勝ちたくなる」
ラケットを握る力がさらにアップしてストロークを繰り出していく。
やがてプロブデフの試合の日は迎えられた。エネブは熱烈な観客からの声援を受ける。
トーダ〜トーダ〜
地元のエネブは人気を独り占めしていた。
大会主催者からまず大会の挨拶がある。
「皆さんこんにちは。プロブデフのフューチャーズを開催致します。出場選手にはわがブルガリアの若きヒーローがひとり含まれています。トーダエネブを紹介しましょう」
主催者はエネブを将来のグランドスラマーと紹介をした。
「我がブルガリアはテニス先進国。女子のマレーバーに続きエネブには期待をしたい。ウィンブルドンの勇姿をね」
トーダ〜トーダ〜
観客からはエネブ頑張ってくれっと盛んに声が掛けられる。地元の期待の星は少し照れた。
トーダ優勝頼むぜ。お前ならフューチャーズぐらい簡単に制覇できるはずさ。来年にはウィンブルドンだぜ頼むよ。
エネブは優勝を期待されフューチャーズに参戦をする。
1週間のトーナメント。エネブは婚約者とともに自宅からテニス会場に通う。徒歩である。
「地元開催はこれだからたまらない。自宅から道行くテニスファンに声援をもらい頑張ってコートに入ることができる」
試合前にはエネブが少年時代からのテニスクラブで体を動かし入念なトレーニングをする。
万全の体勢でトーナメントに向かうエネブだった。
ATPランキング260位のエネブ。試合相手は格下のランカーばかり。(700〜1000位。フューチャーズは大抵このクラス)
エネブの独り勝ちで優勝は決まるかと思われた。
トーナメントは順調に消化されエネブは勝ち進む。
「この試合に勝ちベスト4だ。残り2試合に勝てば優勝に辿りつける。(若手中心のフューチャーズは)こんなもんさ」
地元の声援と婚約者がエネブをどんどん後押しをする。
トーダ〜トーダ〜
コートサイドからはエネブのためだけに応援をするブルガリア人ばかりであった。
ベスト4の試合。
エネブはいつものように入念なストレッチを行いコートに入る。
「勝てば決勝戦なんだ。婚約者にはやっと優勝するトーダエネブを見せることができる」
エネブはサービスを打つ前に勝利を確信してしまう。
試合はすでに勝ちだと思って…。
エネブのサーブから試合は始まった。軽く足を動かしたエネブ。天に向かい高くトスをあげた。強烈な打球。アグレッシブな打球が相手コートに突き刺さる。エネブ全身を使うサーブを打ち込みであった。
しかし。
対戦相手は苦もなく強烈なサーブをリターンした。エネブの球筋は読まれていたように。
バシッ
エネブはリターンされた打球を懸命に追う。
まさか打ち返すとは!
リターンには間に合わない。足の早いエネブでさえも追いつけない。
エネブのロスポイントである。万全なるサーブをリターンエースされた瞬間であった。
「ちくしょう。(サーブを)返しやがったな」
エネブのサーブを簡単に打ち返すATPランカーなどこのトーナメントには誰もいないとタカをくくるエネブ。
「まぐれ当たりさ。アドコートからならサービスエースもらうぜ」
エネブはサイドチェンジしサービスの構えに入る。
打ち返すなら打て
バシッ
渾身の力をサービスに込めた。鋭き速さのサーブは対戦相手のバックサイドに突き刺さる。
スピードとコースはエネブの計算通りである。
しかし。
バシッ〜ン
窮屈な構えながらもリターンをした。打たれたエネブは慌てた。
まさかあのサーブをリターンするとは。
ヘナヘナと舞い上がる力ないリターン球。エネブは2〜3歩ネットに歩み寄りボレーで決める。初級のテニススクールの球出し練習のようである。
次の瞬間ブルガリアの観客は唖然とした。信じられない光景が繰り広げられた。
アッ〜
エネブはボレーをネットしてしまう。注意散漫エネブのケアレスミスだった。
エネブは自身に怒りを感じネットをラケットで叩きつけた。バシッと乾いた音がテニスコートいっぱいに響き渡る。
「俺は何やってんだ。(ボレーなんかミスって)情けない」
このゲーム早々の出足からエネブは調子を狂わせ平常心をすっかり失う。簡単なプレーもラフプレーを繰り返しミスの山を築く。気がついたら第1セットは4-6。格下相手にロスしてしまう。このトーナメント初のロスである。
ここで気を取り戻したらよかった。いつもの冷静沈着なトーダエネブになればよかった。
第2セットのコートチェンジ。ブルガリア観客から野次が飛ぶ。
トーダ〜カアチャン(婚約者)の前で不様な姿見せんな。所詮お前はその程度のお坊っちゃんテニスなんだろう。なにがグランドスラムを狙いたいだ、ウィンブルドンに行くだ。ふざけんな。フューチャーズも勝てない野郎が偉そうなことほざくな。
(野次野郎だがかなり的確にエネブのことを言っていた)
プレーヤーズベンチに座りエネブは野次野郎の罵声を背中で受け止めた。
フューチャーズも優勝しないでウィンブルドンかっ。グランドスラム出場という夢を見ているお坊っちゃんテニスはちゃんちゃらおかしいかっ。
エネブはさらにカッカとして怒りが全身を襲う。こうなると精神が重要視されるテニスは試合が成り立たない。
エネブはミスを連発していく。コートの中ではただ飛んでくる球を追い掛け打ち返すだけである。テニスフォーメーションもエネブのテニスも何もない。
ただ打球を追うのみであった。
エネブは0-6で負けていく。試合は見れたものではなかった。
敗者エネブは試合後の選手同士の握手を拒否してしまう。さっさとツアーバックにラケットを詰めてコートを無言のまま去ってしまう。
観衆たちは納得をしなかった。
トーダなんてことをするんだ。情けない男だ。それでもブルガリア魂を持っているのか。なにが赤い薔薇(ブルガリアの象徴)だ。貴様なんかブルガリアの名前を名乗るな。恥を知れ。
罵声ばかりがエネブの背中に突き刺さる。
エネブはクラブハウスに引きこもる。頭からすっぽりとスポーツタオルを被る。誰も受け入れたくないエネブだけの世界だった。
敗者エネブは涙がこぼれる。自分自身が悪く(テニスに)負けたことは腹立たしい。負けた試合の内容をひとつひとつ思い出す。
なぜあんなプレーをしたのだろうか。
どうして思うプレーができなかったのか。
エネブは机に拳を叩きつける。
婚約者に『優勝』のプレゼントを与えられなかった。俺は好きな女に自分の最も得意とするテニスで優勝を与えられない。しかもフューチャーズクラスで優勝できなかった。
エネブはその日婚約者のいるクラブハウスをこっそり抜け出した。
「今さら彼女に合わせる顔がないんだ。敗者は語らず。ただ消え去るのみなのさ」
エネブは携帯を取りだし幼馴染みの友人に繋ぐ。
「どうしたトーダ。久しぶりじゃあないか。お前今プロブデブに帰っているんだろ。新聞で見たよ。デカデカと掲載されているからさ」
2〜3のやり取りがありエネブは幼馴染みに会いに行く約束をする。
ああっいいよ来いやトーダ。久しぶりだ顔が見たいぜ。プロテニス選手になってから初めてだからさ。逞しくなっているだろうなあ。
幼馴染みはエネブを喜んで受け入れる。
一方クラブハウスの外。エネブの姿がいつかは見えると待つのは婚約者だった。白い日よけパラソルを開き貴婦人らしくエネブの現れるのを待っていた。
観客の中にはエネブの婚約者だと気がつく者もいた。
エネブは裏口から観客の目を盗んで既にプロブデブの街に消えてしまっていた。婚約者は途方に暮れた。
この日を境にエネブと婚約者はギクシャクとしてしまう。
エネブはプロブデブの自宅を離れ故意にテニスツアーを組む。ブルガリアでの試合はなるべく避け欧州テニスを選んだ。
「ブルガリアだけのテニスでは進化しない。たくさんのプレーヤーに揉まれないといけない。フューチャーズだろうがチャレンジャーだろうが」
エネブは婚約者の存在を忘れたかのごとくツアーに邁進をする。そのお陰でATPランキングはぐんぐんアップしていく。
自己最高ランキングを記録するのも時間の問題だと思われた。
「エネブ。よく頑張ったなあ。ご褒美をあげたい。ブルガリアに戻りテレビ番組に出演してくれないか」
運命の扉はこうして開けられる運びとなる。
エネブは最初テレビ出演は断りを入れた。
「僕は今ツアーが最高に楽しくてしかたがない。次のチャレンジャーで優勝すればATPランキングが大幅にアップして全米オープンの予選に行けるかもしれない。いや本選も夢ではないかもしれない」
テレビ出演を依頼するブルガリアテニス協会に帰国はしたくないと返事をしたかった。
「テレビ番組はテニスがメインさ。当テニス協会が全面的にバックアップして番組構成をしていくつもりなんだ。ゲストにはブルガリアで人気のあの女優が来てくれる。エネブも彼女は知ってるだろ。番組は盛り上がりテニスの振興に役立つはずだ。だがエネブはツアーを優先させたいとならば諦めねばならない。残念だが諦めるよ」
違う選手をテレビ出演させるからエネブはいらないと協会から言われた。
エネブは女優との共演が頭から離れなくなる。女優がデビューした時からのファンがエネブだから。
「ちょっと待ってください。何も僕は(女優との)出演が嫌だなんて言いませんよ。考えを変えますよ」
女優には憧れがある。エネブは2つ返事で出演を快諾をする。こうして魔性の女はエネブと出合うことになっていく。
この時のエネブはツアーと女優で気持ちはいっぱいであった。婚約者はどこぞへか消えていた。
テレビ番組の収録がやってきた。プロデューサーが番組内容や進行状況をひとつひとつエネブら出演者に説明をする。
エネブは普段のようにテニスプレーをこなして欲しいと言われた。
「エネブ。バシッと決めるテニスを見せてくれ。サービスが決まる。ストロークが唸りを立てる。ボレーがバシッ。全てのプレーが決まったらゲストの女優たちが単に驚きを表すという趣向でいく」
ゲストは3人いた。いずれもブルガリアを代表する新進気鋭の若手のタレント・女優ばかりである。視聴者はテニスに関心がなくてもこちらの美女を目当てに番組を見てくれるという思惑である。
エネブはプロテニスプレーヤーとして番組ではガンガンハードなプレーを披露した。対面のコートにはヒッティングパートナーの大学生がいたが相手はアマチュアだとわかっていたがお構い無く打ち込む。
エネブには好きな女優の姿しか見えなかった。
「エネブさん。お手柔らかにお願い致します。あまり強いボールはリターンできないです」
ブルガリア大学選手権の上位クラスの実力。プロのエネブとは格段の差だった。
エネブの鬼気迫るテニスにゲストの3人の美女は驚くことしきり。
「テニスってもっと優雅でお遊びかと思ってましたわっ私は」
女優はエネブのサービスを見てまずは度肝を抜かれた。
「あんなスリムな体から火の出るサービスを放つなんて。まったくもってミラクルだわ」
女優は学生時代からテニスをしていた。このテニス経験があることはエネブは知ってる。長年に渡り女優のファンであるゆえに。
テレビ番組の収録は無事終わった。エネブが力の限り打ち込むので美女たちがより一層可愛らしく驚いてくれた。
「うーんまあいいだろう。エネブご苦労様だったな」
収録終了の声と共にエネブはクラブハウスでシャワーを浴びた。
「今から番組の打ち上げパーティー晩餐会があるんだ。あの女優とパーティーに参加できるとは幸せだなあ」
この時エネブは張り切った。長年の憧れの女優とゆっくりと逢えるのだから。
恋多き女。数々の浮き名をゴシップとして流す女。フランスはパリで大成功を収めた大女優。そしてエネブの憧れ抜いた女性である。エネブでなくとも女優との出逢いは嬉しくてたまらないところであろうか。
プロデューサーが晩餐会の音頭をまずは取る。
「テニス番組の収録だと聞いて困ったんだがなんとかうまく収録できた。ハッピーだ。乾杯」
短い挨拶で晩餐会は始まった。
それというのもゲストの女優たちはハードスケジュール。乾杯をしてすぐに次の現場に行かなくてはならなかった。
エネブと女優はほんの束の間だけの逢瀬を見ただけとなるはずだった。
トーダ・エネブ。私にもテニスを教えていただけますかしら。
グラスを持つエネブに女優は歩み寄り小さな紙切れを手渡した。
喜んでテニスをお教えしえいたしますよ。僕の憧れの女性ですから。
エネブは天にも昇る思いで承諾の意思を示した。
女優は優しく微笑んだ。
ありがとう。その言葉を私は信じたいわ。
女優はエネブに軽くキスをして晩餐会を後にした。残されたエネブの手には女優の携帯番号があった。
エネブは嬉しかった。晩餐会が終わったら早速に女優に電話を掛けてみた。
エネブは心臓が張り裂けそうなものだった。
呼び音が続く。リーンリーン。
「お電話ありがとうございます。大変に嬉しく思います。エネブさまでございますのね。私はマネージャーでございます」
携帯を受けたマネージャー。ケラケラと笑う可愛い女優が横にあった。
マネージャーはエネブに日程を詳しく尋ねる。女優との逢瀬をスケジュールする。
「当方はエネブさまにお逢いしたく存じますわ」
エネブとのスケジュールが調整されたら携帯は女優に代わる。
「エネブさま。お逢いできる時を楽しみにしておりますわ。私のファンなのですね。私もエネブさまのファンでございますわ」
女優は天真爛漫に笑い携帯を切る。
こうしてエネブは女優との逢瀬を心待ちをすることになった。
それからのエネブはテニスにまったく身が入らない。いやテニスどころか私生活そのものが規律なくだらしがなくなった。婚約者の存在をすっかり忘れてしまったのもこの頃でありストイックなテニス少年の面影は見ることもなくなる。
翌週からのATPチャレンジャーは予選からの出場はエネブ。このトーナメントに活躍すれば全米予選には行ける。頑張っていけばグランドスラムに手が届くのではないかと言われた。ブルガリアテニス協会からは、
「チャレンジャーの成績次第では全米のワイルドカード(主催者推薦)をエネブに出してもよいだろう」
エネブは期待をされていた。だがチャレンジャー予選を1回戦であっけなく敗退を喫した。ワイルドは同じブルガリアの他の若手選手に与えられてしまう。エネブはこの敗退によりブルガリアのトップの座を落ちてしまった。
この欧州チャレンジャーを最後にエネブはATPに参戦をしなくなってしまう。テニスの貴公子エネブはいなくなってしまった。
エネブと新進気鋭の女優の密会はセッティングされた。マネージャーからの報せにエネブは嬉しくて嬉しくてたまらない。それこそ夜も眠れないくらいであった。
女優は単にエネブからテニスを学びたい。有名女優ゆえにファンの人目を気にせずこっそりとコートに立ちたい。そんな程度の考えで再会でありエネブという男であった。
「エネブさま。再会できて嬉しく思います」
