この世で一番愛しい子
「来る」
リビングのかけ時計を見て呟くと、背後で笑い声が聞こえた。
「そりゃ来るでしょうね、約束したんだから」
「わかんねえだろ、途中で気が変わって……気が、変わって…………」
志田の脳内で、ありとあらゆる想像が巡った。
「来ないかも!」
愕然として膝から崩れ落ちそうになる。血の気が引いていくのを感じ、思わず頭をかかえた。
「どうしよう、姉ちゃん! 勝山来ないかも!」
「約束破るような子なの?」
「そんなわけねえだろ! あんなに素直でまっすぐできらきらしてて天使そのものの勝山が約束を破ったり嘘をついたりするなんて地球が割れてもあり得ない!」
ひと息に言いきった志田に、姉はあきれ顔を向けた。最近の姉はいつもこんな顔をしている。志田が泣きついてばかりだからだろうか。
だって他に頼れる相手がいないのだ。それに、勝山の可愛さを語りたい衝動に駆られたときは、姉なら同じ家に住んでいることもあり、すぐ対応可能。五歳上の姉には志田が幼い頃から面倒を見てもらっていたが、まさか高校三年生になっても変わらないとは思わなかった。
「来る……来ない……来る……来ない」
花瓶の花の花びらを、一枚ずつでも取っていくのは気が引けたので、一枚ずつ指さしながら呟く。
「花占いなんてやってるんじゃねーわよ」
「だって勝山はめちゃくちゃ可愛いんだ! 俺なんかと時間をすごすより、もっと有意義な時間の使い方を――」
ふっと想像が頭をよぎり、またも血の気が引いていく。
「可愛すぎて誘拐されるかも!」
「あんた、ちょっと落ちつきなさいよ」
冷ややかな視線を向けられ、悔しく思いながらも深呼吸を数度した。だいぶ脳に酸素がいったようで、視界がクリアになった気がする。
ポケットのスマートフォンが通知音を鳴らし、跳びあがりそうになった。おそるおそる画面を見ると、勝山からのメッセージだった。『もうすぐつくよ』のあとに笑顔の絵文字がついている。
「もうつくって。あんた、その状態で大丈夫なの?」
「姉ちゃん、このにこにこした絵文字って、勝山も楽しみにしてくれてるってことかな?」
「まあ、そういうことでしょうね」
「めちゃくちゃハッピー」
世界に花が舞っている。今にも踊り出したいくらいだ。メッセージをもう一度読みかえしていたら、勝山の顔が画面に浮かんだ気がした。
「好きだ、勝山」
「ちょっと、本当に落ちつきなさいよ」
「……」
せっかく愛を伝えているのに、姉はタイミングよく邪魔をする。なんにしても、もうすぐ勝山が志田家に来る。両親は相変わらず仕事で、姉はなぜかこれまたタイミングよくアルバイトが休みだった。
「あのさ、姉ちゃん」
「今度はなに?」
「ベッドは整えたほうがいいかな」
「あんた、けっこう危ねーわね」
冷ややかな笑みを受け、ベッドは整えなくていいと理解した。そんなつもりはないけれど、一応というか万が一というか、備えあれば患いなしだと思っただけだ。でも姉のこの様子から、ベッドに関しての話題を振るのもよくないかもしれない。ベッドは意識から除外だ。
姉にあきれられながらまた花びらを数えていたら、インターホンの明るい音が鳴った。いつもの音より明るく聞こえるから、間違いなく勝山だ。
「高俊、早く出迎えないと」
「あっ、あ、……いらっしゃいませ」
「まだ本人をあげてないでしょ」
「リハーサルなの!」
といってもこんなことをしていて、勝山をいつまでも外で待たせておくわけにはいかない。本当に誘拐されてしまったら大変だ。そもそもあの可愛さで、ひとりで外を歩いていいのだろうか。
モニターを確認すると、この世で一番可愛い男が映っている。感極まって玄関にダッシュした。機械越しで話すなんてしたくない。勝山の可愛い声はすべてこの耳で聞く。
「志田くん、おはよう」
「お、おう」
「私服でも恰好いいよね。はじめて見るわけじゃないのに、毎回どきどきしちゃうよ」
頬を赤らめた勝山は、照れくさそうに微笑む。即座に抱き寄せたくなり、伸ばした手をばっと背後に隠した。なんて我慢のきかない手だ。
「どうしたの?」
「別に、なんでもない。あがれよ」
(あがってください、後生ですからお願いします、くらい言え!)
脳内の自分がぎゃんぎゃんと怒鳴っているように感じる。とりあえず脳内の自分をシャットアウトして、勝山にのみ意識を向けた。
「勝山って、そういう服着るのか」
いつも勝山が着ている私服は、柔らかい色が多い。勝山にぴったりで、なにを着ても可愛い。でも今日はダークグレーの長袖シャツに、黒のジーンズだ。落ちついた雰囲気で、これはこれで小悪魔っぽくて可愛い。
小悪魔な服装を眺めていると、勝山はさらに頬を赤く染めた。
「実は、ちょっと真似してみたんだ。いつも志田くんが着てる服の感じ」
「!」
「あ、ごめん! もしそういうの嫌なら、もうしないから!」
表情が固まった志田を見て、勝山は慌てた様子で手と首を左右に振る。もともと小柄なのに、さらに身を縮こませて肩を落としている。
「……ごめん。僕、志田くんと恋人になれてからずっと浮かれちゃって。迷惑かけてたらごめんね」
「こ、恋人……」
「え?」
「いや、なんでもない。別に嫌とかないから気にすんな」
わざとらしい咳ばらいをして、感動が溢れたひと言を隠す。
(勝山が俺を恋人って言ってくれた!)