密会の場所は俳優や女優がよく利用する高級会員制スポーツクラブ。プールから乗馬からと一通りの施設は整えられていた。もちろんテニスコートも完備である。
会員は元貴族や欧州の資産家しかいないクラブであった。
女優は華麗なテニスウェアに身を包み込みエネブ先生の登場を待った。
「テニスは学生時代にやってはいました。ですがさしてうまくはございません。エネブさまの指導力で上達をされてみたいかと存じます」
女優にはあくまでエネブはテニスコーチであった。
エネブは憧れの女優とコートに立つことになった。
「わかりました。テニスの心得がおありになられて頼もしい限りでございます」
指導する女性はエネブ憧れの女優である。緊張感が全身を襲う。
さらには眩しいくらいの女優のテニスウェア。今まで見たいかなる女性のウェア姿より美しく光輝いていた。エネブは舞い上がる。
レッスンをするコートサイドには会員の貴族たちが集まる。
「おっあの女優がプロテニスプレーヤーと密会しているのか。また新しい恋のゴシップかな。いやいや単にテニスを習うだけだぞ。誰だあのテニスコーチは」
貴族たち会員はさして気にもせずである。第一にエネブというプレーヤーを知らなかった。
ブルガリアはサッカーの国。マイナースポーツはテニスだった。
エネブはコートで奮闘する。憧れの女優の特別コーチを賢明に務めた。
「エネブさま。かようにスイングでございましょうか」
女優という職業柄見た目のスイングは見事なものだった。パリの映画女優は素敵に華麗なテニスを見せてくれた。エネブは素晴らしいとよく褒めた。
「ハッハハっエネブさまありがとう。外見だけはそれなりに見せてご覧にさしあげますわ」
パリ映画の主役女優はエネブの指示通りにスイングをすることができる。格好は決まるがボールは飛ばない。
エネブは夢のような一時を女優と過ごした。恐らく今までのテニスの中で一番幸せな時を過ごしたかもしれない。
約2時間エネブコーチで経過した。女優のマネージャーがそろそろ終わってくださいと忠告をする。
「エネブさま。またの機会に」
女優はにっこり微笑んだ。細く冷たい手をエネブに差し出した。エネブは、
「こんな程度のことならいつでも喜んで」
照れながら右手を差し出した。
エネブは握手をするのだなっとはにかみながら手を出していたが。
チュ
女優はエネブの右手を無視してキスをしてくれた。
「エネブさま。大変感謝しております」
優しい笑顔を残し女優はクラブハウスに消えていった。
パリの映画女優から厚いキスのお礼をもらったエネブ。あまりの衝撃に茫然としてしまう。
僕は幸せな男だ。テニスをしていてよかったなあ。
これからである。女優のマネージャーからちょくちょく連絡が入ることになった。
「女優のテニスのお相手をお願い致します」
舞い上がるエネブ。まったくのテニス素人な女優のテニスコーチを引き受ける。
女優との密会が待ち遠しくてたまらなくなり自らのATPツアーはどこかに飛んでしまう。
ブルガリアテニス協会からのツアー要請は蹴る始末であった。
女優は女優のスケジュールに合わせてエネブに連絡を入れてくる。パリの成功から次には英国映画かハリウッド映画。彼女としてはテニスを含むスポーツで体を鍛えあげることは損のない話であった。
「もしもだけど。英国映画007のボンドガールに要請があるならば出演を受けるわ。東欧の女優初の快挙だから」
女優は前途洋々なる未来が映画の世界に広がる。
女優からの連絡を受けるエネブはテニスツアーのスケジュールが当然にあるはずだった。
「彼女からの連絡を最優先したい。彼女と一緒にいつもいたい。僕にはかけがえのない女性なんだ」
なんとATPツアーをキャンセルしてしまう。これにはブルガリアテニス協会もお手上げであった。
「怪我でもしているのかエネブ」
協会からは医師の診断書を提出してツアーをリタイアするようにと打診がある始末だ。
恋に狂うエネブ。自ら落ちていく。
女優とエネブ。テニスコートの上だけの密会から発展をしてしまう。
「やれやれあの奴さん(女優)。また新しいのを見つけたようだぜ」
恋多き女優。男性遍歴をこれでもかと誇示する女優。
テレビのワイドショーと女性週刊誌はこぞってエネブとの恋が発覚っと報道した。
「今度はエネブ。誰だいそれ。ブルガリアテニスの選手なんか。テニスってなんだろう」
エネブ自身の知名度のなさ。テニスそのものがマイナースポーツからゴシップはさして噂にはあがらず。ワイドショーも週刊誌も瞬く間にエネブを話題としなくなる。
噂としては女優の英国映画進出のための話題作りの一環ではないかとさえ悪口を叩かれた。
女優のゴシップ相手がきれいに7〜8人順番に並ぶ。エネブが一番無名だった由縁でもある。
週刊誌などのゴシップ嵐が吹きやむとエネブはおおぴらに女優とテニスを密会を楽しむことができた。
「女性週刊誌の記者があれこれとやかましいとこだが」
馴れてしまえばテニスの観客の野次程度にしか感じなくなった。
エネブは益々女優との仲が深まってしまう。
週刊誌やテレビのワイドショーを見たのはお茶の間の女子供だけの視聴者ではなかった。ブルガリア・テニス協会の理事たちもいつしか噂を聞きつけていく。
「エネブがゴシップだと。女優と浮き名を流しただあっ。なんのことだ」
事務員が週刊誌を買いに走る。協会はてんやわんやとなる。
ただちにエネブを呼びつけた。
遊び惚けたエネブとして協会の理事は怒りを露にする。
「エネブはチャレンジャー敗退。フューチャーズもろくろく勝てない選手になり下がった」
理事長はエネブの幼少時代からよく面倒を見ていた。言わば育ての親と言う存在だった。
首都ソフィアの官庁街のオフィスビル。理事長は有無を言わさずエネブをテニス協会理事の執務室に来るように要請した。いや半ば命令である。
「あのエネブからテニスを取り上げたら何が残るというのだ」
テニス協会からの通達はただちにエネブに届く。
「理事長が僕に逢いたいと言っている。なんだろうか」
エネブには父親のような存在である。すぐさまオフィスに向かう。
オフィス街の理事長の執務室。お昼下がりの頃ひとりの青年が現れた。理事長の秘書は内線を繋ぐ。
背広姿盛装したエネブの訪問である。
「理事長さま。エネブさまが参りました」
秘書はエネブを優しく手招きし理事長室に案内をする。
若きテニスプレーヤーは堂々として理事長室に入って行く。
初老の理事長。老眼鏡をかけてジロッとエネブに視線を向けた。
今からこの若きテニスプレーヤーに褒め言葉を与えるのなら気持ちも安らかなことであろう。
「久しぶりだなトーダ。元気しているじゃあないか。まずは何よりだ」
理事長はエネブとの出会いの日々を思い出す。プロブデフに凄いテニス少年がいる。理事さんぜひ見にきて欲しい。
元テニスプレーヤーだった理事長ははやる心を落ち着けながら首都ソフィアからプロブデフに向かった。
「我が国ブルガリアはテニスをする選手人口が少ない。そのひとつにはテニス選手にスターが不在であることだった。マレーバ3姉妹にいつまでもオンブに抱っこはいけない」
理事長はエネブに座るように促す。
「エネブさま。お飲み物はコーヒーでよろしいでございましょうか」
秘書は頭をさげて理事長室を退座した。
プロブデフで見たのはとんでもないテニス少年だった。10歳(小4)にしてあらゆるショットを楽々こなす。何食わぬ顔をして平気でコートを走り抜け抜群の精度のショットを打ちまくる。
理事長はただただ唸るだけであった。
「トーダ・エネブ。こいつは本物だ。我が国ブルガリアには明るい未来が見えた気がする」
エネブは試合に勝利すると父親と共にクラブハウスに呼ばれた。
「君がトーダだね。素晴らしい試合じゃあないか。感心したよ。じょうずだね」
理事長は大きな手でトーダ少年の頭を撫でた。褒められたエネブはこの頭を撫でられたことを一生忘れなかった。なぜならブルガリアテニス界にエネブありと認められたのだ。それ以後のエネブは奨学金を手にすることになる。テニスエリート誕生の瞬間であった。
この理事長の眼鏡にかないエネブはJr.テニスの寵児となりブルガリアを代表するテニスプレーヤーとしての道を確実に歩むことになる。
背広姿のエネブは礼儀正しく理事長にお辞儀をした。座りなさいと勧められたのでソファに腰掛ける。目の前にいる理事長はエネブのテニスの父親である。少し居心地が悪くも感じる。
「理事長久しぶりでございます。ご無沙汰をしております」
エネブとしては呼ばれたから理事長に会いに来たまでである。要件が済み次第に退座をしたかった。
あれこれと説教をぶたれるのはかなわないや。
秘書が給湯室からコーヒーを運ぶ。カチャカチャと茶器の音だけが執務室に鳴り響いた。秘書は理事長とエネブにサービスをすると失礼しますと消えていく。
理事長はゆっくりコーヒーカップを持ち上げる。一口含みながら話を切り出した。
トーダ。君に申しておきたいことがある。理事長はトーダに言いにくい事情を単刀直入に切り出した。
理事長室の来客の間、美人秘書はせわしなく電話とファックスの対応にぼわれた。電話はひっきりなしに掛かる。
「インターネットでの理事長への問い合わせでしたらそのまま返信をいたせば要件は済みますけど」
電話はもっとも厄介なことであった。要件を満たすまでが長い。
理事長は分刻み、秒刻みの執務をこなしている身分。エネブの訪問すら職務上疎かにはできない。
秘書が3本の電話の応対をしおえるあたり、理事長室から背広姿の青年が早足で出てきた。
「エネブさま。(理事長からの)ご要件はお済みでしょうか」
秘書はエネブが退座ならば茶器を片付け、理事長に新たなる要件を連絡しなければならない。
エネブは秘書の一言に軽く頭をさげ何も言わずエレベーターに乗る。逃げるようにスタスタっと。
エネブは顔が硬直し視線はうつろだった。
「お帰りでございますね。エネブさま」
秘書は立ち上がり理事長室に入っていった。
理事長は憤慨をしていた。かなり興奮したようで頭から湯気が立ち上る。
秘書としては長年の付き合いである。また理事長の雷が爆発したかなっ程度であった。
理事長は秘書の顔を見るなり、
「見苦しいとこを見せてしまった。年甲斐もなく。アッハハ」
理事長は怒りが徐々に収まりつつあった。
「君っせまないがブランデーを持ってきてくれ。いやっコニャックだな」
気を鎮めたい理事長であった。
秘書はかしこまりましたっとコニャックと氷をサービスする。この酒もいつものことであった。
「酔いがまわれば理事長は執務は無理だわ。私が処理できることはなるべくやらなくては」
理事長はコニャックをオンザロックでグイッとやった。先程までエネブを叱りつけて真っ赤な顔。今からは酔いで赤けなっていく。
スリムな秘書の前で理事長は独り呟く。
「あのトーダは本当によい子だった。初めて見たあの少年時代のトーダは一生忘れられない。それが今のあの体たらく。まるで他人かと思うよ」
理事長としては今のトーダならば順調に成長し同じブルガリア出身のマレーバ3姉妹を越えるテニスプレーヤーになってしかるべきだと言いたかった。
「トーダがウィンブルドンの芝でボールを追うまでワシは理事長をやりたいと思ったが」
理事長は涙がこぼれた。年齢から見たら祖父と孫ぐらいのトーダエネブ。
あの調子ならばウィンブルドンにトーダエネブは出場できはしないだろう。
女にうつつを抜かしてテニスに集中しないトーダエネブは理事長の儚い夢と終わるのか。
美人秘書はコニャックの空グラスを理事長から受け取る。おかわりが欲しいという雰囲気であるがまだまだ執務は残っている。
「理事長さま。少しおやすみなさいませ。酔いの醒めるまで執務は中止といたしますわ」
クロゼットから毛布を取り出し秘書は理事長に優しく掛けた。高齢の理事長はおとなしく秘書に従った。
エネブは理事長と別れソフィアのオフィス街を歩く。真っ赤な顔はそのまま。まだまだエネブの興奮状態は収拾がつかないようである。
オフィス街から歓楽街にと自然に足は向く。
「ちょっと見て。あれってテニスのエネブじゃあないかしら」
女子高生たちからエネブの素性がわかっていく。
きゃあ〜エネブだわ。トーダよっ。
ブルガリアはサッカーが盛んな国。テニスはあまり人気はない。しかしハンサムなトーダエネブだけは特別な存在である。身近な本屋にはエネブのゴシップが掲載された週刊誌が並ぶ。
エネブは女子高生の声に反応した。
「しまった。このまま歩くと女子高生たちに取り囲まれてしまう。困ったぜ」
踵を返して女子高生たちを振り切る。ひたすら走り続ける。
エネブは歓楽街から抜け出し次に何処に行こうかとした矢先であった。携帯が鳴る。発信は女優のマネージャーであった。
エネブはニコッリとする。喜んで電話に出た。
「エネブさまでしょうか。私は」
いいタイミングで女優とデートをすることになる。エネブは2つ返事で了解をする。
先程まで理事長から散々に言われていた。プライベートはしっかりしてくれなくては困る。妙なゴシップを流されたりしては芳しくはない。
エネブの頭の中はあの映画のスクリーンで光り輝く女優の笑顔しか見えていなかった。
僕は可愛い女優に恋をしている。ブルガリアで最高に幸せな男なんだ。彼女をウィンブルドンに連れて行ってやりたいなあ。僕がセンターコートでプレー。彼女はファミリーボックスから優しく微笑みかけてくれる。
エネブは夢を見た。いや夢のまた夢である。
女優の待つデートの場所会員制クラブ。エネブはまるで魔物に吸いつけられるかのごとく現れた。
女優が逢いたいわっ。エネブとテニスがしたいわっと思っただけで簡単に現れる。なんと便利な男であろうか。
「おい見ろよ。あれってエネブじゃあないか。また来てるんか。すっかり女優にまいっちまった感じだぜ。このところ決まって姿を見る気がするぜ」
会員たちはあきれ顔であった。いくらエネブが女優に熱をあげようとも所詮は叶わぬ恋というのが通り相場である。
パリで成功した人気女優と世界一流から程遠い三流テニスボーイ。女優の気紛れな遊び相手であり深い関係には発展はしない。いつかポイッと捨てられ次の男に恋の遍歴は移るだけであった。
会員制スポーツクラブ。エネブは意気揚々として女優とのデートを楽しむ。スポーツ云々はテニスだけに限らず女優のやりたい種目やスポーツジムのエクササイズ(器具)になっていく。
「エネブさま。テニスプレーヤーだけあって運動神経抜群なんですのね。翔んだり跳ねたり走ってみたり。何をなさってもお上手なんですわ」
女優としてはサッカー選手との交際がかつてはあった。だが人目を避け密会をするだけでお互いスポーツクラブで汗を流すことはなかったらしい。
女優は少しエネブが気に入ってくる。
「スポーツマンは素晴らしいわ。何をやらせてもハツラツにこなしていくんですもの」
それまで女優から見たエネブはテニスを教える都合のよい男だけである。ただそれだけの存在だった。他意はまったくなかった。
いつもテニスが終わるとマネージャーが女優だけをせわしそうに迎えに来る。決してエネブとアフターを楽しむことはなかった。
マネージャーが女優を迎え入れた際に、
「エネブさま。よろしければスポーツクラブのラウンジにいらっしゃいませんか。ご会食をご用意致します」
初めてエネブは誘われた。
エネブはオオハシャギである。
喜んで参ります。
ハウスでシャワーを浴びエネブは盛装をする。会員制クラブは高級なる社交の場。財界から政治から要人たちが集い語らいをする。
ラウンジで待つ女優はまた格別にきれいだった。イブニングドレスを着飾り映画のシーンそのものであった。
ラウンジに女優を見つけたエネブ。地に足がつかない。
「長年僕が憧れている女優があそこに座っている。僕の登場を今かと待つなんて。夢のようだ」
ラウンジに入る手前でネクタイの曲がりを直しエネブは背筋を伸ばした。世界で名のある女優にふさわしい男を今から演じねばならないっと。
女優はエネブの姿を見つける。可愛らしい微笑みを投げ掛けた。パリ映画の主役の微笑みである。
エネブが姿を見せたらマネージャーが歩みよる。
「エネブさま。身勝手な招待をお許しを。さあお席におつきあそばせ」
ラウンジの中。貴賓室のごときのテーブルにエネブは招かれ座る。目の前には神々しく後光が差す女優であった。
「エネブさま。お招きを受けていただき光栄でございますわ」
女優もエネブ同様に嬉しかった。
ふたりはフランス料理を味わいながら互いの心情を語り合う。
エネブは好きで好きでたまらない女の子を意識してナイフとフォークを動かした。
女優は憧れていくスポーツマンの兄的存在エネブを意識していた。しかしすぐに恋人エネブに変わってしまい"恋多き女優の顔"を出す。
エネブは女優の大ファンであることを素直に伝えた。
「デビュー作からずっと映画は見ています。憧れていますから」
ファンと言われ女優は少しはにかんだ。嬉しかったこともあるがファンだけで私を見ているのかしらっと不満もあった。
「エネブさま。嬉しいでございますわ。女優というものはファンの皆様のお力でどうとでもなりますわ」
ブルガリアだけの人気。欧州全域の人気。アメリカ進出し世界的な人気。
エネブを尊敬する女優は素直に今後の映画女優の道を話始めた。
ハリウッドスターになりたいの。
ブルガリアから欧州からアメリカへ。テニスプレーヤーのエネブはATP(世界男子テニス協会)のシステムに似ているなあっと感じた。
お互いにブルガリアから『世界』という檜舞台で名を挙げてみたいという願望があるとわかる。
「僕は(テニス界で)ブルガリアから欧州に羽ばたきたいと思っています」
エネブは胸を張り女優に答えた。
テニスで『世界』とならばグランドスラムの世界4大大会が言おうなしにある。
「エネブさまはグランドスラムに出場されますね。私はパリでローランギャロス(全仏)を観戦したく存じます。欧州でございますと英国のウィンブルドン(全英)もございましたね。英国ですか。私は憧れておりますわ」
女優は美味しい顔をしてデザートのアイスクリームをひと掬いする。スターであり女優ではあるが年齢からはまだ女子大生。ちょっとした仕草にあどけなさが見られた。
エネブはそんな可愛さがたまらなく好きになった。
「ウィンブルドンは有名ですからね。僕がテニスを始めた頃はウィンブルドンに出場することを夢に見たくらいですから」
女優の前で虚勢を張るエネブだった。
現在のエネブATPランキングからウィンブルドン出場に至るのには大変な努力が必要である。ATPトーナメントに3〜4大会優勝するかテニス協会に認められてワイルドカードをもらうか。
ウィンブルドンの出場枠は128しかない。ATPには約1500ぐらいのテニスの天才がいる。単純に考えてATP-128位以内にランキングされないと。
女優はエネブの夢を楽しみと考えてた。
「全仏も全英もエネブさまなら必ずや出場をしていただけますわ。ブルガリアのテニスと言いますとマレーバ3姉妹。私は直接は存じませんが」
ブルガリア・エネブの憧れの人。それがマレーバ3姉妹であった。
「僕もマレーバのように世界テニスで活躍したいです。マレーバのウィンブルドンとローランギャロスのビデオは何回も見たんですよ。尊敬しています」
美人テニスプレーヤーのマレーバ3姉妹の話題は女優も興味津々である。
「ブルガリアから世界的に有名になられた女性はマレーバ3姉妹が初ですわ。美人で優雅でテニスも上手」
ブルガリアから世界に羽ばたこうとするふたり。女優とテニス。マッチするものがあった。
エネブはこの幸せな時間を大切にしたかった。
「彼女は僕の心の支えになってくれる。僕は彼女のためにブルガリアから世界へ行かなくてはならない」
まもなくパリ映画からハリウッドへ跳び立つかという新進気鋭な女優。
「僕はまだまだ世界のテニスコート(グランドスラム)には手が届かない」
女優と比べた場合現実味を問われ黙るしかなかった。
現実味の中、エネブは婚約者の存在を蔑ろにしてしまう。
女優との逢瀬はエネブの心の中にグングンと広がりを見せ今は大半を占めてしまう。
理事長からもエネブは婚約者のことを注意されていた。
テニスに集中するために身を固めるのがよい。婚約者の存在はエネブのテニスに必ずプラスとなる。良き伴侶は何物にも代えがたい財産となる。
だがエネブはこの忠告は馬耳東風である。まったく聞く耳を持たない。うるさいだけの老人の戯言程度。あっさりと聞き流してしまう。エネブには世界的に有名な女優のことしか考えられなかった。
「婚約者は婚約者。あくまでも結婚をしましょうという約束だけをした間柄なんだ。入籍してはいないんだ。だから婚約破棄をしても僕は構わない。(この女優との)新たなる恋に僕は賭けたいんだ」
エネブは真剣にそう思ってしまう。女優との結婚はエネブに夢を与える。憧れていた女性との結婚。これ以上の幸せを求める必要はなかった。
まもなくエネブと女優との密会は週刊誌のゴシップ記事として再びブルガリアの国内に登場をする。
このゴシップ記事は理事長の目にも止まりなおかつ、エネブの婚約者にもわかってしまった。
怒る理事長はエネブをテニス協会名でツアートーナメントの期限付き停止を通告した。テニスプレーヤーにとって試合ができないことは死活問題ともなりかねない。
同じくゴシップを知る婚約者は。心優しき旧・貴族は今後どうなるのかとハラハラするのみである。家族や親戚縁者からは婚約を破棄してはどうかと安易に進言をされてもいた。
「あの無責任な男。テニスだかサッカーだか知らないがスポーツやるような奴にろくな奴はいないのさ。婚約を破棄してしまえ。もっと貴族にふさわしい身分の男を見つけなさい。私が紹介してさしあげたい」
家族間ではエネブの悪評ばかりが独り歩きをしていく。
婚約者は塞ぎ込んでしまう。自室のベッドでワンワンと泣き崩れていた。
短い間ではあるがエネブを婚約者として愛した痛手は簡単には治りはしない。
婚約者のシクシクと泣く悲しみな声はソフィアから遠く離れたリラの僧院にある天使(ブルガリア正教)に届く。
「何を貴族の娘は悲しいのだ。このリラの山の中にまで不幸を伝えてしまうぞよ」
リラの天使は大きな欠伸をする。ここしばらくはブルガリアには平和な時だけが流れていた。
「そっ平和だったなあ。1991年ソ連崩壊まではやたら忙しい天使だった」
ソ連が崩壊し東欧諸国に自由主義の風が巻き上がると、
「このままブルガリアも落ち着きを戻すであろう」
ブルガリアの平和を見届けて天使は眠りについていた。
それが乙女の涙で眠りから醒める。
「なんであろうか」
山深いリラにまで乙女の辛い悲しみがやって来た。天使はよっこらしょっと身を起こした。パンパンと手を打ち侍従を呼ぶ。
「眠気醒ましに何かもらいたい」
侍従はかしこまりましたと引き下がる。
「天使さまには温かな飲み物を用意致します。お待ちくださいませ」
天使はもう片方の目を開けた。ゆっくりと侍従のサービスした飲み物をたしなむ。
「うーんうまいなあ」
目覚めたらばブルガリア正教僧院の聖なる壇を見やる。手鏡を覗くかのごとき遠く離れたソフィアを眺めてみた。
天使の片目にはエネブがしっかりと映る。美しい女優と仲睦まじき姿であった。
「この青年は。確かテニスボーイであったはずだな(何をしているのだ)」
天使はすっかり覚醒した。もう片目をパッチリ開く。こちらにはシクシク泣く乙女の顔を見据えた。
「可哀想なことじゃあないか」
サービスをするために天使に付き従う侍従。ことの顛末を伝えていく。
「なっ何んじゃとおっ。エネブがそんなことをしでかしたのか」
冷静な侍従からの報告は無機質に伝えられた。見る見るリラの天使の顔が怒りに変わる。その日スタジオの片隅にあみはいた。お笑いタレントの冠トーク番組の収録をあみはかなりこなしすでにベテランの域である。
「番組の中で出演回数が増え私が脚光を浴びることになるのね。テニスの福井さんがゲスト出演して以来なんかかんかと私はイジラれっ子だけど。この番組で言う新人・中堅・ベテランという階段を私は登ったんだわ」
ベテランの出演者あみは広いスタジオの中に小さくなりながら本番を待つ。
司会者冠トーク番組の収録スタジオには女性タレントが常時30〜40登録をされていた。その日のテーマや時事問題に対応しながら司会者とプロデューサーが出演する女性タレントを決めていた。
アップツゥデート(話題性)が最優先である。だからただヘラヘラ笑っているだけの間抜けな女性タレントは敬遠をされてしまう。
司会者のタレントはお笑い芸人なのだがちゃんとした大卒。大阪でも屈指の名門大阪府大経済学部卒のインテリであった。
学生時代には公認会計士を目指す時もあり優秀な頭脳の持ち主である。その持ち主がお笑いと出合ってしまい人生が180度変わる。
府立大学の落研(落語研究会)のあまりにもくだらない噺や漫才をキャンパスで耳にしてしまう。
「そげな程度で笑ってもらえまっか。くだらんネタ振りやさかいお客さん笑わんのや。極端につまらないんや」
と落研の友人の前にシャシャリ出た。この一言はかなり物議をかもす。
元来から人前に出ることは大好きな性格。
子供の時から学校の成績もよく学級委員のバッチは常につけて小・中・高と進学している。目立つことは信条でもあるようだった。
「なんや台本に書いてあることをポツポツと漫才してんかって。こげんなしょーもない漫才に台本があるんかいな。ワイはてっきり適当にペチャクチャしゃべくりまくっとると思ったで」
くだらんとけなされた落研の学生から台本とはいかなものか簡単なシナリオの書き方綴り教本を手渡してもらう。
「文句たれよんならしっかりした漫才台本書けよ」
そんなつもりである。
「文章書きは好きやで。せやっワイが台本や台詞書いてしまえはええんやな。そげな退屈極まりない漫才なんぞなくしてしまうわ。待てやちゃんとしたオモロイ漫才を書いてやるさかいな」
台本シナリオを参考にしながら一晩の余漫才のネタを考える。かなり時事問題のエスプリ(皮肉)を込めた漫才台本に仕上がる。
「うーん我ながらまずまずの出来やな。ほなら漫才してもらおうか」
経済学部の落研の学生になにげなく漫才原稿を手渡した。軽い気持ちであった。
「日経とにらめっこしながらエスプリたっぷりやさかい。時事問題は確実に伝えてまっせ。漫才しっかりやってな」
これ。府大のキャンパスで大変な評判になる。府大の漫才ファンからまずは火がつき大阪の大学に拡がる。
「けったいやなっ。真面目くさった時事を一気にコキ降ろしな漫才や。あの落差はおもろいなあ。誰が漫才書きしてんねん」
たちどころに有名な台本書き、漫才シナリオライターとなる。
(学生時代は台本書きだけである。自ら芸人として舞台には立たなかった)
台本書きの噂は瞬く間に大阪に広がる。プロ漫才師も出演する演芸場にも名は轟く。こうなればしめたものである。ちょっとしたアルバイト収入となる。
「漫才台本原稿はバイトとしては高収入やな。だがワイは公認会計士さんになるんやさかいなっ。あんま遊ぶ暇(漫才書き)はないんや」
同じ立場の学生の中にプロの漫才師としてデビューを飾る者が出てくる。(京都産業大・立命館)
この学生漫才師たちの台本は全て手掛けることになった。
「同じ世代やさかい心が通じるんや。ワイの台本でプロ漫才やって。ホンマかいな。これってものすごう気分良さげやちゃうけ。元来産大や立命は笑いのセンスばりにあるんやで。ホンマやで」
受験間近の公認会計士の連結問題(難関)を解きながら腕組みをしてしまう。
公認会計士の試験はいつ受かるか受からないかわからへん。だが漫才台本は確実にお客さんに受けるんや(ワイは才能や。笑いの才能あるんや)
府大3年の秋。日商簿記1級を2回目の不合格となる。
「簿記と会計士は違うさかい」
簿記はダメだが公認会計士試験を腕試しで受験した直後である。
「まあなあっ会計士は最難関やさかい。3〜5年は受からないやろ」
日商もダメ。会計士も手が届かない。
いろいろ考え会計士の参考書を右に寄せる。頭の片隅に税理士受験もよぎる。
インターネットのパソコンを机の中央に置くと漫才の台本書きを初めてしまう。
こうして気がつくとお笑いの世界に台本脚本家として足を入れデビューを飾る。
府立大卒業したらそのまま大阪の漫才タレント所属(台本書き)となる。
「実はなっ。台本書いて安定した収入があるさかい大学院進学も考えたんや。京都大大学院か神戸大大学院やな」
会計士になれないなら大学の教授になりますと胸算用をした。
府大を卒業してお笑いの世界に身を投じたらまず驚くことがあった。
「なっなんだぁ」
たかが台本書き。しかも笑ってナンボの漫才である。文才さえあれば、笑って笑ってもらってなんぼの世界やっと気軽に考えていた。それが甘かった。
「台本書いてはる皆さん凄いわ。京大・神戸大・阪大がずらりやおまへんかっ。府大やなんて…いまへんで。藤本義一(先輩)はん」
生まれて初めて挫折感を味わう。さらには学歴コンプレックスが嫌というほど身につく。
「あかんわ。あないな国立大学出身さんに(台本脚本の)喧嘩を売って勝てるわけないやんか。ああっ逃げたーい」
大阪府立大学進学は高校時代参考書を3回程度繰り返して受験したら合格した。受験をした私立大学と府大から合格通知が来たから進学をしたまでだった。
「京大なんてどこの雲の上の上なんや。見ることさえもオコガマシイんやでぇ」
漫才の世界が思ったより厳しく辛いなっと新人社会人でわかる。
そこで学ぶのは、
「中途半端はあかんねん。漫才師なら漫才。台本脚本ならば大学院進学して教養を身につける」
実際大学院の受験パンフレットを入手した。(京都大学と神戸大学)