きっと今なら天まで飛べる。単純だとはわかっているが、可愛い勝山の恋人にしてもらえたのだ。浮かれたり素直にはしゃいだりしてもいいと思う。だめでもする。
「とりあえずあがれよ。ここでしゃべっててもしょうがねえし」
「う、うん。お邪魔します」
どこか緊張気味な表情になった勝山が志田家の玄関に入った。志田のプライベートゾーンに勝山がいることだけで感動する。
「いらっしゃい、のどかくん」
「あ、お姉さん! おじゃまします」
姉の姿を見て、ぱっと顔が明るくなった勝山は可愛い。だが姉をこれほど憎く思ったことはない。
「姉ちゃん! 俺だってまだ呼んだことないのに!」
「早い者勝ちよ」
ふふん、と口角をあげる姉に、悔しさのあまり地団駄を踏みたくなる。でも勝山がいる前で、そんな子どものようなことはできない。眉間にしわを寄せるだけに留めると、シャツの袖をくいくいと引っ張られた。見ると勝山が真ん丸の澄んだ瞳で志田を見あげていた。
「あのさ、よかったら志田くんも僕のこと『のどか』って呼んで?」
「っ……!」
「それで、……できたら僕も、志田くんのこと下の名前で呼びたいなあ、なんて。へへ」
「っ!」
この会話だけで何度心臓を撃ち抜かれただろう。可愛すぎる。
「高俊くん、って呼んでいい?」
「――」
一瞬天国が見えた。
「高俊くんも、呼んでみてくれる?」
「の…………のどか、くん」
「『くん』は、つけなくてもいいよ?」
「そ、それは冒涜の度を超えてるから……」
挙動不審になった志田に、勝山が首をひねる。勝山とのやりとりを眺めていた姉は、はあああ、と盛大なため息をついた。
「あんた、けっこう情けないよね。ばしっと呼び捨てにしてあげなさいよ」
「うるせーな! 姉ちゃんは邪魔するな!」
志田と姉のやりとりに、勝山は噴き出している。勝山が楽しいのならいいけれど、姉はいろいろと厳しいしひどい。
「もし嫌じゃなかったら、高俊くんの部屋、見せてもらってもいい?」
「見ても楽しいものなんてないけどな」
(なんで俺はこうなんだよ!)
見たいと言ってくれているのだから、素直に「いいよ」と答えればいい。それがどうして、こんなに素直さのかけらもない言葉になるのか。昔から自分は不器用だと思っていたが、不器用以上にひねくれているのではないか。
「高俊くんがいつも生活してる部屋だから、ずっといても楽しいよ!」
目をきらきらとさせて顔を見あげてくるので、思わずあとずさった。眩しさの破壊力がすごすぎる。むしろずっといてほしい。
とりあえず姉に見送られて階段をあがり、志田の部屋にふたりで入った。ベッドは意識から除外している。見えない。
「すっきりしてるんだね。あんまり物とか増やさないほうなの?」
「まあ、必要なものだけあればいいかなって」
「すごいなあ。僕、すぐいろいろ集めちゃうんだよね。可愛いものとかふわふわしたものとか、つい買っちゃって。今の僕の机すごいことになってるよ」
「ふうん」
(見に行きたい! ていうか可愛くてふわふわしたものって、勝や――のどかくんだろ!)
「今度うちにも遊びに来てね」
「!」
誘ってくれた喜びで、また世界に花が舞った。とりあえず心を落ちつけるために、飲みものとお菓子を取りに行くことにした。階段をおりながら延々と深呼吸をする。
(今日ののどかくん、いつも以上に可愛すぎねえか)
志田の普段の服装の真似をしたり、下の名前で呼んでと甘えてくれたり。天使だ。
冷蔵庫から麦茶のペットボトルを二本出し、今日のために買っておいたチョコレートを手に取った。
勝山は甘いものが好きで、ミルクチョコレートが好きだ。ビターチョコだと苦いと感じるらしい。可愛い。
飲みものとチョコレートを手にした志田に、姉は意味ありげな目を向けてくる。
「なに?」
「んーん、弟が幸せなところ見られて嬉しいだけ。ついでにのどかくんも可愛いし」
「は? なんでのどかくんの可愛さがついでなんだよ。のどかくんが世界のメインだろ」
「あーうん、わかったからさっさと部屋に戻ったら。のどかくん待たせちゃよくないよ」
笑いながら手を払う仕草をされ、むむむ、となる。志田としてはまだ言い足りなかったが、たしかに待たせるのはよくないので自室に戻る。部屋に入って勝山が座っているのは、とても不思議な気持ちになる。
ローテーブルのそばに隣りあって座り、チョコレートを口に入れるたびに満面の笑みになる勝山を眺める。絶景だ。
「高俊くんは食べないの?」
「のどかくんが全部食べればいい」
「えっ、だめだよ。おいしいものは好きな人とわけっこ。はい、あーん」
「!」
ずいっと距離が縮まり、口もとにミルクチョコレートを差し出される。チョコレートをつまむ指先が丸くて可愛くて、勝山に可愛くないところが存在しないことを確信した。
「ほら、高俊くん、あーん」
近い距離で志田の顔を見あげ、指でつまんでチョコレートを差し出している。どこからかいいにおいがしてきて、思わず夢見心地になった。
(小悪魔……)
気合いを入れて、差し出されたチョコをぱくりと口に含む。だが勢いがつきすぎて、勝山の指まで唇に含んでしまった。勝山はくすぐったそうに笑う。
「食べられちゃった。食いしんぼうさんだね」
(小悪魔……!)
言動のすべてが可愛い男が存在するなんて、しかもその男が自分の恋人なんて、本当にありえるのだろうか。
これほど愛しく思える子がこの世に存在する。こんな幸せを志田はまったく知らなかった。
終