「いつまでも他人の漫才の台本を書いてばかりはいかんねんはずや。いずれ京大はんに負けてしまう。それならワイが漫才師になって京大はんの漫才台本でお笑いをしたらドヤろうか」
自らが漫才師になるきっかけであった。
府大出身は京大出身者に頭をペコリっとさげた。
「ワイが漫才やるさかい美味しい台本頼みます」
平身平頭だった。相手は雲の上の京都大学。自然に頭は下げられていた。
よろしゅう台本頼みます。ワテは一生懸命漫才させてもらいます。
謙虚な姿勢があったことと元来からお笑いの素質を持ち合わせていたのか、漫才師として人気が出た。
テレビ局のスタジオ。プロデューサーが本番数分前を告げる。
司会者が現れる。観客やスタジオの女性タレントには緊張感がピリッと走る。本番収録の重い雰囲気となっていく。その他大勢のタレントあみも同じである。
あみはこっそり座り観客からは目立ちはしない。
この重々しい雰囲気の中気難しい司会者とタレントたちのトークのやり取りは始まる。
トーク番組の台本はプロデューサーと司会者が阿吽の呼吸で仕上げていた。
阿吽の呼吸。たいした内容は決めてはいない。その場その場のハプニングを切り抜けてのハラハラドキドキが番組の売りである。ハタには女性タレントの適度なイジメが笑いを誘い高視聴率に繋がる。
司会者が女性タレントにあれこれとテーマを振る。ひとり目のタレントで思うような笑いがスタジオの観客から取れるならばよし。
ダメならば2人目に3人目にとトークが移る。スタジオ収録なので放映段階でいくらでも編集作業が効く。
そのタレントたち。気難しい司会者が思うようなトークのやり取りをしてくれたら文句もないところである。
「せやなあっ。トークでこう言うたら、ああ言うって…。ワイの方もお笑いの計算がなかなかできないさかい」
長年この冠トーク番組をする司会者自身もタレントからの話の振りには悩むことであった。女の子のトークの内容に当たりハズレがありかなりの率を占めてしまう。
「その当たり外れの点やけど。あみにトークを触ればまずは間違いのない受け答えを返してくれるんや」
司会者からはあみは安全パイであった。いくら不用意に振り込み(ミストーク)をしてもそれなりの受け答えはあみは期待できた。それなりのお笑いをあみにより誘い出され切り抜けられた。
「あみは切り札やさかいな。困った時のあみ頼みやな」
司会者からの信頼は抜群であった。
「トークの女王さまやなあみはっ。なんやろかっトークで困った表情になると可愛らしくペロリッと舌を出しまんやろっ。あれが自然な姿やさかい視聴率アップの好感度さんに繋がるんやで」
数多くいる女性タレントの中あみの存在は光輝いていたわけである。
そのあみは番組収録がどんどん進行していくポイント、ポイントで可愛らしく受け答えをしてくれる。司会者がポイントをトークのムードを変えたい。話題をこちらにしたい。いやあちらにとした場合に役に立つのはあみのトークであり笑顔だった。
トークの笑い軌道の修正に司会者からあみに話がいつも振られる。あみの立場は多数いる女性タレントの一員から準レギュラーとなった。
トーク番組の収録が盛り上がりつつあるところである。司会者は笑いのピークを迎えそうだ趣向を変えないとマンネリ化してつまらない。トークの風向きを変えてやりたいと思った。
「このまま盛り上がりの雰囲気を崩したくないさかい。あみ頼むで」
観客が涙を浮かべて笑う最中に司会者はキッとあみを見据えた。
「…ホンマやなあっ。さいでっか。じゃあ次のテーマにいきまひょ。えっとでんなっテーマを考えたらっ、せやなあ」
司会者は手元のファイルをペラッとめくるふりをする。(トークを変える合図になる)
ファイルには取り立て何も重要なことなど記入されていない。形だけの話である。
「えっと重要なファイルにはやなあっ。あみちゃんにすべてを聞けになってまんにゃあ。ホンマかいなあ〜ドヒャア」
司会者は見事なお笑い芸人振りを見せておどけた。観客たちは一同ドッと笑った。お笑いトークの潮流はあみに注がれた。
「ええかっ。シャキッてしながらあみちゃん聞いてな。しっかり重要ファイルの強行指令を聞いてなっ。ほなっ行きますよってになっ。ファイルナンバーは♯1(いぃち)やねん」
司会者のナンバー1の合図でスタジオ内の照明は消された。司会者とあみだけのピンスポットになる。トーク番組で最も盛り上がりを見せる瞬間だった。
司会者は真面目な顔をし低い渋めの声を絞り出す。お笑い芸能人の司会者。笑ってもらってナンボ。スタジオの笑いは最高のボルテージになった。
お笑い芸人の驚きの雰囲気が見事に演出されいかにも何か出る出るぞっともったいをつけた。
司会者はあみにすべてを託す。
(恐しい声で)強行指令をあみに命ずる。言われたあみは心底怖いと恐れおののく。
お茶の間のファンはあみが可哀想だ。なんとかしてやりたいと同情を買う。
「なんだあみちゃん。今日も司会者にやりこめられている。可哀想だ。僕が守ってあげたい」
あみの守護神を名乗る男性ファンがトーク番組の視聴率をはねあげた。
スタジオの照明はパッと点灯する。
「まあっこんなんでっけど」
スタジオ内は名指しをされたあみが小さく縮みこんでいた。猛獣に狙われた子ウサギのように震えていた。可愛らしく両手で顔を隠す。その仕草は至って可愛らしく守ってやりたいアイドルである。
トーク番組の収録が終わりあみはマネージャーの元に行く。
「あみさんご苦労様でございました。本日のスケジュールはこれにてお仕舞いでございます。名古屋への新幹線まで時間がありますから夕飯を取りましょう。新幹線八重洲口のレストランに予約してあります。このレストランからコマーシャルの依頼ございますから」
マネージャーから事務的に言われてあみはホッとする。
「ああっこれで名古屋に無事帰れるわ。疲れたから早く新幹線で寝たいなあ」
夕飯はいらない。新幹線でお弁当を食べていきたかった。
あみとマネージャーがスタジオの楽屋から出る時である。司会者のマネージャーが走り寄る。
あみはサッと身構えた。
「人一倍女癖が悪いあの司会者だから」
マネージャーを使ってあみを誘い出す算段ではないかといぶかしげとなった。
マネージャー同士2〜3言葉のやり取りがまずある。
「どうせあみにチョッカイでしょう。あのタレントさんの手の早いことは有名でしょう。ダメダメ!あみさんはお相手にはなりませんわ。なんでしたら同じトーク番組のお色気たっぷりのタレントを代打にして紹介しますわ」
身振り手振り。マネージャー同士あれこれ誘惑と苦情の顔つきであった。
「いやぁ〜手が早いって言われても。ウチの先生(司会者)は純粋な気持ちからあみさまをお食事に誘いたいと申しております。普段のトーク番組であみさまのアドリブの良さ、機転の利くトークにウチの先生はお礼がしたいと申しております。ですからあみさまには直にお礼をしたいと先生は申しております。ほんの少し、数分でよろしいですから。携帯で先生と話していただけたらそれでよろしいのです。あの先生はダメなものはダメだと納得もいたします。宜しくお願い致します」
司会者のマネージャーは深々頭を下げ携帯を手渡す。
あみは困ってしまう。マネージャーが断りをしても引き下がらない。
「弱ったわね。(司会者との夕飯は)ダメだと断りをして後々嫌がらせをトーク番組でされたら事だしね」
あみのマネージャーは弱ったわねっとスーツ姿で腕組みをする。独身30女のバスト85が白いブラウスからこぼれ強調された。
マネージャーは携帯電話を受ける。あみに代わることを許可したことになるが。
「あみさん。あの司会者から誘いがあるでしょうが決して断りはいけないの。今夜は時間がないから名古屋に帰れるからとしっかり言って。で食事を誘ってくるからその場合私に電話を代わってちょうだい。私の力量でうまく丸めこみますわ」
府大卒業のインテリタレント。理論づけて説明したらややこしい難問は言わないであろうかとマネージャーは判断をした。
あみは携帯を受け取り司会者と話すことにする。
もしもし先生ですか。ありがとうございます。あみでございます。
あみが消えかけそうな声で携帯に話掛けた。
電話の向こうからは司会者の快活な関西弁が聞こえてきた。
「おおっあみちゃんやないか。ウチのマネージャーがそこにいてまんにゃあ」
さっそくにあみを口説きに入る。今から夕飯を食べにスタジオを出るからあみもあみのマネージャーも付き合ってくれっと。
あみはマネージャーから言われたとおり決して断りは言わずただ新幹線の時間がないからとだけ申し置きをする。そしてスケジュール云々はマネージャーですからとマネージャーに携帯を渡してしまう。
「もしもしマネージャーでございます。お食事のお誘いありがとうございます。いががでしょうか後日改めてとされましては」
マネージャーはあみが新幹線の時間がないこと。名古屋に戻ってしまえばいくらでも時間が作れること。(言外に売れっ子タレントの司会者。まさか東京を離れることはできないと踏んだ)
「名古屋で食事かいな。アカンアカンんで。ワイは東京離れられへんさかいな。なあマネージャーはん。ちょいの間でいいさかいあみと二人逢わせてぇーな。あんじょ優遇するさかい。今からスケジュール空けてえなぁ。新幹線やったら深夜近くまでナンボかて走ってまっせ。なんやったらワテの事務所のハイヤー使ってくれや。朝までに名古屋に行けばええやろっ。あみのスケジュールどないなっとるんや。マネージャーはん子細に教えてんか。急ぎなんか。真っ赤な嘘やろ。明日はあみは足開いてお昼寝してんとちゃうか」
あみクラスのタレントが多忙なんてことはまずあり得ないと司会者は頭から見下した。
マネージャーとの押し問答を繰り返していたら。
「ちょっと待ちなはれ。新幹線の時間ちょっとちゃいまんな。最初に言うた時間より2時間ばっか遅いでんな」
マネージャーは八重洲口レストラン(コマーシャル打ち合わせ)のスケジュールをひた隠しにしていたことが仇になった。
「2時間もあみは東京でなにしてんねん。ワイに嘘ついてからに。不愉快やなあ。ホンマのこと言うてぇな」
こうなると黙らない男だった。4の5のと繰り返していたらあみの楽屋にノコノコと司会者は携帯を耳に当てながら現れてしまった。
あみもマネージャーも観念してしまった。
八重洲口のレストランの一件は司会者に直にばれた。
「なんやそんなローカルな営業かいな。ワイも同席するわ。そげなことならええやろ。レストランのオーナーも喜びや。(売れっ子タレントが)ギ
ャラなしで行くさかい」
こうしてあみに司会者はうまうまとプライベートでも接近を果たす。
あみと逢うのは必ずマネージャー同士も同席させる。この男女の問題は長い芸能生活から出た悪知恵が如何なく働く。あみに連絡は必ずマネージャーを通した。あみのスケジュールに無理がないようにとの配慮もあった。
あみを誘うは必ず食事である。それはホテルのラウンジであった。このタレントの下心丸見えだった。
あみと二人だけの密会は決してしない。番組の出演者グループで逢うとか、マネージャーを交えてとか。
既婚の司会者である。女遊びにはこと神経質になっていた。芸能週刊誌には度々ゴシップが載ることも愛嬌のひとつではあった。
週刊誌に載る相手とのスキャンダルだが本気・浮気・遊び相手と個人的に使いわけていた。
年齢が10歳も20歳も離れたあみである。実の娘とあみはさほど年齢差がないくらいだった。100%遊びである。オキャンな娘のあみを手籠めに出来たらそれで満足をする。
困ったのはあみ自身。そしてマネージャーであった。
「いつまでもオメカケさんのつもりでチョッカイ出されていたら」
そのうちに芸能週刊誌が嗅ぎ付けて来る。新進気鋭な女優あみのスキャンダルとなりそうであった。
マネージャーとしてはあみを一人前の女優/タレントに育ててみたいと自負をしていた。
「年末にはスペシャル番組で女優あみがお茶の間に流れていくというのに。イメージが最高にいいはずがスキャンダル発覚でオジャンになってはすべてが水の泡ね」
頭が痛い痛い。
マネージャーを交えての食事の最中のことである。ついにタレントはあみとだけの時を持ちたいと話を切り出した。突然にマネージャーに向かい、
「マネージャーはん。ワイとあみちゃんなあっ二人だけになりたいわ。長い付き合いってもんがあるさかいな」
司会者は真顔で我が儘を言い出した。
「マネージャー同士がこの食事のテーブルから消えかけたらそれでワイは満足やねん。なあ満足やでぇ」
司会者は自分のマネージャーに何やらこそこそ耳打ちをする。手を差し出し内緒話になる。時折あみのマネージャーを横目で眺めヒソヒソ話になる。
あの女性マネージャーはんは30越えてはるやろうけど。ええ体してんでぇ。おっぱい揉んだら最高や。(ワイのマネージャー)頑張って口説きいなあ。あのインテリ風のスーツ姿たまらんぜ。スカートめくったらヒイヒイ言うって喜びだっせなあ。
だからマネージャーは頑張って引っ張り出してどこかに消え失せろである。
言われたマネージャーはタレントに絶対服従の主従関係である。嫌という選択肢はなかった。
「いかがでしょうか。マネージャー同士積もる話もありますから。僕と違うラウンジに参りませんか。さあさあエスコート致します」
マネージャー同士という大義名文を言われたら。30独身女の手を強引に握りしめた。嫌だ断りますっと言う隙はまったくなかった。
マネージャーたちは瞬く間に司会者とあみの視野から消えた。
「星野。やっとこさ二人っ切りやな」
ギラギラし視線をあみに投げかけてきた。獲物を捉えたライオンか黒豹である。後は煮て喰おうが焼いて喰うかタレントの好き放題である。
一方連れ出されたあみの女性マネージャー。強引にラウンジで手を引かれやめてくださいの一言も人前では出せなかった。
「痛いです。お願いですからもう手を離してちょうだい。あみをひとり置いておけばあなたはマネージャーとして満足なんでしょ」
力任せにラウンジからホテルのロビーに連れて来られ女性マネージャーは怒り心頭である。
「ハイッすいません。手荒な真似をしてしまいました。この場で謝罪したいです」
司会者のマネージャーは深い御辞儀を繰り返した。
我が儘なタレントのお守りだから頭を下げることは日常茶飯事である。
謝りながら30独身女のスーツなり体なりを改めて見た。
「セクシーな体だなあ。確かにいい体型をしているわ。おっぱいもでっかいや」
改めて謝罪の意を表してマネージャーとしてあれこれと相談したいと申し出た。紳士的な態度に改めたら怒りはじわじわと消えていく。
マネージャーがいなくなりテーブルで怯えるあみは追い詰められた兎さんであった。
「どやっ。ワイと二人だけの夜を過ごせへんか。あみにしたらかなりのメリットいうもんがあるはずや」
(一夜だけの彼女になれ。ホテルのルームは予約してある)
タレントはラウンジのウェイターを呼んだ。
「このテーブルは御開きにするさかいな。会計してくれまっか。(テレビ局隣のホテルの)ワイのルームにやなオードブル持って来てんか。あみは未成年やったな。ジュースでよかったな。オレンジかいな」
ウェイターが会計伝票を持って来る。
ホナッあみ行こうか。
あみは頭から拳銃をつきつけられたようにタレントの後ろを従順について行ってしまう。
テレビ局のラウンジから系列のホテルへノコノコと。建物自体が局と連結されており関係者以外まったく人目がないままルームに潜み込めた。
このタレントが適当に女の子をつまみ食いをするいつものルートであった。
タレントは部屋に入るとあみを抱きしめた。
「あみ。ワイはお前を初めて見た時から好いとんや。この切ない気持ち汲み取ってくれるか」
あみの体をグイグイと力任せに抱きあげた。無抵抗なあみだと知ると口唇を奪った。
あみは泣き声をあげたくなる。
お兄ちゃん助けて〜お兄ちゃん助けて〜近藤がATPで健闘をしていれば父親たちはバイオの世界で研究に余念がない。近藤とエネブの父親は自然を相手にバイオの研究で戦っていた。
名古屋大学大学院農学研究の近藤助教授(父)。花卉のオーキシン研究が専門の学者である。
この分野は日本で後発。日本という土地に花卉の開発は花の愛好家が積極的に取り組むが大学なり研究団体が本腰を入れたことはあまりなかった。
そんな花卉を含む花弁種子学の学会。学術会議が英国のニューキャッスルで開催されることになった。
バイオの最新なる世界を知るチャンスである。世界の大学/大学院農学系が集まり日頃の研究を発表する学会となっていた。
「日本の花弁品種改良は世界から見たら後進だと思う。東大・京大は元より花や果樹の権威ある東農大も真剣に取り組むべきだと私は思う。なんせ研究の成果が出るのに時間がかかり過ぎる世界だ。だからこそ研究対象として大学がやるべきだ」
近藤助教授はいぶかる。
「若手の学者がいやがるのはここにある」
学会開催のインフォメーションは日本各地の農学部/理学部にインターネットで流されていた。だが出席の返答率は芳しくない。
「諸大学の先生がたは忙しいのか。はたまた花弁そのものに興味がないのか」
出席を希望される教授は皆無だった。大学は元より農芸研究室や国立緑化センターなど花の品種改良に取り組むべき研究者らにも報せは届いているはずだが。誰ひとり出席の返答をせず見向きもされなかった。
インターネットを検索した近藤助教授。腕組みをする。
「私は学会開催を見てしまった。この学術会議を知ってしまった」
近藤助教授は大学を通して文部科学省に問い合わせをする。
「学術会議は私の専門分野であり研究の研鑽を深めるチャンス。必要不可欠なことである」
名古屋大学からの学会派遣を申請をした。
省からの返事は早かった。
「役に立つなら行きたまえ。無用の話ならばキャンセルしたまえ」
近藤助教授は学会出席の意向を示した。早速に発表をする学術論文を書きあげる。
「出席が私ひとりだけになるのなら日本を代表することになる」
近藤助教授はそのためにさらに責任を重く感じ研究に没頭する。約半年の猶予で論文は書かれることになる。
「それだけ熱心でも監督官庁ですら花卉/花弁を軽々しく考えるぐらいのことなのか」
近藤助教授はそれならば日本の大学を代表して出席をしてやろうと並々ならぬ意気込みを見せていく。
同じ英国学術学会の開催の報せはブルガリアにも届く。
薔薇の花卉学の第一人者ブルガリアのカザンラク大学エネブ教授。さっそくに出席の要請があった。
「ブルガリアは花卉の研究では世界の最先端に位置する。私は学術研究の成果を世界に発表をする義務がある。ブルガリアに生まれ育ち研究しているからには」
ブルガリアはホスト国英国に早々と連絡を入れた。
「喜んで参加いたします。ブルガリアからは第一人者のエネブ教授を出席させます。ノーベル賞に最も近い教授です。よろしくお願い致します」
近藤の父親(名大助教授)
とエネブの父親。学術研究には人一倍の研究心がある。
だが互いの息子が世界テニスで競い合っているとはまったく知らなかった。家庭のことはすべて奥さん任せの学究肌という男たちである。
助教授も教授もお互いに子供が三人。年長のエネブ教授には長女に孫が2人いた。
二人は仲良く英国の学術会議で初顔合わせをする。息子同士はすでにJr.時代から知り合ってはいたが今度は父親同士の番であった。
世界花卉の学術学会は英国開催。日程はウィンブルドンの開催と同じであった。
近藤やエネブが目の色を変えてウィンブルドンを目指す頃。
名大の研究室では近藤助教授が朝から晩まで顕微鏡の前で悪戦苦闘である。
「オーキシンの働きが花卉にどのくらい影響なのか。具体的な事例を示してやりたい。私の研究対象としての野菜や花を数値で表すことにしたいのだ。いかなる植物でも数値データで表せば学術的に成果がわかる」
息子がコートで汗だくになる。父親は大学で顕微鏡の前で冷や汗をかいて研究課題をこなしていく。
エネブ教授。こちらはノーベル賞を今年か来年か受賞かの学術研究内容であった。
「バラの花卉は神秘である。研究過程で知れば知るほど奥の深まるバラの世界だ」
エネブ教授にしてはバラは子供より子供らしいものであった。
こうして英国の学術会議には名大から近藤助教授。ブルガリアからエネブ教授。息子同士が世界テニスで戦う父親は奇しくも英国の空の下出合うことになる。
英国に夢を馳せているのは父親たちだけではなかった。
近藤は長くお世話になった星野コーチにお別れの挨拶をしていた。
「星野さん。僕が決めたことです。しばらくは欧州テニスで揉まれてこようかと思います」
近藤は深い御辞儀を育ての親星野にする。
テニスクラブのラウンジ。星野は腕組みをしたまま一言も喋りはしない。
愛弟子近藤にしっかりやれとかっ頑張ってこいとか。
腕組みのまま天を仰ぐばかりである。
近藤はクラブの職員たちにお別れをするためあっちこっち走り回る。
「このクラブにはお世話になった。子供の時から僕はテニス一筋で来たんだなあ。だから欧州で一旗挙げてやりたい。星野さんの期待にしっかりと応えて世界テニスで通用する選手となるんだ」
近藤はクラブの女性事務員から花束を貰う。
「今日ここにあみちゃんがいたら(あみちゃんが渡す)花束だけど」
タレントになったあみは滅多にクラブに顔を出さなくなってしまった。
近藤の欧州行きすら知らない。
「あみが僕のテニスの心の支えになっていたな」
花束を受け取る近藤。ふとクラブハウスのセンターコートを眺めた。
日夜激しく練習を星野コーチと繰り返したセンターコート。練習がきつく近藤が弱音を吐きそうとなるとあみが後ろにいてくれた。
「練習の苦しい時にあみの笑顔を見ると心が和んだ。あみのお下げ髪が風に揺らぎ僕はしっかりテニスをしなくちゃあっと再びコートに戻って行く。あみがいたからあみが心配をしてくれたから」
近藤の心にはお茶目なあみがいつしか大半を占めていた。
「センターコートは星野さんの猛練習よりあみのお下げ髪が印象だな。不思議なことだ」
クラブの女子事務員からあみの最近を知らされる。
「あみちゃんはすっかり売れっ子のタレントさんですの。ウチのクラブの宣伝ポスターはあみちゃんですの。また東京のテレビ局ですけど人気のあるトーク番組のレギュラーになっていますわ。えっと年末の特別長編ドラマには女優として出演されてます」
あみの活躍を聞くに及び近藤は心苦しくなる。
あみはタレントに邁進している。だが僕は世界テニスにまだまだ邁進していない。あみよりも遅れてしまった。挽回をしなくてはならない。
近藤は今日限りで使わない携帯を取り出した。
「あみにお別れのメールをしておこうか。タレントあみのブログも開示してみるかな」
近藤は贈呈された花束をラウンジのテーブルに置く。携帯サイトをクリックする。メールを送信する。
「僕は決心をして欧州に行くよっ。ゴールは英国ウィンブルドンになります(予定)。あみのタレント活動楽しみにしている」
近藤はあみのメールにウィンブルドンと打ち込むと胸が張り裂けそうになっていた。
あみには嘘はつきたくはない。ATPランキングをアップさせればいけないこともない。
ウィンブルドンへ行きたい。
近藤はクラブハウスから離れ身支度を整える。家族の者に別れを告げセントレアに向かう。日本を飛び立ち約13時間フライトしてドイツはフランクフルト空港に到着をする。
「フランクフルトを経由してソフィア(ブルガリア)だな。エネブに逢うのは久しぶりになるなあ。ATPランキングを見る限りかなり頑張っているじゃあないか」
近藤は長いフライトの末ソフィア空港に無事到着をする。
「そこにいるのはジャパン(日本人)か。よおっ〜懐かしいなあ近藤じゃあないか」
空港ロビーでブルガリア人に声を掛けられた。クルリっと振り返ると懐かしい声はライバルのエネブだった。ニコニコ笑いながら手を振る。
「久しぶりだなエネブ。どう元気だったかい」
近藤とエネブはガッチリと握手を交わす。
思えばエネブと逢うのはインドのニューデリーF優勝以来だった。
空港からはエネブの運転する車でソフィアテニスクラブに連れて行かれる。クラブはブルガリア国営でテニス協会事務局になっている。
空港からは緑の多いソフィアの郊外を心地好い風の中走り抜けた。
「近藤。ブルガリアテニス協会は君を歓迎している。理事長が是非逢いたいと首を長くして待っているんだ」
理事長だけでなくブルガリア日本大使館も同様であった。日本大使館からは愛知県出身の副大使がクラブに招かれる。
同じ愛知県の近藤の到着を待っていた。
ソフィアで熱烈な歓迎を受けた近藤。身の引きしまる思いで歓迎パーティに出席をした。
パーティはブルガリアテニス協会理事長から挨拶をする。
「我が国ブルガリアの期待の星エネブ。そのエネブとライバルとも言えるジャパン近藤を大歓迎をしたい」
理事長のライバル関係であるの部分を通訳されて近藤は少し恥ずかしく思う。
「エネブとは同年であるがライバルだとは。そんな意識をATPの試合で持ってば僕もかなり優秀なプレーヤーの仲間入りだろう」
続いて日本大使館は副大使の挨拶になる。副大使は自らテニス愛好家。近藤と同じ愛知県だからついつい熱が入る。挨拶は英語と日本語でわけて行われた。
「我が国日本の最優秀なるテニスプレーヤー近藤くん。ソフィアの地で思う存分にテニスを頑張ってもらいたい(英語)」
日本語では日本とブルガリアとの友好親善にテニスが役に立てば幸せであると強調をした。
一通り歓迎の挨拶が済めば副大使はグラスを傾けた。ホロ酔い加減で近藤に近寄ってくる。
「近藤選手はじめまして。僕は名大出身でね。お父さんの近藤助教授とは学生時代からの知り合いなんだ。なんとなく父親の面影があるね。懐かしいよ」
副大使は近藤がJr.時代から名前があったことを知っていた。
「まさかね近藤の息子がプロにまでなるとは想像さえしなかったが」
今後はブルガリアの期待の星エネブとダブルスパートナーを組む。世界テニスを転戦をするつもりであった。
「ありがとうございます。日本に帰国しましたら父に報告をいたします」
遠く日本を離れてまで父親の功名を聞くとは。息子は嬉しかった。
歓迎セレモニーが終了する。近藤はエネブと供にブルガリアのマスメディアの取材を受ける。
「近藤。取材は君だけにしてもらえよ。僕は少し疲れたから先にホテルに帰りたい。近藤がホテルに戻ってきたら連絡をくれよ」
エネブは雑誌記者を避けるようにして退座してしまった。逃げ足はいたって早く捕まえられはしない。
エネブが協会主催の歓迎パーティを逃げるようにいなくなると雑誌記者たちはエネブを追い掛けた。
エネブ逃げるなよ。女優との関係をちゃんと説明してくれないか。君には確か婚約者がいたな。彼女とはどうするつもりなのだ。
雑誌記者たちは近藤のインタビューそっち退けであった。
「なんだろうか。なんの騒ぎだ。ブルガリア語はさっぱりわからない。エネブはブルガリアで人気のテニスプレーヤーなんだろうな。だから追い掛けられているんだ」
ことの騒動がよく理解できなかった近藤。テーブルに出されたイカのリングを手持ち無沙汰からパクッついた。
「あれっイカなんだけどヨーグルトの味がするぞ」
翌日から近藤はエネブと供にクラブハウスに姿を見せる。
「近藤しっかり頼むぜ。ATPランキングをお互いガンガンアップしてやろうじゃあないか。全米は無理。ならば来年の全豪は出場しようじゃあないか」
この時ATPランキングは
◎シングル
近藤300位後半
エネブ250位前後
◎ダブルス
近藤200位
エネブ600位
シングルはエネブ。ダブルスは近藤。仲良く二分されていた。
エネブはチャレンジャーでそこそこ勝ち上がる実力を備えつつあった。
近藤はシングルがどうしても勝てない。
「僕にはチャレンジャーが重荷となる。まだまだ未熟でありプロ意識が薄い。エネブに追いつきエネブを追い越していかないといけない」
ブルガリアのテニスコーチにつき近藤は初歩的なストロークから軌道修正をしていく。
近藤を見たブルガリアナショナルコーチは、
「うーんチラッと見た限りだが」
近藤のストロークは体重移動に難があるのではないかとナショナルチームらは見解を示した。
「どんなことをしてもコートに入れようとするから小手先の技術に先走り気味である。いかなるフォームでも構わないが力強いストロークを打ち込んでもらいたい」
近藤の欧州テニスはここから始まったようだ。
エネブは近藤との連日の練習で技術を高めていく。エネブとしてはシングルもダブルスもそれなりに修得ができるため勢い成長の跡が見られていた。
「よーし近藤とエネブ。練習はそれくらいでいいだろう。30分後に練習試合をする。カウントを数え勝ち負けを記録として残しておく」
実戦形式の試合が始まる。近藤もエネブも目の色を変えてラケットを握りコートを走り回った。
エネブには負けたくはない。ATPランキングが僕より上の男には負けたくはない。エネブ覚悟をしておけ。君がチャレンジャークラス(ATP200位前後)でアップアップしている時に僕は知らぬ間にグランドスラムさ。
いやっ近藤。何を間違っているんだ。その考え方はおかしいぞ。そうはさせないぜ。安易に僕を負かせると思うなんて君は甘いな。ブルガリアテニスの貴公子エネブさまをなんと心得る。近藤のストロークなどはエネブさまにはまったく通じないぜ。
近藤とエネブ。がっぷり四つに組み少しも後に引き下がらない。
練習試合はいつも白熱したものとなり両者気合いが入る。
エネブの強烈なストローク。近藤は最初レシーブミスが若干見られた。だが実戦を繰り返していくうちに打ち込んでいける。
二人の練習が進みいよいよATPに参戦することになる。
「フューチャーズから参戦となるのか」
近藤はトーナメント参戦をグッと噛みしめた。
シングルは近藤とエネブの決勝を夢に見る。ダブルスは優勝である。
世界テニス初歩のフューチャーズクラスは卒業をして次の段階中級クラスチャレンジャーにステップアップしたい。
「近藤っATPランキングを大幅にアップさせてくれ。初級クラスはしっかり勝ちあがろうぜ」
練習試合の前にエネブから近藤にゲキが飛ぶ。
近藤としてはシングルATPランキングが低いので苦労するかもしれない。
「ああわかってる。エネブの足手まといにならないようにするよ」
近藤とエネブの欧州テニス挑戦はこうして始まった。
二人三脚の二人。日本の若武者とブルガリアの貴公子。
ホテルの一室。中年の男が息も絶え絶えに騒ぐ。
「観念すんやなっ。大人しゅうするんやったら手荒なことせぇへんさかい。いい子ちゃんでジッとしてなんやで」
普段ニコニコしているお笑いタレント。ホテルの一室にあみを誘いこむと豹変した。
ふたりだけになる。あみはなす術もなく一方的に抱きしめられてしまう。興奮状態のタレントにされるがままなすがままである。
あなたなんか嫌だからっと逆らったりしたら平気で暴力を振うかもしれない。か弱いあみなど一撃でのされてしまう。
ホテルの部屋の壁に押しつけられたあみ。顔を横に振り嫌がるも強引に口唇を奪われる。男の体臭がムッと感じられあみの全身に虫酸が走る。
「せやっ大人しゅうしていたらいいんや。悪いようにはせんさかいなっ」
服の上から胸をわし掴み。あみの小さなブラジャーはクシャクシャに扱われた。力任せに揉むからムギュっと胸をつかまれる。あみは快感よりも何よりも痛くてたまらなかった。
「なんや小ちゃいやんか」
あみのプライドを傷つける。
あみのスカートに視線をやる。細く形よく伸びた足が気になった。スカートから覗く太股に興奮した男。手がスルッと延びた。しっかり閉じた両膝を触り始めた。
「あみっ。足をガバァって開けやあ。パンティ触れへんやんか」
あみは恥ずかしさから両手で一生懸命にスカートを防御をする。男の力には簡単に屈する。あみの下着は露になってしまう。
あみは抱えられてベッドの上に転がされる。
男は上着をあわてて脱ぎ始めた。上半身裸になるとベッドに横たわるあみの上に覆いかぶさる。
「あんさはん。逃げられへんねん」
あみは恐怖から顔面蒼白となった。頭の中は真っ白。ただただこの場から逃れたいだけだった。
男の手があみのスカートをまさぐり始める。
リーンリーン
あみのバックルから携帯の鳴る音。
リーンリーン
男はかなりの興奮状態。携帯の音など気になることもない。
リーンリーン
がそれでも長く鳴るために顔をあげた。
「なんや携帯かっ。誰も出んなって思ったらそのうち切れるやろ」
やがて呼び音は止まるだろうと知らんぷりを決め込む。
リーンリーン
神経質な男だった。やかましいわいと怒り出す。
「えい(携帯着信音は)やかましいわい。忌々しいでぇ」
男は諦めてあみのスカートから手を出す。
「(携帯に)出たりいなぁ(うるさいさかい)」
男の体重がどくとあみは床に落ちたポーチを広げた。
もしもし
近藤とエネブ。
欧州テニスをフューチャーズからふたり揃って参戦を果たす。
ATPランキングはエネブより約200位下の近藤。最初のうちエネブは本選。近藤は予選を余儀なくされた。
「ランキングはすべてに公平なんだ。僕が悪い。ランキングが低いのは僕が悪い」
しかしATPの試合も勝ち進むに従いランキングはあがりフューチャーズのシングル・カットオフ(ランキング)を楽々クリアをする。
「やれやれ。予選などという余計な試合がなくなって一安心だ。早くエネブにシングルランキングを追いつけ追い越せだ」
人一倍プライドの高い若武者。ガムシャラにトーナメントを勝ち上がる。
世界テニスは近藤とエネブは各々シングルとダブルスをエントリーしていた。近藤の得意なダブルス。エネブという黄金なるパートナーを得てからは勝ちに勝ちまくる。優勝〜ベスト4は常にである。
「ダブルスはミスが減り勝ち上がりの術を心に入れた。僕にはシングルが問題なんだ」
近藤はエネブと供にフューチャーズ・チャレンジャーとATPを戦うことを誓う。そのためにはシングルのATPランキングはエネブと近くしておかなくてはならなかった。
「近藤っ。今日の試合の敗因だが」
エネブは単刀直入に近藤に意見をする。サービスが不安定はなぜか。ストロークが時折敵に捕まり逆襲されるのはなぜか。
プライド高い近藤は最初エネブのアドバイスに耳を傾けたくなかった。
「言われなくてもわかることばかりさ。日本でも星野コーチから指摘されている」
欠点を言われ直せないからダメな近藤。わかっているけどできない。
だからライバルのエネブに言われてカチンっとなってしまう。プイッと膨れてしまい態度に出た。
「近藤。言われて悔しいのなら練習しようぜ。欠点を残してATPを勝ちあがれる程易しい世界ではない。お前がミスしたら俺は浮かばれないからさ」
エネブにすると黄金のパートナー近藤である。見捨ててしまうことは考えはしない。
こうして近藤はシングル試合巧者エネブにつき従いメキメキ実力をつけていく。
近藤とエネブはATPランキングアップをする。フューチャーズを卒業しチャレンジャーで戦う。近藤もエネブも未知なる世界に突入したことになる。
近藤はガムシャラにコートを駆け回りボールを追い詰めた。
「シングルランキングはエネブに差をつけるんだ。僕にはエネブというライバルがある。エネブを目標にしていける」
勢いに乗る近藤。欧州テニスで頭角を現してきた。エネブとのダブルスパートナーは、
「見事なコンビネーションだな。ブルガリアとジャニーズか」
テニス雑誌の記者たちにぼつぼつジャニーズ近藤の名前とそのテニススタイルが認識されつつあった。
「ジャニーズが欧州で連戦しているのか。まだまだATPランキングは低い。がいずれの日にかグランプリに出場してくるかもしれない。それにしても日本とブルガリア。いずれも女子テニスは有名だが(男子はさっぱり)」
記者たちは共通点がある両国のテニス事情だから馬が合うのかなっと冷笑していた。
まだまだ未熟な近藤たち。更なる努力を頼みたいところである。
近藤のランキングがあがる。エネブはATPの毎週発表されるランキングを見ていた。近藤のシングルがエネブとほぼ揃うことになった。
シングルもダブルスも…
「よし近藤。よく頑張ったじゃあないか。チャレンジャーに殴り込みだぞ。覚悟をしておけよ」
テニスの質がグンッとあがるから近藤よっ気遅れをするな。
ふたりはいつ終わるか分からぬくらい練習に励み互いのレベルを高めていく。
エネブは近藤というパートナーが嬉しくテニスが楽しかった。
近藤はエネブのテニスから学ぶことがあり勉強となった。エネブは欧州テニスの男。Jr.時代からあの広い欧州諸国を転戦した。
「テニスなんて単に来た球を打ち返すだけの単純スポーツなんだ。だからこそ打球ひとつひとつに意味を持たせなくてはいけない。単純だからこそ奥が深い。サッカーやバスケットとはまったく違って打球に意味がある」
エネブは不用意なショットを極端に嫌う。考えのまとまらないミスショットを毛嫌いした。ダブルスでもシングルでも近藤にストレートに問いただす。
なぜミスをした。どんな考えで今のショットを相手に打ち返したのだ。
近藤が答えられたらよし。それ以上は追及しない。だが返事いかんによっては容赦をしなかった。
「近藤ちゃんと答えろ。お前がミスしたんだぞ」
日本のテニスでは考えられない話である。欧州人スラブ民族のブルガリアだからこその意見の相違なのかもしれない。
言われた近藤も負けてはいない。
「いいぜエネブ。他の分野ならいざ知らず。ことテニスならばどんどん好きに言ってくれ。ATPランキングが上のお前に言われて僕は腹も立たない。下位の僕はエネブからみたら確かにテニスは下手なんだ。だからミスを認めて次に繋ぎたい」
試合でできないショットはエネブにしろ近藤にしろ徹底的に練習をした。夜間照明はいつまでも明るく点灯していた。
長い練習時間が過ぎたらふたりはロビーでラウンジでとことん納得が行くまで討論を繰り返した。
ダブルスのフォーメーションであったりサインの種類であったり。些細なことから重要なことから思うことは一通り言い放つ。
エネブも近藤もコートに入る際にふたりは一心同体となりたかったのだ。
やがてATPシングルランキングは近藤がエネブに追いつく。
ダブルスはエネブが近藤に追いつく。
今からがふたりの勝負だATP世界テニス。
近藤が欧州テニスで戦うある日。
よしこのサーブで決めてやる。ラストはサービスエースを奪取だ。
プチーン
なんと勢い余ってダンロップのガットが切れてしまった。近藤のサービスはコントロールを失い大きくコートを外れた。
「ガットが切れたなんて珍しいな」
近藤は新しいダンロップを取りにベンチに走った。ベンチに置かれた近藤のツアーバック。中を広げたら小さなロケットがコロンと転がり近藤の目に入る。ロケットの中にはあみが優しく微笑む写真があった。
「あみ」
近藤は新しいダンロップを取りただちにコートに戻っていかねばならない。
だがバックのロケットを開きあみの笑顔を見たくなった。あみに会いたくてたまらなくなったからだ。
欧州テニスでそれなりの成績を挙げたらいくらでもあみに会える。
近藤は最後のサービスを力いっぱいに相手コートに叩きつけた。
リーンリーン
リーンリーン
あみの携帯は鳴りやまない。いくらでもホテルの一室で鳴り続ける。
「おかしいわね。あみさん(携帯に)出ないなあ」
女性マネージャーはさらにあみの携帯を呼び続ける。この携帯に出ないということはあの手癖の悪いタレントがあみをどこかに連れ込んだのではないかと勘繰る。
リーンリーン
「なんやしつこいなあ。いつまで鳴ってんやあ」
男は焦れてあみのスカートから手を出した。あみに携帯に出ろっという合図である。
男はバツが悪そうにあみから手を離し頭をかきむしる。部屋のダイニングに行き冷蔵庫を探す。缶ビールを取り出した。
リーンリーン
ところがあみは放心状態のまま動けなかった。ベッドの上でボゥ〜としたままである。携帯の鳴る音もあみにはわからない。
「なんや。何してんねん。あんたの電話やさかい出たらええねん」
男は缶ビールをグイッと飲む。チラッとあみを見てからうるさい携帯に出た。
「はいもしもし」
女性マネージャーは携帯に出た"男の声"にビックリする。
「もしもし。こちらはあみさんの携帯ですね」
そちらにあみさんはいるのですか。いるのでしたら電話に出させてください、緊急な要件があります。私はあみさんのマネージャーでございます。
マネージャーは機転を利かす。あみはこの男にどこか連れ込まれてしまったのではないか。最悪の事態を危惧する。
携帯を長く鳴らし出ないことも。出たと思ったら男が出たことも更に不安材料になる。
「あんっあみか。あみならここにいてまんがな。ワイと一緒やがな。何ならすぐ(電話を)代わろかっ」
男はマネージャーの詰問口調にタジロギを感じる。マネージャーは男に疑いを持つ。話の節々にその感情が読み取れていく。
なんやこの女は。ワイがなんぞ悪さしたかのような口振りやないか。胸くそ悪いぜ。しかし女の第6感は鋭いさかいなっ。妙なこと口走ったらあれこれと詮索されよってに。言葉には気いつけんとあかん。
あみはワイが襲ったんやないっ。自分から抱かれたくてここにおるんや。
男はマネージャーからの詰問に正義の味方をなんとか装おう。
「ではあなたはあみさんが喜んで男と二人っきりとなるホテルに行ったというのですか。とにかく電話を代わってください。直ちに代わっていただけなければ警察に連絡をしますわ」
ゲッ警察やって。そんなんがここに踏み込まれたらワイのタレント生命はオジャンになるわい。下住みから築きあげたスターダムやお笑いの第一人者やさかいな。みすみす無駄にはしとうないで。いずれは人気も落ちてはいくやろがいきなりは御免やで。ましてや性犯罪なんて。
かといってボゥ〜としているあみに今からホィ電話だでぇ。代わってとんでもないこと言われたらカナワンさかいな。弱った弱ったでぇ。妙案はないやろか。
男は背中にビッショリ汗をかく。ワイシャツに汗のシミがべったりついてしまった。
なんとかこの気の強いマネージャーを説き伏せなくては活路を見い出せない。この手のインテリ女は苦手。顔を見ることも大嫌いな男であった。
「あのぉ何度も言いますがあみさんに電話は代わってくれませんか。急用なのですから。代われないのですか。正当な理由が言えないのでしたら未成年誘拐として私は警察に通報させてもらいます。あなたが(あみを)連れて行ったのはわかってますわ。誘拐されたと事件扱いにさせて頂きます」
詰問口調から命令口調に変わる。
誘拐…警察…未成年…あみの体
男の頭を週刊誌のゴシップ記事が踊る。ここで警察沙汰になればタレント生命は終わったも同然である。男は初犯ではなかった。
しぶしぶとマネージャーの言いなりとなった。男のしけこむホテルの部屋ナンバーをマネージャーに教えた。
数分後マネージャーはドアの呼び鈴を鳴らした。
対応した男はあくまでスットボケたふりを決め込もうとする。
「なんや近くにあんたさんいはったんやな。ご苦労様どやっなんならあんさんも中でいっぱいやりまへんか」
ドアを開けながら男は女性マネージャーを部屋に入れてしまおうと算段をした。
が…
開けたドア。女性マネージャーの後ろに二人の警察官が直立姿勢で立っていた。
男は観念してその場にヘナヘナっと腰砕けになってしまった。
二人の警察官が部屋に入り無事あみは保護された。
マネージャーがあみに問い掛けてもぐったりしていた。顔いろが真っ青なため救急車を警察官が要請した。念のための処置である。
慌ただしくあみが救急車から搬送される。
「見たところで何も外傷はないですから心配はありませんよ」
警察官はマネージャーににっこりとした。
「さて」
タレントにはキツい顔を向けた。署までの任意同行を要請をする。
男はビールの酔いが一気にまわったか真っ赤な顔になり警察官二人に挟まれて部屋を出て行った。いつもテレビでみせる饒舌はまったくなく無言であった。
マネージャーはあみの治療を待ってから父親の星野に連絡を入れた。詳しい病状を伝えなければならないと判断したからである。
あみは点滴を打ち軽いショック状態であると診断された。
マネージャーは医者の話を聞いて父親に連絡をする。
「今晩は。私はあみさんのマネージャーでございます。少し気分が悪いようで病院に向かいました。大したことはないのですが心労が重なりまして。先生の診断ではストレスだそうでございます」
タレントの男が原因で救急車をとは一言も伝えはしなかった。
翌朝一番の新幹線であみとマネージャーは名古屋に帰省した。
名古屋駅にはタレント事務所の社長と事務員が出迎えてくれた。事件の子細な様子は昨夜のマネージャーから電話で聞かされ知っていた。
車で栄町の事務所に戻ると父親の星野が顔を赤くして待っていた。
たったひとりの娘である。昨夜から心配で心配でたまらなかったらしい。鬼のような形相の星野が娘の姿を見てホロリっとなる。
あみ
娘のあみは父親を見て思わず泣き出してしまった。19歳の女子大生と言えどもかわいい娘であった。
社長は保護者の星野に会うと深々と頭を下げた。
「星野さん。大切な娘さんをこんな事件に巻き込ませてしまい申し訳ございません。深く反省をしております」
社長自らがあみをタレントにと星野に頼んだ経緯がある。
鬼の形相の星野。あみを抱きしめながら黙っていた。
父親としてはわけのわからないタレントなんかスパッと辞めさせたい。だが娘あみが好きで飛び込んだ世界である。他の女の子にはまずなれないような芸能の世界。父親があれこれと口を挟み出しゃばるような幕ではないような気もする。
要は娘のあみしだいだった。
社長があれこれと星野に釈明をしていると事務所の電話が鳴る。
「社長っ。東京のタレント事務所から電話でございます。例のあのタレントの所属する…」
電話に出た事務員は最後まで話を告げず受話器を社長に手渡した。
あのタレントからか。申し訳ないと謝りならば気が楽である。被害者はあみである。
社長はあのタレントの性格からして高飛車に出てくるのではないかと身構えた。
悪いのはお前んとこのあみや。あみが悪いさかい釈明の意志を表せやあ。ワイは大変な迷惑やぞ。身に覚えない事情徴収されたんや。これが週刊誌にバレてみん。どないするねん。ワイのタレント生命終わりやぞ。損害賠償求めなあかんわなあ。今後稼ぐギャラ。耳を揃えて賠償請求させてもらいまっ。ワイの稼ぎなんや。数億を覚悟せぇや。
社長は身震いしながら受話器を耳に当てた。
もしもし
電話の向こうは優しい声だった。タレント事務所の弁護士だと名乗った。社長が聞いたのは女の声だった。
「はじめまして。私はタレント事務所の代理人でございます。弁護士でございます。このたびは手前どものタレントがとんだご迷惑をお掛けいたしました」
女弁護士はあくまでも優しい声で昨夜の件はあみの監禁事件として位置づけていた。タレントとあみが僅かな時間だがホテルの一室に閉じ込めたことをまずは詫びていた。
「当人は警察に任意ではありますが取り調べを受けました。あれだけ勢いのある芸人なんですがショックだったようです。ノラリクラリと生きてきた男なんですが警察から監禁容疑を掛けられている。しかも未成年。ことによると誘拐犯人となるわ。あなたは大変な犯罪者になってしまうの。そうしたら(タレントは)すっかりショゲてしまいました」
電話を受けた社長は盛んに汗をハンカチで拭きながら弁護士からの詫びの話にハアハアとひとつひとつ納得をしていく。相手の話にすっかり乗ってしまったようだ。
だが横でその様子を見たマネージャーはどうにも納得ができない。
「あの男が素直に反省しているとは到底信用がならない。弁護士には適当に自分勝手な弁明を喋りまくっているだけだわ」
女弁護士は一通り謝罪をする。法律用語をフンダンに使い社長にはわけのわからない言葉もかなりあった。
電話の趣旨を要約すると今回のことは事件にはしないで欲しい。当人は猛省しあみにすまないことをしたと頭をさげている。
最後にはこれ以降もあみをタレントとしてトーク番組に出演させていただきたい。なんなら番組の中でそれなりの形であみに謝りたいと言った。あみのギャラは破格のタレント扱いにしたいとも言ってきた。
あみのギャラの面はなかなかずるいところである。
これから年末に放映の特別番組であみは女優としてお茶の間にデビューする。録画撮りをされた今の段階であみの演技は高い評価を受けていた。
女弁護士の設定したギャラ以上のタレントあみになることは予測ができていた。名古屋の事務所もその点は把握済みであった。
電話を受ける社長はまたまた冷や汗が出てしまう。あみのギャラはそんなにも低いままなのかっと帳尻がどうにも合わない。血圧がじわじわと上がり顔いろが悪くなってくる。
長年事務所に勤める事務員が血圧の高い社長の変化を察知した。
あらっ社長さん倒れそうだわ。あの電話がいけないわ。弱ったなあ重要な話なんだろうけど。なんとかあみちゃんのマネージャーに電話を代わってもらいお薬飲ませてベッドに寝かせたいわ。
事務員が心配したらすぐに社長はフラッとした。
あっ危ない!
すかさずマネージャーと星野が倒れ掛けた社長を両脇から抱えた。
電話はマネージャーに代わっていく。マネージャーは待ってましたとばかり張り切って喧嘩口調で切り返した。
「すいません。社長さんが血圧が高くなってしまい倒れてしまいましたわ。代わりに私がご要件を窺いますわ」
電話を受け社長の容態を確かめた。社長は降下剤薬さえ飲ませおけばどうでも回復をする。
「申し遅れました。私はあみのマネージャーでございます。社長に代わりまして御用を承りますわ。あみさんのマネージメントは私が一切取り仕切りさせていただいております」
敵が女ならば容赦しないわっ。
マネージャーは紺のスーツの衿をギュっと握り戦闘開始の合図とした。
さあっ弁護士だろうと大怪獣だろうとかかってこい。私を怒らせたら只では問屋が卸しはしないよ。
マネージャーは鼻息荒々しくいきまく。人目がなければ紺のスーツ姿のままスカートをたくしあげパンストの奥の(ピンクの)パンティをチラッ。机の上にドカンと居座りたかった。
お電話代わりました。さっそくでございますが私は昨夜の事件を直撃したのでございます。
私の携帯が鳴らなければどんなになったかわかりますね。最悪な事態、ウチの大切なタレントに取り返しのつかない事態になっていたか簡単に想像がつくしだいでございますわ。わかりましょうか。
女性マネージャーにいきなりガミガミ言われた女弁護士。それまでの社長とは格の違う(うるさい)相手が出たなっと斜に構えた。
事の起こりは100%タレントの男が悪い。女癖の悪さは折り紙つきの風情。ちょっとでも気に入るのが視野に入ると必ずちょっかいであった。
「まあ(タレントが)手を出した後始末に私は雇われているようなものですから」
所属先のタレント事務所から事件の揉み消し依頼がある。そのたびに女弁護士は腰をあげた。
民事ですから簡単な事案ですわ。そもそもあのタレントの名前を出せばことの是非云々は二の次になり大抵は私の思うように示談となりますの。相手の被害者タレントさんにもまったく非がないというわけではないし。まあ少し無理をしてテレビ番組に出演させてやるか。所属事務所に圧力をかけてギャラを奮発してしまえば皆っ一様に黙るの。そっ貝のようにね。
巨大なタレント事務所の強みをいかんなく発揮をしていく。
「あのぅ弁護士さん。聞いてくださいね。繰り返しますがそちらのタレントさんはあなたに事件のあらましをいかようにお話されていますか。社長にお話された内容は真実なのでございましょうか」
マネージャーは語気が荒々しくなる。
ウチのあみはレイプされそうになったのですよ。あの野獣のような男に無理やりホテルに連れ込まれたんですの。運よく私が電話を入れたから未遂で済んだだけのことでございます。一歩間違えば刑務所でございますわ」
貴女の答えいかんによれば告訴しても宜しくてよ。
婦女暴行罪。しかもあみは未成年。このタレントはこの手の多犯であり週刊誌のゴシップにはいつも話題にあがっていた。
女弁護士はやれやれと思う。この手の犯罪は具体的(物的)証拠は何もないはず。ホテルに連れ込んだのか。女の子が自ら進んでついてきたのか。状況証拠だけでは事件のあらましが残らないためにウヤムヤになる。弁護士の腕次第で示談に持ち込める事案である。
「でも告訴はまずいわ。この女やけに強気に言うわね。何か動かぬ証拠でもつかんでいるのかしら。ホテルでのタレントの会話を録音だとか」
危ういことは言えないなっと女弁護士は気をつけた。
「こんな程度で裁判だなんて。いちいち裁判されていては私の身が持たないわ」
暴行未遂だけでなく妊娠させた事案を思い出した。
「あのお笑いタレントとしての明るいイメージが潰されてしまうわ。事務所としても死活問題になりかねないわ。事務所の総収入の80%があのタレントなんだから。私の役目はとにかく穏便に示談で済ませることなの」
マネージャーと女弁護士の言い争い。話をタレントの仕業に持っていくとどうしても平行線を辿ってしまう。
マネージャーはますます苛々(いらいら)が募る。
「あのぉ電話では埒があかないようでございますわ」
マネージャーは人目も憚らず机に腰を掛けた。
この女なかなかしぶといわね。平謝りに謝りさえすれば事は穏便2示談に持って行けるとだけ考えているわ。
電話で話を聞くまでは憎たらしいあの男だったけど。今はこの弁護士のお陰で事務所ぐるみで悪に思えてしまう。
女弁護士はタレントの非を咎めることをしなくなり、なんとあみに問題があるかのごとき発言をしてきた。そのために売り言葉に買い言葉となる。
「なっなんですって。ウチのあみがホイホイとホテルについて行ったですって。自ら率先をしてベッドに男を誘いかけたですって」
マネージャーは机に尻をドンっと置く。
まったくやってられないわ。人を侮辱するにも程があるわ。
紺のスーツ膝丈スカートのまま足を組んだ。机の上でピンクのパンティがチラッと見える。いやそんなことは構わない。見えようがなかろうが。
酷いことを言うわ。こちらが法律のシロウトだと思って。偽証罪で訴えてやりたいわ。相手が弁護士であろうがなかろうが。
マネージャーは怒りながら電話を切る。
「あなたの主張はよくわかりました。追って社長と相談して今後のあみのタレント活動を考えさせていただきたいわ」
マネージャーはキッと鬼の形相になる。受話器を置き少し冷静になる。机の上でピンクのパンティを見せていたことに気がつく。
平然として組んだ足を直し(パンティを隠した)。
事務所にいるあみと星野を見た。
「あみさんの今後はどうするか。マネージャーの私と社長でまず決めていかなくてはいけない」
あのタレントのトーク番組出演を見合わせるべきか否か。
あみの稼ぐギャラはかなり高額になっていた。また暴行事件が勃発しないとも限らない。
マネージャーは大きな胸を支えながら腕組みをして悩んでいく。
「あみのタレントとしての売り出しにはあのトーク番組が必須になっていたわ。いくら地方でコマーシャルに出ていようが全国ネットの強み。あれには勝てない。弱ったなあ。突然明日からあみはトーク番組に出演しないとなると降ろされたと思われてダメージに繋がりそうね」
マネージャーが頭の中でぐるぐる考えを巡らせていたら高血圧の社長がムクッと起き上がる。
「おおっマネージャー君か。(電話の相手をして)済まなかったなあ。でどんな具合だい。相手の様子は。私には平謝りだったがね」
社長も頭を抱えながらあれこれと知恵を搾る。
「星野さん。大切な娘さんをとんだ事件に巻き込んでしまい申し訳ございません。後日改めましてあみちゃん共々御詫びにあがりたいと思います」
事務所で星野は撫然としていた。社長や女性マネージャーがいくら謝りをしても。
可愛い娘がタレントになるのは構わない。だが婦女暴行などという犯罪が日常的に起こっては父親としても今後のタレント活動は承知できはしなかった。
社長は星野に平謝り続いてあみの顔を眺める。
「あみちゃん。大変申し訳なかったね。怖かっただろう。あの男は女にだらしがないからね」
事務所の中であみの今後についてあれこれ話し合いが持たれた。
社長としてはタレントあみが魅力である。稼ぎ出すギャラが高額になって来たため簡単に活動を辞めてもらいたくはなかった。
「この年末に放映される特別番組もあみちゃんは好演されています。間違いなくこの放映で女優として人気が出てくると思います」
考えれば考えるほどタレントのあみは『金の成る木』であり『手放したくない女の子』になっていた。
社長とマネージャーがあれこれあみの活動の今後について話を出す。年末の特別番組はブレイク間違いないと。
だが星野は一言も発言はせず黙ったままである。ひたすら聞き役に徹していた。
社長が今後もタレントとしてお願い致しますという。
星野はスクッと立ち上がる。社長とは視線を合わせなかった。
横に座るあみを見て、
「さあっあみ。もうウチに帰ろうか。おじいさんおばあさんが心配しているからな。お父さんはすっかり疲れたよ」
社長は深々と頭をさげて冷や汗をタラタラ。再び倒れそうである。
あみは父親に従う。事務所を出る時に社長に向かい深くお辞儀をした。手にしたポシェットに一粒の涙がポトリっと落ちた。
帰宅したあみ。自宅には今か今かと祖父母が待ち構えていた。
「あみちゃん大丈夫かい。なんともなかったかい。おばあさんは心配で心配で眠れやしなかったよ」
あみは出迎えた祖母にワンワンと泣きつかれた。
「うんおばあちゃん。もう心配しないで。私はなんとか元気になったから。おばあちゃん泣かないでね。もう心配ないから」
祖父も同様である。可愛いい孫娘がとんでもない男の毒牙にかかったと知り怒りがこみあげる。
「ワシの大切なあみをなんてことしてくれる。あんなチャラチャラした世界はあみの行くとこでない。大人しく学校に通っていてくれたら満足じゃ」
その夜。あみの回復を願い久しぶりに鍋料理を囲む。あみの大好物である。
星野家では夕食に家族会議が持たれた。家長である祖父が大々的に発言をする。昭和ヒトケタの世代。
「あみが婦女暴行なんかもうまっぴらだ。最初に聞いた時にはワシは倒れそうになった。芸能人なんざスパッとやめさせろ。お前も父親としてちゃんと娘に言いなさい」
星野としては娘あみの自主性を重んじていた。
「おじいさんがあれこれ言っても。あみがすべてを決めるんだ」
外野がとやかく言う問題ではないと言いたかった。
鍋はグツグツと美味しそうな音を立て始めた。夕食が始まる。割烹着姿の祖母は御膳を取り祖父・息子・孫娘と御飯を盛る。息子の御飯だけは大盛りだった。
星野の妻が亡くなってからいつも見る星野家の風景である。
「おばあちゃん美味しいね。おネギさんがやわらかい。お豆腐さんも美味しい。いつもおばあちゃんの味つけ美味しいもん」
子供の時から変わらないあみの可愛さである。美味しそうに箸を動かしパクパク食べていく。
祖母には孫娘あみは目に入れても痛くない存在。母親が死んでどうなるかと心配したあの時のことを思い出す。
こんなけなげな娘が再びあの鬼が棲むような世界に。あみは私がしっかり育てているのよ。変な男にちょっかいなんて出されたくはない。できるものならこの街であみに生活してもらいたい。私たちの目の届くところで。
鍋料理の好きなあみが元気におかわりをする。祖母はにっこりとして椀を受けた。旺盛な食欲はあみの健康のバロメーターである。
「あみちゃんモリモリ食べてね。お肉も野菜もたんまりあるからね。おうどんはもういいかい」
あみは芸能活動は辞めるつもりはなかったようだ。父親や祖父にはなんとも言い辛いところであった。
東京のタレント事務所。あみ監禁の翌日の様子である。
警察から任意出頭を言い渡された司会者が息巻いていた。
「なんやねんなあ。警察や事務所のみんなまで。まるでワイが犯人みたいな扱いやないか。不愉快やでまったく」
タレントはホテルの一室であみにトーク番組のネタを教えていただけと説明をした。
「せやさかいなっ。何度も言うたやないか。トーク番組の中にギャグを入れたいさかい直接あみに教えたらなあかんと思たんや。警察でも説明したんやで。ホンマやで。なんならあみに直に聞いてくれまっか」
手振り身振りで身の潔白を証明しようとする。
端で聞くのは女弁護士だった。
「状況証拠がないからなんとか起訴だけは免れたわ。しかしこのオッサン煮ても焼いても喰えん奴だわ。自分の保身しか考えないんだから。誰があんたのでっち上げを信用すると思うのかしら」
タレントは事務所の中に響き渡るような大声で盛んに釈明を繰り返した。
せやさかいっ。ワイは潔白やで。でなあっワイが(あみに)指導したさかい。
事務所の職員は全員がウンザリする。また始まったかっこのオッサンの病気っ。呆れ顔であった。
昼近くになると事務所の周りに芸術記者が集まる。ざわざわとして来る。
「またあのお騒がせタレントか。相手はトーク番組の売れっ子娘。ホテルに連れ込んで楽しんだという触れ込み。うーん相手の女がインパクト弱めだな。三面の囲み記事程度にしておくか」
記者同士であらかじめ予測記事の原案を練る。
タレント事務所のドアが開く。記者たちはドッと流れ込み司会者からの釈明会見を聞く。
せやさかいなっ。(あみに)番組のトーク指導をしたまでなんや。それがホテルやさかい妙な誤解を招いてしもたんや。だからなっ誤解されたから警察さんに行かされてしまっただけなんや。すべては誤解や誤解でおまっ。お巡りさんかて誤解やでぇって言うてはりましたわ。
あくまで身の潔白だけを強調する司会者である。
「なるほど。トーク番組の指導をされていたんですか。しかしなぜ誤解が生まれやすいホテルの部屋で指導を。また番組にはかなりの女性タレントもいるのに。個人的に指導をされるならば番組のスタジオやホテルのラウンジとかでもよかったではありませんか。マネージャーをわざわざ他所に追いやってまで指導する必要はないでしょうに」
ひとりの記者が代表してインタビュー。この男の答えは身の潔白を説明することのみに終始していた。釈明はダラダラと長きに渡る。誰ひとり潔白など信じてはいない。会見はつまらないものとなり早めに記者たちは事務所を引き上げた。
日を改めて記者たちにあみがトーク番組を降りることが判明する。
「なんだって。あのドル箱番組を降りる?奴さんかなりなことを女の子にしたらしいな。おい女の子の取材に行こうぜ。事務所はあらっ名古屋かっ。遠いなあ」
司会者の耳にあみの降板が入る。連絡を受けたマネージャーはどうなることかとヒヤヒヤしていた。
「なんやて。あみがワイの冠なトーク番組を降りるだと。どこのどなたが許可したんや。誰が責任持ってあみ降板を認めたんや」
男はマネージャーをまず怒鳴り散らした。
「おい叱られついでにや。あみの事務所に連絡取ってんか。今からやで」
誰が降板の許可したんか知りたいだけなんや。けたくそ悪いで。
男のマネージャーが電話を名古屋の事務所にかけてみたが。
「あのぅすいません。先方の社長さんは居ないそうでございます」
男は電話をよこせっと無理やりにマネージャーから奪い取る。
「ちょい貸せ。ワイが話すさかい」
男が話すと聞き覚えのある中年の声がした。耳聡いお笑いタレントである。すぐさまピンッと来た。
「あんさんは前におったオッサンやな。あんたはんではあかんさかい。社長はんに代わりぃな」
※前に話したオッサン=社長さん。
「ハッこれはこれは先生(タレントの司会者)でございますか。あいすいません。生憎社長さんは出掛けてまして事務所にはおりません。帰りましたら先生からの電話を伝えておきます」
社長は電話が例のタレントとわかると冷や汗が流れた。あくまでも居留守を使っていく社長である。
こんなもんに社長でございますと名乗ってしまったら大変な騒ぎになりかねない。適当に相手をして退散してもらいます。
「あんなあっまた問題なオッサンかいな。あんたの社長はんは携帯持たないいうたなあ。あんたはーやなあ。まったく埒があかんさかいな。ほならっあみのマネージャーの電話番号教えてぇな。マネージャーやったら公人やさかいワイが掛けても文句ないやろ。あみの番組出演の直接交渉やさかいどうしても必要やで」
マネージャーの電話番号を教えろ。社長はドップリ汗だくになる。マネージャーが携帯を持たないことはない。いかにして嘘をつくか。
社長がシドロモドロしていたら運よくあみの担当マネージャーが帰社してきた。
マネージャーはあみが休みのために事務職員になっていた。
「あらっ社長どうかされましたか。えっ例の司会者が電話ですか。弱りましたね」
マネージャーも事務所もあみとは仲違いの状態である。あれこれとあみに聞きたいのはマネージャーであり社長であった。
「君っひとつ頼むよ。この男はしつこいからな。男あしらいのうまい君ならなんとかなるだろ」
社長は受話器をマネージャーに手渡した。そして事務所を出てしまう。デブちんであるが駆け足でサッさと行く。
「気分転換に喫茶にいるわ。抹茶スパ食べてるからな。なんかあったら携帯鳴らしてな」
肥満な体をユサユサさせて。にっこりしながら後は面倒だからマネージャー頼むよっ。出てしまう。
マネージャーは困り顔でタレントからの電話に出た。
「もしもし。あみの担当の者でございます。当事務所の社長が不在なために私がご要件を承ります。いかなことでございましたか」
司会者は電話口に女性マネージャーが出たと喜びである。女だったら軽々(けいけい)に丸め込めると威圧的になる。いつもの女たらしの顔であった。
「あんなあっマネージャーはん困ってしまうで」
のっけから挨拶もなく。
「トーク番組はワイの命なんや。その命の大切な出演タレントはんを勝手に出演させへんとはどないこっちゃねん。あのあみはな人気あるタレントさんやで。あみが出ないさかい視聴者から苦情の電話やメールもろたんやで」
あみが出演しないのはさもあみ自身に問題があるという口調で押し切る。
「なあっワイはなんとも思っていへんさかい、マネージャーはん。あみを再度トーク番組に、ワイの冠番組に出させてぇな。年末の特別番組に女優として出てんやろ。せやなあギャラは大幅にアップさせてもろってかまへん。ウチの弁護士の先生も言うたはずや」
マネージャーはしばし冷静になる。あみがタレント業に嫌気が差し休んでいるのは一体どこのどなたが原因なのか。この電話で怒鳴りたくなる。だが理性が暴虐さをなんとか抑えた。
マネージャーはゆっくりした口調でしゃべりまくる司会者に答えた。
「あみはあなたを毛嫌いしております。この嫌悪が治らない限りトーク番組には出演を見合わせたいと思います。あしからず。では要件はすべて済みましたから電話を切らせていただきます」
ガチャン
司会者は話の途中で電話を一方的に切られムッとする。
なんやっこの女は。なに言いているこの尼女。だから30独女はあかんのや。ワイを誰やと思ってんねん。お笑い界きっての売れっ子タレントやぞ。ワイに歯向かってきたらどないなことになるかわかってんのか。このっドアホ!
当代きっての売れっ子タレントをどうやら怒らせてしまう。
司会者はあからさまに不満をマネージャーにぶっつけた。
「おいマネージャー。なにボケッとしてんねん。お前なあ今から芸能記者呼んで来いや。せやなぁ女性週刊誌か一般の週刊誌か。インパクトあるのは」
翌週の週刊誌にはこのタレントのゴシップが大々的に掲載をされていた。内容は『トーク番組のタレントあみとの濃厚な一夜』であった。
週刊誌が店頭に並ぶとテレビのワイドショーが追い掛け始めた。
トーク番組の収録スタジオは週刊誌記者とテレビクルーで埋まった。
「あみって。あみってどの方かしら。デレクターさんに聞けばわかるかなあ」
突撃テレビリポーターはマイク片手にあれこれとタレントのゴシップを視聴者に垂れ流した。
「皆さんこんにちは。突撃リポーターです。ただいま深夜の人気トーク番組の収録現場に来ています。まもなく収録の本番が始まるところでございます」
まるで火事現場からの中継のように慌てふためきリポーターは収録番組の様子を伝えていた。リポーターはテレビワイドショーの生中継であった。
司会者は自分からゴシップを撒いた張本人である。悠然と時計を眺めながらスタジオに現れた。生中継の最も盛り上がる時間に姿を見せる。すべては計算されていた。
「あっただいま司会者が来ました。お笑いタレントが現れました。まるで何事も(ゴシップは)なかったかのようにスタジオに現れました」
突撃リポーターが司会者を見つけ歩みよる。他のリポーターや芸能記者を押し退け押し退け。
司会者の前に強引に出た。マイクをつきつけた。
「あのぅトーク番組の女の子とホテルで一夜過ごしたというのは本当ですか」
司会者は来たなっとニンマリと笑う。
あかんあかん。このワイドショーは生中継のはずや。ニコニコしてたら変に思われてしまうわ。ムッとしてなあかんさかいな。
ワイはワイドショーなんて迷惑やさかいっと。
リポーターに食いつかれいきなり迷惑な顔を作った。さらに突撃リポーターには不愉快だと言わんばかりに無視をする。だが本心は手でマイクをむしり取り自分の撒いたゴシップを話たくてたまらなかった。
「あのぅお相手の女性はどなた。この番組のタレントさんなんですのね」
突撃リポーターはぐるりとスタジオを見渡す。いたりところに可愛らしいタレントがいた。これだけの人数ならばタレントのあみという女の子がいるかもしれないと期待をしたのだ。
司会者は本心とは裏腹に高圧的になる。リポーターを敵視した。
「なんやねんいきなり。あんさはん失礼やないか。妙な言い掛かりはつけんといてぇな」
言い掛かり。いやいや司会者がワイドショーにゴシップを売り取材して欲しいと電話を入れていたのだ。言わばヤラセである。
突撃リポーターはあれっちょっと勝手が違うなっと戸惑う。話題に詰まり適当なタレントをあみに見てしまう。
「(お相手は)あの方かしら。カメラさん追い掛けて」
司会者は慌ててしまう。自分がしかけたゴシップであり自分の思った通りにお茶の間に流れてくれないと。ゴシップの相手を適当に見繕うなんて。スタジオにいるタレントもかなりに"お手付き"がいた。
非協力的な態度を改め突撃リポーターに話を始める。
「ゴシップの相手はあみやで。(違うタレントとのことを掘り返されたらたまらん)」
血相を変えてリポーターのマイクにしゃべる。
「あみは今このスタジオにはいやせんさかい。ゴシップ言うてもな」
お笑いタレント独自の話術が始まる。突撃リポーターは単にマイクを差し出しているだけでよかった。
ワイドショーはワイドショーで盛り上がることができた。それはあみという新進気鋭なタレントが相手であるから。古株のような女優やいつもいつもゴシップに名を列ねるタレントとは違うお茶の間の反応である。
だがあみとしては名前をテレビでゴシップとして流されては堪らない。事実とはまったく異なることでもある。
生中継のワイドショーを見ていたのはあみの祖父母である。お茶の時間だからと祖母がつけたテレビがそれだった。こぶ茶を飲みながら祖父は怒る。
「あの男って。まったくけしからん奴だ。ワシの孫をなんと思っているんだ。不愉快だ」
祖父は腸が煮えくり返る。
名古屋のタレント事務所は全員がテレビを見た。
「ちくしょう。あんなことを好き勝手にペラペラしゃべりやがって。なんとか法的な措置を取りたいものだ」
怒る高血圧の社長がこの場では珍しく平常心でいた。社長はすぐに顧問弁護士に連絡を取る。タレントあみの肖像権やプライバシー侵害。なんとでも罪状をつけて法廷で争いたいとした。
父親の星野にも連絡を入れる。星野はテニスの試合に出掛けクラブハウスにはいなかった。
「わかりました。副支配人には帰りましたら連絡をしておきます。夕方にはクラブに戻って来ます」
社長はひとりハシャギ出した模様であった。
「あの野郎。黙っていたら好きにやりやがって。もう勘弁ならない。告訴してやる。法廷で平謝りさせてやる」
顧問弁護士から電話が入った。弁護士はまずは社長に気を鎮めなさいと諭す。
「私も今ワイドショーを見せてもらいました。確かに社長さんの怒ることもごもっともですが」
訴訟は無理ですねと断言された。物的証拠がないところに男女の問題が絡みます。つまり当事者しかわからない密室のことばかり。法廷で言い争うのは極めて困難です。第一に証人がいない。あみさんひとりだけ証言されてもなんともならないのが現実です。
弁護士は訴訟は諦めて示談にいや話し合いで穏便に済ませるのが得策ですと言う。
第一。告訴したらあみちゃんに婦女暴行の現場を証言させなくてはなりません。あの男はこの手の訴訟はいくらでも山を踏んでいますから太刀打ちできないでしょう。
夕刻には星野から事務所に電話が入ってくる。社長が直接に取る。
「社長さん。あの男のワイドショーの件ですが」
星野は子供のテニスに掛かりきりで手がまったく離せない。あみのどうたらこうたらなどもうウンザリしていた。
「訴訟だとか名誉だとか。いい加減にしてくれませんか。あみは私の娘です。あなた方タレント業界のオモチャではないんですよ。今夜あみと話し合いを持つつもりですがね。はっきりとタレント事務所とは縁を切りたいと思います。あみは普通の女子大生になりたいですよ」
星野には妙案があった。これからはテレビや週刊誌であの男のゴシップのため痛くもない腹をあみは探られることになる。
ならば日本にいなくて海外に留学をさせてやりたいと思った。
「可愛らしいあみをひとりだけ留学は父親としては許し難い。だが私も一緒ならば大丈夫だ」
さっそく夕飯時にあみに話を切り出した。
「えっ留学するの。欧州にテニス留学なの。あっ私ではなくて。そうかテニスはお父さんね」
あみは父親の大学留学について欧州に行く。欧州には世界テニスで戦う近藤が待っていた。
お兄ちゃんに逢えるなんて。
あみは星野に附随する形で語学留学となる。女子大には短期留学願いを出して受理された。